3、嫉妬の果て
どうやって家に帰ったのだろう。昨日の夜の記憶が数か所抜け落ちていた。水上と飲みに行ってスイッチが切れたところまでは覚えている。そこからの記憶が飛び飛びだった。
そっと左腕に触れると若干の走るような痛みがした。ああ、またか。見てみるとそこには新しい線が増えていた。
「醜いな……」
僕は傷を直視するのを辞めた。きっとずっと見続けていたら、勝手に入ってもないスイッチが切れて、どうにかして傷跡を消そうと腕を強く掻きむしることになるだろう。僕は傷一つない綺麗だった頃の自分の腕が思い出せなかった。
今日は何もしたくない。完全に昨日の反動だった。タバコを吸おうと思い、立ち上がろうとするも、身体に力が入らず、動くことができなかった。
かろうじて枕元に投げ捨ててあったスマホをいじることはできたので、昨日の謝罪を水上にすることにした。記憶はないがきっとかなりの迷惑をかけたはずだ。
『昨日は迷惑をかけてすみませんでした』
それだけ送り、覚醒してしまった意識をどこかに飛ばそうと試みたのが失敗だった。僕の意識は過去の記憶に飛んでしまった。
『許せない。どうしてお前らは楽しそうに笑っている? どうして何の努力もせず、苦しむことも、邪魔もされずにお前らは笑っているんだ? どうしてここまで苦しめられ続けてきて努力し続けてきた僕だけが報われないんだ! ふざけるなよ!』
負け犬の遠吠えだった。僕はずっと考えていた。なぜここまで世界は不平等なのかと。同じスタートラインに立っていたはずの人達は何不自由なく前に進み続けている中、どうして僕一人だけが進むことを許されなかったのか。結局それに対する答えはいつも一つだけだった。その答えを教えてくれたのは、最後の最後で僕を裏切ったたった一人の大切な味方だった。
『人の悪意からくる行動に限界なんてものはない。一度曝されてしまえばその時点でおしまいなんだよ』
もしも、僕が恵まれた環境にいたらどうなっていただろうか? もしも、努力することが当たり前に許される場所にいたらどうなっていただろうか? もしも、あの悪魔に出会わなければどうなっていただろうか? もしも、普通の人になれたらどうなっていただろうか?
わかっている。そんなこと考えるだけ無駄だと。結局その思考の先に残っているのは、何もできなかった無力で無能で惨めな自分の姿だけなのだ。
僕には才能さえもなかった。仮に努力が許される環境にいても、僕には何かを成し遂げられるほどのものが何一つとしてなかった。結局はすべてないものねだりなのだ。
過去の記憶に送り出した意識が戻ってくると、僕はそろそろ続きを書かなければと思い、重たい身体を起こし、どうにかしてパソコンの前に座った。しかし、パソコンの電源を入れ、数十分が経っても、僕は一文字も書くことができなかった。言葉が涸れたのだ。
どうしたものかと頭を抱えていると、スマホから着信音が鳴った。見てみると水上からだった。
『気にしないでくれると嬉しいな。私、また君に会いたいし、君の物語が読みたいし、君と飲みにも行きたいからさ』
優しく、気遣いのできる人なのだろう。僕はそれに甘えることにした。
それよりも問題はこっちだ。言葉が出てこなくなるとは思わなかった。それにこんなことになるなんて思ってもいなかった。ただ記憶の整理をしているだけと言っても、それにふさわしいやり方がある。無理やり言葉を引っ張り出してまで続きを書こうとは思えなかった。ここにきて、また僕は自身の無能さに邪魔をされる。
誰かに相談できればよかったのだが、僕にはその誰かはいない。自分一人だけで解決し、答えを見つけなければならない。もう一度意識を飛ばそうかとも思ったが、それは今の自分の精神状態を加味しても得策とは思えなかった。
僕は着替えて外に出ることにした。何か考え事を長時間するとき、外の空気を吸いながらタバコを吸って歩くのが僕にとって習慣に近いものになっていた。だが、ここで一つ問題がある。カーテンを閉めているから外の天気はわからないが、今は昼間だ。スイッチの入っていない状態の僕が外に出るにはいささか抵抗のある時間だった。少しの逡巡の後、僕は意を決して外に出ることにした。家を出る前に薬を多く飲んでから。
外は雪が降っていた。曇り空は太陽の光を遮り、薄暗い視界の中で風に煽られながら雪が降っていた。これなら問題なさそうだ。僕の一番の敵は太陽から降り注ぐ日差しだからだ。
息を深く吸うと雪の匂いと冬の澄んだ冷たい空気が肺に送り込まれた。それは中々に気分のいいものだった。タバコに火をつけ、降る雪で火が消えないように軽く注意しながらその煙を吸う。タバコの味はいつもより数倍美味かった。
僕はまず何について考えるべきなのかを考えた。ただ言葉が出てこなくなったことについて考えることは違うと直感していた。僕が書くべきこと、僕が何を感じていたのか、それについて考える必要がある。
そこで僕がまず考えたのはこの感情の名前だった。僕が綴ろうとしている感情の名前、僕はそれを知る必要がある。きっとさっき意識が飛んだ記憶にヒントがある。
負け犬の遠吠え、スタートラインから一人だけ進めないこと、もしもの話、才能……
答えは案外簡単なものなのかもしれない。いや、考えるまでもなかった。僕は、過去の僕は嫉妬心の塊だったのだから。今更それに気づいたことが可笑しかった。
タバコの煙を吐き出すと次は嫉妬について考えていた。嫉妬そのものに対してではない、その先にあるものについてだ。強すぎるその感情は人をどのようなものに変えるのだろう?
しばらくの間僕は歩き続けた。頭の上には雪が積もり、タバコを持つ手は寒さで感覚が遠くなっていく。しかし、冷たく寄り添ってくれる外の空気は、僕の思考を冴えたものにしていた。
醜さ、これが僕が導き出した答えだった。どこまでも嫉妬に狂い、自身の無能さを自覚させられ続けた結果、僕の心やものの見方は醜く歪んでいった。
「ああ、これか」
答えが出た今、改めて過去に意識を飛ばす必要がありそうだった。だが、ただ意識を飛ばすだけではない。今なら言葉が出てくるだろう。僕は頭や肩の上に積もった雪を振り払い、家に戻った。
パソコンの前に座ると、さっきまでの状態が嘘かのように僕はすんなりと言葉を紡ぐことができた。それは途中で止まることなく、一通り書き終えるまで僕の意識は戻ってくることはなかった。
どのタイミングでスイッチが入ったのかも、切れたのかもわからなかった。気がつくと僕はウイスキーを穏やかに飲んでいた。タバコを一口吸い、その後味をウイスキーで流し込んでクリアにする。実に平和な夜だった。
今日はある程度続きが書けた。進捗を水上に見せよう。そう思い僕はスマホを開いた。
『明日空いてる? 続き結構書けたから、もしカフェ来れそうだったら会おう』
そう送り、スマホを投げるとすぐに着信音が鳴った。確認してみると彼女からだった。早いものだ。
『空いてるよ! 夕方頃に行くね』
酔いのおかげでぼやける視界の中その返信を見てどこか満足している自分がいた。そしてその気分のまま僕は眠りについた。
目が覚めると昼過ぎだった。どうやらアラームの音が聴こえないくらい深く眠っていたらしい。珍しいものだ。
すぐにシャワーを浴びて着替え、カフェに行く準備をした。少し時間は早いが、先に行って昨日書いた内容を見返したり続きを書いたりしよう。そう思い僕は家を出た。
カフェに着く間、すれ違う人は大学生くらいの歳の人が多かった。恐らく近所の大学の生徒だろう。僕が辞めた大学の。
タバコを吸いながら道の真ん中を歩く僕を彼等は迷惑そうに見て、あからさまに嫌そうにし、咳をして僕にアピールしてきた。知ったことか。
カフェに着くと顔馴染みの店員に待ち合わせだと伝え、広い席を案内してもらい、パソコンを広げて作業を始めた。そこには研ぎ澄まされた醜さが広がっていた。
これを読んで水上はどう思うだろう? 純粋に気になった。そんなことを考えながら作業を進めているうちに二時間ほどが経っていた。そろそろ彼女が来る時間ではないだろうか。そう思って顔をあげ、店内を見回すと丁度彼女が店に着いたところだった。
彼女は手をひらひらと振りながら僕のいる席までゆっくりと歩いてきた。
「待たせちゃったかな?」
「気にしなくていい。僕が早く来すぎただけだから」
「ならよかった」
彼女は紅茶を頼むのを見ながら、僕は彼女にファイルを送った。
「ありがとう。それじゃあ早速読ませてもらうね」
「ああ、そうしてくれ。そうだ、この間読ませてもらった小説、今日も持ってきてたりしない? 続き読みたいんだけど」
「そう言われると思って持ってきたよ。はいこれ」
そう言われて差し出された小説を受け取り、彼女は僕の書いた物語を、僕は彼女が一番好きだという物語を読んで過ごした。
一時間ほど互いに無言のまま時間が過ぎた。その間に僕は彼女から借りた小説を読み終わり、彼女は僕の書いた物語を読み終わったようだった。顔をあげるタイミングが一緒だったのだ。
「今回も読ませてくれてありがとう。すごいよかったよ。特に、起こった出来事すべてに対して抱いた感情を負け犬の遠吠えって結論付けるの、なんだか切ないような悲しいような気持になれてすごくよかった。後はやっぱり現実味が強いね。君の記憶をそのまま覗いているみたいな感覚になるよ」
「そう言ってもらえて何よりだよ。君から借りた小説、読み終わったよ。君がこれを好きだっていう理由がわかった気がする。どうしようもない人生の中で足掻き続ける人間ほど美しいものはないね」
「そうでしょ。そうでしょ。どん底の中で生きる人がその中で幸せとも呼べないくらい小さくて些細なことで笑っているような感じが私は好きなんだ」
彼女から借りた小説の内容はこうだ。愛のない世界で、一人の男が自分が愛した女の幸せを望むも自分では彼女を幸せにできないと泣き、悲しみの中で彼女のもとを離れ、実際には起こらなかった過去の記憶に縋る物語。
「『愛がない』ってタイトルだけど、これほど愛に溢れた物語を今までの人生で僕は読んだことがないよ」
「ふふ、初めてこれを読んだときの私と同じこと言ってる」
それがなぜだか可笑しくて笑ってしまった。
「こんなに素敵な文章が書けるの、純粋に羨ましいな」
僕が小声で漏らした言葉を彼女は掬い取ってくれた。
「君の書く物語だってこれに負けないくらい素敵だよ。心に直接何かを訴えてくる感じが特に素敵」
「そんなことないさ」
そう言った僕の顔を覗き込んで彼女はやはり気になることを言ってきた。
「やっぱり君は不思議な人」
「どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ。君の物語から色んなことを感じるの。だけど肝心の君からは何も感じない。いや、この言い方はよくなかったかな。感じるんだけど、すごく複雑な感じなの。触れられるようで触れられない。そんな感じ」
やはり、彼女が何を考えて、何を感じて言えるのか、僕にはわからなかった。首を傾げていると彼女は微笑んだ。
「あまり気にしないで。そうだ、今日も飲みに行こうよ」
僕は曖昧に頷いて見せた。そして互いに会計を済ませて、この間と同じ店へと向かった。
店に着くと前回同様、ハイボールとビールを頼んだ。前回と違うのは席に座った瞬間、僕と彼女は揃ってタバコを吸い始めたことだった。もうこれに関しては配慮など必要ない。
「私が吸っているのも結構タール重たいんだけど、君はこれよりももっとタールが重いのを吸っているんだね」
「ん、ああ、こういうのは身体に悪ければ悪いほどいいんだ」
「面白いこと言うね」
彼女が微笑むと、丁度酒が運ばれてきた。乾杯しそれぞれ飲むと話題は自然と僕が書いている物語の話になった。
「やっぱり君に今日読ませてもらった部分、負け犬の遠吠えって表現でくくるの独特で好きだなあ。ねえ、どうしてその表現にしようと思ったの?」
「多分、僕が正解を知っているからだと思う」
彼女は言ってる意味がわからなそうに首を横に傾げている。
「正解って?」
「本来ならば取られるべき手段とその先の未来を知っているんだ。でも僕はその正解となる手段を取らせてもらえなかった。だから僕はもしもの話しかできない。何の邪魔もされずに考えもせずに正解を与えられた人への嫉妬心だけが高まっていくんだ。これを負け犬の遠吠えと言わないでどうする」
そこまで言うとタバコの火を消してすぐに新しいものに火をつけた。
「嫉妬だけならまだいい。だけどそれの終わりに残っているのは絶望感と憎しみ、どうしようもない無能感だけだ。中途半端に正解を知ってしまっているからこんなことを思うんだ」
「それじゃあ、今君がやっていることは正解だね。こうして私に届いているんだもの」
「そんなことはないさ。君の感性が少し、いや、かなり狂っているからそう感じるのさ」
「ちょっとそれ少し失礼だよ」
彼女のツッコミで僕たちの間には笑いが生まれた。タバコの煙とアルコールで満たされるこの空間は実に居心地がよかった。
「ねえ、もう少し、もう少しでいいから、君の抱える傷を見せてほしいな。それがどんなものであれ、私それに興味しかないからさ」
僕の抱える傷か。悲しいことに目に見えるものから目に見えないものまでたくさんの傷が僕にはある。話の手札に困ることはないだろう。しかし、それを見せることにはいささか抵抗感がある。だから、僕は話題を少し変えることにした。わざとらしさが感じられないほどの僅かなずらし方をした。
「人間っていう生き物は目に見える傷や怪我ばかり過大評価する。直接目に見えない心の傷はてんで無視だ。どうしてだと思う?」
「んー、その質問は私にとっては難しいなあ。今までたくさんの人の傷や痛みに触れてきたけど君も含めて皆目に見えるからなあ」
僕も含めて皆、傷が見える? よくわからない返答だ。だがそれについて聞くのは何か違う気がした。だから僕は僕なりの答えを用意する。
「目に見えない傷には意味なんてないのさ。自分にしかわからない痛みや傷なんて他人からしたらないに等しい。だから人間は目に見える傷を過大評価するんだよ。自分の心の傷を目に見える形にしようとして自傷行為に及ぶ人が少なくないのがそのいい例だ」
彼女はふむと頷き、少し考えるようにタバコをくゆらせてから酒を一口飲み、僕に質問をしてきた。
「君は心の傷が見えるようになったらいいと思う?」
僕はその問いに対して明確な答えをもっていた。だから僕は首を横に振った。
「昔はそう思っていた。でも今になって思うんだ。そんなもの見たくないってね。もしもそれが見えるようになったとして、僕に地獄を味わわせた奴等にその傷があったらそいつらの言動が正当化されかねない。僕はそれが一番嫌だ」
彼女はそっか、とだけ言いしばらく沈黙の中で互いにタバコを吸っていた。
「そっちは? 心の傷が見えるようになったらいいと思う?」
「私も見たくないって思う。心の傷っていうか、相手の心が見えるのが私は嫌かな。そこから大事なことに気づけることはあるかもしれないけど、大体のことは私じゃ何もしてあげられないから、それなら気づかないままの方がいいなって私は思う」
「目に見える傷だったらどう思う?」
一瞬彼女の表情がこわばった気がした。僕はこれから相手に失礼なことをしようとしている。彼女を試すようなことを、本来ならば取るべきでない選択肢を取ろうとしている。
僕は左腕を彼女の前に差し出した。
「袖、捲ってみてよ」
「どういうつもり? なんかの悪ふざけ?」
「いたって真剣だよ。それに、君が先に傷が見たいっていったんだろう?」
彼女は軽く睨むように僕の目を見た。そして持っていたタバコの火を消し、酒を一口飲むと意を決したようにゆっくりと僕の腕に手を添えた。
「こうして直接見なくたってわかるのに」
そう言いながら彼女はゆっくりと僕の服の袖を捲っていった。そして露わになった無数のケロイドをじっと見つめていた。
「どうしてだろう。私にはこれが君にとっての心の傷に見えないの。何かもっと暗くて黒いものに見える。君の心の傷がこれで表せているなんて思えない」
「当然だよ。これは僕が僕自身のことが嫌いだからつけた傷なんだ。心の傷を表に出そうなんてこれっぽっちも思っていない。そんなことしても無意味なことくらいわかるからね」
「君はいったい何に怒っているの?」
怒っている? 僕が? 何を言っているのだろう? 怒ってなどいない。むしろ彼女を試すようなことをしたんだ。怒りの感情を抱くなら失礼なことをした僕に対して彼女が抱くのが妥当だろう。
「怒ってなんかいないさ。いたってフラットだよ」
それに対して彼女は首を横に振った。
「君は怒っているよ。泣きながら、静かに、だけど激しく必死に怒っている」
「何の話? 僕は今泣いていないし、怒ってもいない。いったい何を見てそんなこと言っているのか僕にはわからないな」
彼女は考え込むように少し間を開けた後、はっとしたような顔をして急に微笑んだ。
「ふふ、冗談。君が意地悪してきたからやり返したくなっちゃっただけ。まるで君の感情かのように今日君の物語を読んで思ったことを言ってみたの」
「悪かったよ。でもそんなこと思ってたのか。なんか意外だな。僕が考えていたことと実際に感じ取られるものはやっぱり違うみたいだ」
「君の物語は君の過去がベースになっているんでしょ? それなら君の話を少し聞けばそこから感じ取れる感情なんてたくさんあるよ。多分君が思っている以上にそれは多い」
彼女が言っているのは多分、無意識の想いというものだろう。僕の表現した感情の果ての形、それの裏には僕が思っている以上に何かがあるようだ。そんなことを考えながらタバコに火をつけた。
タバコを吸い終え、丁度なくなった酒を追加で頼もうとしたとき、僕のスマホが突然震えだした。それを見て僕は少しの間言葉を失ってしまい、硬直してしまった。
『お前今何してる? 今度飲みにでも行かないか?』
それは友人からの連絡ではなく、僕の最後の味方だった人からの連絡だった。最後の最後で僕を裏切った人。
「どうしたの? 急ぎの連絡でも入った?」
少し心配そうに僕の顔を彼女は見ていた。
「いや、珍しい人からの連絡だったから驚いただけ。高校のときの先生からだった。普段連絡来ることないからびっくりしちゃった」
「高校のときの先生って君が傷つけたいって思っている物語に出てくる人?」
僕は首を横に振った。僕がその先生に対して思っていることはそんな単純なことじゃない。言葉では説明できないくらい複雑なのだ。彼女はそれを察したのかどこか納得したような表情を浮かべていた。
「さ、今日はもうそろそろいいだろう。十分飲んだ」
「わかった。それじゃあお会計してくるね」
「今日は僕が払うよ。前回奢ってもらってるし」
それからどちらが会計をするか五分ほど言い合いをし、結果割り勘になった。
店を出ると彼女を駅まで送った。
「今日もありがとう。また続きかけたら教えてね。あと、また飲み行こうね」
「ああ、そうするよ」
互いに手を振り、そこで別れた。
帰り道、僕は手に持つスマホの画面を見て自分がどうするべきかを考えていた。先生に会いに行くべきか、断るべきか、僕にはわからなかった。結局、家に着いても僕は返信をできずにいた。
僕はこの記憶を整理しなくてはならない。過去の清算をしなくてはならない。僕は答えを出さなくてはならない。
僕はスマホを強く握り、そして文字を打った。
『行きましょう』
僕にとって正解だった人。僕に正解を教えてくれた人。僕に破滅を与えた人。
正解なんて知りたくなかった。そんなものを知ってしまったから僕は醜くなってしまった。楽しかったはずの今日は重く幕を下ろした。
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