2、悲哀の果て
意識を取り戻すとベッドの上で蹲っていた。左腕には止血もせずに放置した傷口から流れ出た血が乾いて張り付いていた。それをぼんやりとした視界で捉え、残っていない昨晩の記憶に意識を送り出す。しかし、タバコを吸ったところまでしか思い出せなかった。
ふらふらとした足取りでタバコを吸おうと換気扇の下まで行ったところでさっきすべて吸い尽くしたことを思い出したばかりなのに、タバコを切らしていることに改めて気づいた。完全に馬鹿だ。
仕方なくタバコを諦めようとしたが、中々諦めきれず、シャワーを軽く浴びて着替えてから近所のコンビニに行ってタバコをワンカートン買うことにした。
外の寒さに身体を震わせながら歩いて行き、タバコを買ってコンビニを出た瞬間に一箱取り出して火をつけた。喉が焼けるように痛んだが、それを無視して深く煙を吸い込んでは吐いてを繰り返しながら歩き続けた。
家に着くとパソコンを持ってカフェへと向かった。恐らくそこにいるであろう女性(名前は水上(みずかみ)愛(あい)梨(り)というらしい)に昨日生まれた進捗を見せようと思ったのだ。それに、今しか書けない言葉があるような気がしたのだ。
しかし、カフェについて店内を見回していると水上の姿はなかった。心なしかそのことに落胆しつつも、自分の駄文を見せずに済んだことに安堵している自分がいた。
いつも通り、コーヒーを頼んでパソコンを開いて進捗の確認をし、コーヒーが運ばれてきたタイミングで新しい言葉を紡いでいく。そうこうして一時間ほど時間が経った頃、隣の席に誰かが座って僕に話し掛けてきた。それは水上だった。
「こんにちは。お隣失礼します。続き、書けましたか?」
優しく、柔らかい笑みを浮かべながら彼女は僕に聞いてきた。僕はそれに頷いて返し、頼まれる前に彼女に続きを書いたファイルを送った。
「わあ、ありがとうございます。読ませてもらいますね」
そう言って彼女はテーブルの上に持ってきていた小説を置いて僕の駄文を嬉しそうに読み始めた。僕は今回はそれに気を取られることもなく作業を進めていた。
今日の僕は悲しみの感情について考えていた。その果てにあるものが何なのかを過去の記憶を辿るようにして。そしてそれが形にできると思っていた。しかし、僕はそれを形にすることはできなかった。何が悲しいことなのか僕には全くわからなかった。一般的な悲しみは浮かんだものの、僕が形にしたいことは、考えていることはそれとはかなり違ったものだった。
一度顔をあげて隣を見てみると、丁度読み終わったところだったらしく、こっちを見ていた水上と目が合った。
「読み終わりました。本当にすごくいいですね。苦しみとか、辛さとか、悲しさとか、そういったものが本当に自分の身に起こったと感じるくらいリアルに描かれていて、とても素敵でした。今回も読ませてくれてありがとうございます」
悲しみ? 今悲しみと言ったのか? 僕は不思議でしょうがなかった。自分では悲しみについてはこれから形にするつもりで、今までの文には表現させていなかったはずだ。だから僕は聞くことにした。どこに悲しみを感じたのかを。
「悲しみなんてどこに書いてありました?」
それを聞いた彼女は少し考え込むように黙り込んだ。その様子を見ているうちに僕の質問の仕方があまりにも雑だったことに気づいた。
「すみません。雑な質問をしてしまって。僕はまだ悲しみについては書いたつもりがなかったんです。だから、どんなところに悲しさを感じたのか気になったんです」
彼女はふむと頷いてから少し申し訳なさそうに口を開いた。
「すごくぼやけた言い方になってしまうんですけど、文章全体から感じました。どうしようもない理不尽に曝されることとか、仲間がいなくなってしまうこととか、孤独の中で戦うこととか、とにかくすべて悲しさがベースに書かれていると思ったんですけど、的外れな解釈でしたかね?」
「いえ、的外れではないのかもしれません。僕が感じていなかったものを他の人の目線で知れたのは僕にとってとても大きなことです。だから、ありがとうございます」
そこで会話は終わりだと思ったのだが、彼女は僕に質問をしてきた。
「あの、もしよかったら聞かせてほしいんですけど、物語を書こうと思ったきっかけとかってあるんですか?」
「きっかけ、ですか。最初はただ記憶の整理をしようと思っただけなんです。だから、あまりきっかけと言えるものはないですね。代わりにですけど、今書き続けている理由を聞いてもらえますか?」
「ぜひ! 聞かせてください」
「僕がこれを書き続けている理由は、すべてを否定するためなんです」
僕の言った意味がわからなかったのだろう。彼女は少し不思議そうな顔をして首を傾げていた。
「僕の今までの人生やそれに影響を与えた物事すべてを、僕は否定したいんです。そしてあわよくば特定の誰かを傷つけたい。だから、これは僕の負の感情の塊みたいなものなんです」
「んー、難しいですね。でも、なんで文章全体に悲しみが溢れているのかがわかりました。もう一個聞きたいんですけど、その特定の誰かっていうは物語の中に出てくる人達のことですか?」
僕はそうだと頷いて返した。それから数秒して、自分がとんでもないことを言っていることに気がついた。こんな悪意に満ちたものを作り出していることは堂々と他人に話していいことじゃない。
「すみません。変なこと言っちゃって。忘れてください」
謝った僕に、彼女は首を横に大きく振った。
「いえ、気にしないでください。そういった感情や想いから生まれる物語だってたくさんあります。そしてそれはどれも素晴らしいものです。だから聞かせてもらえて嬉しいです」
僕はただただ彼女のことが不思議でしょうがなかった。いったい彼女の目には何が映っているのだろう? 彼女は何を考えているのだろう? 彼女は何を感じているのだろう? たくさんの疑問が頭の中に浮かんではぐるぐると回り続けていた。しかし、僕はそれについて知りたいと思いながらも、それを聞くことはしなかった。単純な話だ。人に触れるのが怖いのだ。そうして黙り込んだ僕に彼女はまたしてもとんでもないことを聞いてきた。
「あの、柊さんの今までのことっていうか、過去の記憶を聞くことってできますか?」
いきなり踏み込んだことを聞かれて僕は何も言えずに硬直してしまった。本当に彼女はいったい何を考えているんだ? 僕には想像もつかなかった。そんな僕の様子を見て、彼女は少し申し訳なさそうにしながら謝ってきた。
「すみません。急にこんなこと聞いてしまって。失礼でしたね」
かなり驚きはしたが、なぜか失礼なことをされたとは僕は思わなかった。だから僕は首を横に振った。
「ありがとうございます。それに直接聞かなくても柊さんが書いたものを読めば、柊さんのこともっと知れますよね。私、それを楽しみにしています。今日はありがとうございました。私はこれで失礼します」
そう言って彼女は会計を済ませて店を出ていった。僕もスイッチが切れだしていたので薬を飲んでから彼女の後を追うように店を出た。
カフェを出た後、同じ商業施設の中でウイスキーを買ってから帰ろうと思い、エスカレーターを降りて施設の中を歩いていると、どこからか子供の泣き声が聞こえてきた。無視することもできたが、耳に入ってくる音という情報の出所を探るのが癖になっており、僕はその泣き声の主を無意識で探した。すると、僕の目線の先で五歳くらいの男の子が泣いていた。
「少年、どうしたの?」
男の子に目線を合わせるようにしゃがみこみ、できるだけ優しい声で話し掛けると男の子は目を擦り、鼻を啜りながら涙声で僕の問いに答えてくれた。
「お母さんが、いなくなっちゃった」
要するに迷子だ。とりあえず名前を聞いて迷子センターにでも連れていけば問題ないだろう。
「はぐれちゃったんだね。大丈夫だよ。僕が一緒に探してあげるから」
「本当? お母さん見つかる?」
「ああ、勿論だよ。だから泣き止んで、ね?」
男の子は少し落ち着いたようで、ぐっと涙を堪える素振りを見せた。
「よし、ところで少年、名前は?」
「ゆうき。にしのゆうき」
「おっけー。じゃあゆうき君、僕についてきて」
そう言って僕が立ち上がり手を伸ばすと、ゆうき君は小さな手で僕の手を握ってきた。そのまま迷子センターまで行って、迷子のアナウンスをしてもらうと五分も経たないうちにゆうき君の母親が迎えに来た。
「ゆうき! どこ行ってたの! 心配したんだから」
ゆうき君の母親はどこか安堵した様子でゆうき君のことを抱きしめていた。
「ゆうき君、お母さんに会えてよかったね」
「うん! お兄ちゃん、ありがとう!」
「本当にありがとうございます」
ゆうき君とその母親の二人からお礼を言われた後、二人は手を繋いで迷子センターを後にした。その後ろ姿を見届けていると、僕の中にある感情が生まれた。決して心温まるような明るい感情ではない、言葉では言い表せないようなどす黒い感情が生まれてしまった。
「ああ、これが今日僕が探していたものか……」
一人呟き、僕もその場を後にしてウイスキーのボトルを二本買って家に帰り、薬をウイスキーで流し込んでから倒れるようにベッドに横になり意識を飛ばそうとした。その間、孤独と悲哀は表裏一体。いつだったか誰かがそう言っていたのを思い出した。
僕はいつからか何も感じることがなくなった。いや、この言い方はよくない。幸せや快という感情を受容することができなくなったのだ。そして、その代わりに僕は不幸や不快に対して人一倍敏感になった。だが、それ自体を認識できるだけで、それに対して何か感じるということは一度もなかった。
感情の欠落、孤独の果てに失ったものの一つだ。そしてそれの裏には僕を人ではなくせるほどの黒が潜んでいた。哀れなものだ。僕のことを苦しめ続けていた感情を失った途端、僕は人ではなくなったのだ。こうなる前に逃げ出すべきだったのに、僕はそうしなかった。その結果残っているのは圧倒的なくらいの無能感だけだった。
『一度植え付けられた無能感っていうのはどう頑張っても拭えないものなんだよ。だからそんなものを感じる前に逃げ出さなきゃいけない』
そう言われた言葉を僕はないがしろにしてしまった。まだやれる。まだ戦える。まだ、まだ。そう思っているうちに尊敬していた先輩の言葉の通りになってしまった。
アラームの音が部屋中に響き渡った。それは僕にとって今日という地獄の始まりを意味していた。ぼんやりとしたままの意識をどうにかしてはっきりとしたものに戻すべく、洗面所までゆっくりと歩いて行き、冷たいままの水で顔を洗った。
覚醒した意識を、僕はさっきまで考え、思い返していたことに送り出した。きっと悲しみとはこういうことを言うのだろう。普通の人が感じる悲しみとは形の違うもの。一般的に悲しみと呼ばれるものそれ自体を感じないこと。名前は忘れてしまったが、僕にそれを気づかせてくれた迷子には感謝しておこう。
昨日、水上は言っていた。僕の書く文章全体に悲しみが広がっていると。どうやら僕が当たり前のものとして受容し続けているものは普通の人から見ればかなり異常なものなのだろう。
「ふは! あっはっはっは!」
面白くなってきてしまった。自分が惨めで惨めでしょうがない。それに馬鹿すぎる。何が悲しみなんて形にしていない、だ。僕が書いているものは、ただ僕が痛い痛いと幼い子供の様に泣き喚いているだけのものではないか。
久しぶりに愉快だった。普通の人だったら悲しむことなのだろう。どうしようもない現実や過去に泣き、傷つくことなのだろう。だが僕は違う。ただただ面白くてしょうがなかった。
そうして込み上げてくる笑いは一時間ほど止まらなかった。気がつくと僕は泣いていた。きっと笑いすぎたのだろう。乾いた涙の跡が両頬についていた。
いい気分だ。このまま続きを書こうではないか。今なら書きたいことが書ける。そんな気がしてパソコンの前に座り、作業を始めた。
地獄が始まったのは僕が高校一年の冬からだった。いや、もっと早くから始まっていたのかもしれない。気がついた頃にはもう手遅れだった。
僕が所属していた運動部の顧問は自分の考えに絶対的な自信をもっている人だった。妄信と言ってもいいかもしれない。そいつはその考えを僕たちに押し付けた。だが、誰一人としてそれに頷き、受け入れる者はいなかった。当然僕もそうだった。そのうちの何人か、僕を含め、三人ほどだったろうか、はっきりと反発したのは。その日からそいつは人ではなく悪魔に変わった。変わったというよりは被っていた人の皮を脱ぎ捨てたと言った方が正しいかもしれない。
その悪魔は人を壊す方法を熟知していた。そして本来ならばそれを行使することは許されない立場であるはずの悪魔は、無情にも僕たちのことを壊しにかかった。
人が壊れるのに必要なことのうちの一つが自身の無能を無理やり自覚させて恥をかかせ、居場所をなくすことだった。僕たちは何度も恥をかかせられた。すべてを否定され、周囲の蔑むような視線に曝され続けた。
最初に壊れたのは一つ上の先輩だった。その先輩は人前に出ることができなくなり、やがて部活を辞め、学校を辞めた。その先輩がいなくなってから一度だけ会ったことがあった。動かなくなり、生きている人ではなくなった姿の先輩に。
次に壊れたのは二つ上の先輩だった。その先輩は虚ろな目で乾いた笑みを常に浮かべるようになり、すべてのことにおいて当事者意識が消え去っていた。それは僕の目には誰かに無理やり操られている人形のように映った。
僕は最後まで壊れなかった。何度折られ、砕かれようと、反骨芯だけで戦い続けてきた。それに、一人だけ、力になってくれる人が側にいた。だがそれもすべて無駄だった。結果的に僕も壊れてしまったようだ。
一通りの作業を終える頃には完全にスイッチが切れていた。僕はデスクの横に置いてあったウイスキーのボトルを開けてそのまま口をつけて飲めるだけ一気に飲んだ。すぐに押し寄せてきた吐き気の波をどうにか抑え込み、さらにもう一口ウイスキーを煽ろうとしたところでスマホから着信音が鳴った。
『こんばんは。お疲れ様です。水上です。今週末って予定空いてますか? もしよければまたカフェでお会いできませんか?』
誰だ? カフェ? 何のことを言っている? 意味がわからない。僕はそれに返信することもなくスマホを投げ捨て、ウイスキーを煽っては吐いてを繰り返し、ボトルの中身が三分の一程まで減ったところで意識が急に飛んだ。
スマホの着信音で目を覚ました。揺らぎ続ける視界はまだ酔いが完全に抜けきっていないことを僕に自覚させた。とりあえず現状の把握をゆっくりすると、酔いつぶれて床に倒れて意識を失っていたことだけがわかった。所々周りの床に水滴のようなものがついていたが、多分ウイスキーだろう。部屋中が薬っぽい匂いに包まれていた。
胃からせりあがってくる強いアルコールの匂いは僕の吐き気を助長した。すぐにトイレに駆け込み胃の中の液体すべてを吐き出し、ふらふらとベッドに横になり、そのまままた意識を飛ばそうとしたところでアラームが響き渡った。
叫び続けるスマホを黙らせると誰かから連絡が来ていたことに気づいた。
『すみません。忙しいですよね。気にしないでくれると助かります』
水上からだった。最初は何に対して謝ったり失礼だと感じているのかがわからなかったが、少し画面の上の方を見るとすぐにその意味がわかった。
『こちらこそすみません。多分、酔っているときに見て返信せずに寝てしまったみたいです。今週末、空いてます。昼過ぎに行きます』
謝罪を返したところで再び吐き気に襲われて僕はトイレに駆け込んだ。
週末までの間、僕が物語の続きを書くことはなかった。
週末になり、約束通り昼過ぎにカフェに行くと水上はもう来ていた。きっと待ち合わせだとでも店員に言ったのだろう。広い席で一人座って本を読んで彼女は僕のことを待っていた。
「こんにちは。お待たせしました」
「あ! こんにちは! 待ってました」
彼女の前の席に腰掛けるとすぐにパソコンを取り出してファイルを送った。すると彼女は手に持っていた小説をすぐに机の上に置き、僕が今送ったファイルを読みだした。
「あの、それ読んでもいいですか?」
僕は今日は作業をする気は全くと言っていいほど無かったので、時間を潰すために彼女が読んでいた小説を読もうと思った。
「勿論、いいですよ。少しボロボロですけどそれでもかまわなければ」
「ありがとうございます」
それぞれ別のものを読み、そして三十分ほど時間が経った頃、彼女が話し掛けてきた。
「読み終わりました。やっぱりすごくいいですね。薄暗い感じの全体の雰囲気が妙にリアリティに溢れていて、まるで自分のことかのように感じました」
「ありがとうございます。でもやっぱり、こんなもの何もいいものじゃないですよ」
彼女は首を横に振った後、不思議そうな顔をしていた。そしてよくわからないことを言ってきた。
「どうしてそんなに悲しそうにしているんですか?」
悲しそう? 僕が? 今はいたってフラットな状態だ。悲しみなんて欠片も感じていない。いったい何を見てそう言っているのだろう? 僕はその問いに対して首を傾げるだけだった。
「ああ、すみません。多分、柊さんの物語に感化されてそう見えただけかもしれないです」
なんだ、そういうことか。僕は気にしていないとできる限りの笑顔を見せ、話題を変えた。
「この小説、いい話ですね。水上さんがこれをよく読んでいる意味がわかりました。羨ましい限りです」
彼女はどこか嬉しそうな顔をしていた。
「ふふ、これは私のお気に入りの中でも特にお気に入りの一冊なんです。私の人生を変えてくれたと言っても過言じゃありません」
自慢気にそう語る彼女に対してまたもや興味が湧いてしまった。だが僕はその興味に気づかないふりをしなくてはならない。他人に触れないためにも。
「あの、この後って時間ありますか? 柊さんってお酒飲まれるんですよね? もしよければ、この後一緒に飲みに行きませんか?」
水を飲み、沈黙を味わっていた僕にとってその提案は中々に衝撃だった。でもいい機会だ。酒を飲みながらじゃないと話せないことが僕にはたくさんある。関りをもつことは避けたいが、縋るような目で見られては断れない。
「ええ、いいですよ。行きましょう。でも僕、酒癖悪いので気をつけてくださいね」
彼女は嬉しそうに微笑み、そのまま二人でカフェを出て彼女がよく行っているという居酒屋へと向かった。
店に着くまでの間、僕たちは小説という情報伝達の媒体がもつ意義やその魅力について語り合っていた。そして僕たちの意見はとても似通っていた。人生の明るい部分ではなく、暗い部分を描いている物語ほど深みがあり、こちらの感性を育てること。物語の中での人の命の扱いについて。仄暗い雰囲気が醸し出す魅力など。実に色んな考えが面白いくらいに一致していた。
店に着くまで二十分くらいかかっただろうか。体感では五分くらいにそれは感じられた。その店は個人経営の落ち着いた雰囲気の静かな居酒屋だった。店に入り、テーブル席に座ると、僕はハイボールを、彼女はビールを頼んだ。
「ここ、私のお気に入りの場所なんです。あ、そういえば、まだちゃんと自己紹介してなかったですよね? 私、水上(みずかみ)愛(あい)梨(り)っていいます。二十二歳です」
「柊(ひいらぎ)春香(はるか)です。僕も二十二歳です」
「じゃあ、同い年ですね。折角ですし、敬語使うのやめにしましょう」
わかったと頷いて返すと彼女は嬉しそうにしていた。そして、そのタイミングで酒が運ばれてきて、乾杯をしてそれぞれ一口飲んだ。
いつもの癖だった。酒を一口飲んだ後、僕はすぐにポケットからタバコを取り出して席に置いてあった灰皿に手を伸ばしていた。
「あ、タバコ、吸うんだね」
相手への配慮が足りてなかったなと素直に思った。恐らく彼女はタバコを吸わない人だろう。そんな人の前で堂々とタバコを吸うわけにはいかない。僕は取り出したタバコをポケットにしまおうとした。
「ふふ、いいよ、気にせずに吸って。私も吸うから」
意外だった。彼女は鞄の中からセブンスターを取り出し、慣れた手つきで火をつけ吸い始めた。僕もそれに続くようにタバコに火をつけた。
「タバコ、吸うんだね。意外だな」
「よく言われる。私こう見えて結構ヘビースモーカーなんだよ?」
「吸い始めたきっかけとかってあるの?」
「あるよ。今日、君が読んだ小説あるでしょ? それに出てくる私の一番好きな人がセブンスター吸ってて、それで真似してみたくて吸ったらはまっちゃったの」
そこからは互いに無言のままそれぞれが咥えるタバコが短くなるまで時が過ぎた。短くなったタバコの火を消すと彼女は口を開いた。
「そうだ、まだ私達お互いのこと何も知らないよね? だから、初対面の人がするような会話しようよ」
面白い提案だなと思った。わざわざ提案するまでもないことなのに、どこか特別感を感じさせた。
「君は普段どんなことをしてる人?」
「僕は今は無職だよ。二年前に大学を辞めて、そこからしばらくフリーターをしてたけど、三か月前にそれも辞めたんだ。そっちは?」
「私は今は大学四年生だよ。て言っても、もうすぐ卒業するし、卒論ももう終わってるから今は大学にはほとんど行ってないんだけどね。君はどうして大学辞めたの?」
「何もかも合わなかったんだ。人も、環境も、とにかくすべてが僕にとって悪い方面にしか作用しなかった」
彼女は何かを察したのか、そうなんだねとだけ言ってビールを飲み干し、新しいタバコに火をつけた。
「飲むの早いね。それにタバコの吸い方がヘビースモーカーのそれだ」
「ヘビースモーカーだって言ったでしょ? 私酔っ払うのが好きなの。だからいつもこのくらいのペースで飲んでるんだ」
きっと彼女は楽しい酒の飲み方しか知らないのだろうな。そう思いながら僕も手元にあったハイボールを飲み干し、タバコに火をつけた。
そこからは『初対面の人がするような会話』を続け、お互いのことを少しずつ探りながら酒を飲み進めていった。先に酔ったのは彼女の方だった。
「ねえ、君の今までの人生で特別な記憶ってある?」
若干舌足らずな口調で彼女は突然そう聞いてきた。僕はそれに何でもないように答えようとしたが、口を開こうとしたところでそれができなかった。スイッチが急にぶつんと切れたのだ。
黙り込み、様子が急変した僕にすぐに彼女は気づいた。
「大丈夫? 具合悪そうだけど、お水頼むね」
どうやら酔いが回っていると思われたらしい。いい言い訳ができた。
「ごめん、ちょっと、飲み過ぎたみたい。お手洗い行ってくるね」
そう言い残して僕はその場から離れ、トイレに入ってすぐに水も何も使わないで無理やり薬を飲み込み、その場にしゃがみこんだ。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
小声でつぶやき続けていた。息は細くなり、視界は暗転して歪みだし、動悸が止まらなかった。それは全く落ち着く気配はなく、僕はただただ何かに怯え続け、震えていた。
「春香君、大丈夫?」
トイレの外から僕の名前を呼ぶ誰かの声が聞こえる。大丈夫じゃない。助けてほしい。しかし、その気持ちに反して僕は声を出すことができなかった。
「ごめんね、入るよ」
その言葉と同時にトイレの扉が開かれた。鍵はかけていたはずなのに、どうして開いたのだろう? それよりこの女の人は誰だ? なぜ僕に構う?
「よかった。倒れてるかと思って心配したよ。これお水、ゆっくり飲んで」
そう言って女の人は僕に水をさしだし、僕の背中を優しくさすってくれた。僕は震える手で水を受け取り、言われた通り少しずつそれを飲んだ。
僕が正気を取り戻したのはそれから十五分ほど経った頃だった。体感では一時間にも感じられたその時間はまさに地獄そのものだった。
「ありがとう。ようやく落ち着いた。ごめんね」
「ううん、気にしないで。私も飲み過ぎちゃうことってあるからね」
彼女と共に席に戻ると僕はタバコに火をつけてそれを強く吸った。そして、さっきまでの一連の行動すべてをどうやってごまかそうか考えていた。ただ酒癖が悪いだけでは説明がつかないだろう。
結局何も言えないまま、時間だけが過ぎ、灰皿にはタバコの吸い殻が増えていった。僕の体調を気遣ってか、彼女は沈黙を貫きながらゆっくりと残りの酒を飲んでいた。
「ごめん、こんなつもりじゃなかったんだ。たまにこういうことが……」
「気にしなくていいよ。大丈夫だから。不謹慎かもしれないけど、私は君のこと知れたと思って少し嬉しいくらいだからね」
僕の話を遮るように彼女はそう言って微笑んだ。
「また、今度一緒に飲みに来ようよ。私、君に興味しかないからさ」
彼女は本当に何を考えているのだろう? 水上愛梨という人間が全くつかめなかった。だが、それと同時に僕も彼女に対して興味がある。だから僕は頷いて返した。
「ありがとう。今日はここら辺で解散にしようか。もうお会計してあるからそのお水飲み終わったら出よう」
「いくらだった? 迷惑かけたし払うよ」
しかし、彼女は首を横に振った。
「今日付き合ってくれたお礼だと思ってくれたら嬉しいな。あと、小説タダで読ませてもらってるしね」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えるよ。ご馳走様」
店を出ると近くの駅まで彼女のことを送り、そこで別れた。別れ際、彼女は少し気になることを言ってきた。
「君は不思議な人。おやすみ、またね」
何が僕を不思議だと思わせたのだろう? 聞き返そうと思ったがそれより先に彼女は改札の中に消えていった。
一人歩く帰り道、僕はあることを考えていた。
「特別な記憶、か……」
僕にとっての特別な記憶は決していいものではない。むしろ、普通の人からしたらかなり悪いものだろう。思い出したくもない忌まわしい記憶、呪いのように僕を蝕み続ける記憶、今の僕のすべての原動力になっている記憶。
「こんなの、嫌だ……」
僕の弱々しい小さな叫びは誰にも届かない。悲しく哀れな過去は、もう誰にも救えない。
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