1、孤独の果て
机の上に置いておいたスマホから部屋中に鳴り響くアラームの耳障りな甲高い音。あらかじめ設定しておいた洗濯機が動き出す音。つけっぱなしにしていたエアコンが暖房を吐き出し続ける音。アパートの上の階の住民の足音。外から聞こえてくるオートロックの扉が閉まる音。
「うるせえ……」
眠りから無理やり引き上げられ、意識を取り戻した直後に耳に入り込んでくる様々な音という情報。次いで暗い部屋の中に差し込んでくるカーテンが吸収しきれなかった陽の光。その光に照らされて視界に入ってくる埃の柱。真冬だというのに半袖を着ているせいで冷たくなった腕を擦っているうちに、ぼんやりとした視界が段々とものの形を捉えだしてくる。そこには袖から伸びる腕に広がる無数のケロイドが映っていた。
今日も最低な一日が幕を開けようとしていた。とりあえず一度ベッドから這い出て最大音量で鳴り続けているスマホを黙らせ、枕元に乱暴に投げる。その後に自分の身体を同じようにしてベッドに投げ捨て、そのまま現実から逃げようと夢の世界に戻ろうと試みるも、意識だけは覚醒してしまっており、二度寝を諦めてスマホをいじり始める。
誰かから連絡が来ていた。それを見てみると、小学校から付き合いのある友人からの生存確認だった。
『生きてる?』
その一言だけが夜中に送られてきていた。僕は舌打ちをしながらその連絡に既読をつけることなく非表示にし、無視することに決めた。今までも度々この手の連絡が来ていたが、最近は月一くらいのペースで送られてくる。面倒なことに無視していると決まって電話が掛かってくる。それでも、僕はこの連絡を無視することにした。理由は単純だ。勝手な自己満足に使われるのが心の底から気に食わないのだ。それが純粋な善意からくるものであればあるほど、うんざりとさせられる。
ある程度時間が経ち、再びスマホを放り出したタイミングで洗濯機が止まった。のそのそと起き上がり洗濯機の蓋を開けて洗濯物を干していく。それが終わると、無理やり心と身体のスイッチを入れ、中身が空になったばかりの洗濯機に脱いだ服を放り込み、シャワーを浴びた。カーゴパンツにトレーナーというシンプルな服装に着替えてコートを羽織り、二年ほど切っていない伸びきった髪の毛を後ろで縛って出かける準備をする。
タバコを咥え、火をつけながらアパートを出て、隣駅まで二十分ほど掛けて歩いて行く。降り積もり、車の排気ガスで黒くなった雪の上に短くなったタバコを投げ捨てて踏みつけ、新しいタバコに火をつけ、また捨てて火をつけを繰り返していると目的地に着いた。
十階建ての商業施設の中に入り、エレベーターに乗り込んで最上階のレストラン街へと向かっていく。ここでの目的は喫煙所だ。僕以外に人が誰もいない喫煙所で椅子に座り、壁をぼうっと見つめながらタバコを二本吸う。それが終わると、エスカレーターで一つ下の階に降り、そこにある書店に隣接したカフェに向かう。
平日の開店直後なこともあり、店内にはまだ僕以外の客は来ていなかった。ほぼ毎日のように通い詰めているため、顔馴染みになった店員と挨拶を交わしてからコーヒーを頼み、端のテーブル席に座る。コーヒーがくるまでの間にテーブルの上にパソコンを出して前日までの作業の進捗を確認する。
傍から見たらカフェで勉強をしている大学生のように映るだろう。実際、年齢的には僕はそこら辺の大学生と同い年なのだ。しかし、僕はもう大学生ではないし、何か勉強をしたり、論文やレポートを書いたりはしない。大学は入って二年で辞めたのだ。
それじゃあ何の作業をしているのかというと、自分の頭の中に浮かぶ空想の世界の話を書き起こしているのだ。しかも、それは明るく楽しい話ではない。この上ないくらい暗く、自分の中の真っ黒な感情を吐き出しているようなものだ。何の価値もない、くだらない作業だ。それでも僕はそれをやめようとは思わない。これしかすることがないし、今僕にできることは他にはないのだ。
僕の味わってきた地獄をベースにして、できるだけ鮮明に、色濃く書いていく。それは僕にとっては再びあの地獄を経験する行為に等しく、ある種の自傷行為と言っても過言ではなかった。
進捗の確認を終えたところで、丁度コーヒーが運ばれてきた。熱いうちに一口だけ飲み、意識を再びパソコンと自分の記憶に戻す。どこにも救いのないこの物語は、後一ヶ月もあれば完成するだろう。そのときは、大きな出版社の公募に出そうと思っている。賞を取りたいなどとは微塵も思っていない。ただ何か一つだけでも形に残るものを残したいのだ。
二時間ほど書き続け、すっかりコーヒーが冷めきったところで集中力が切れた。残っているコーヒーを一気に飲み干し、新しいものを注文しようと店内を軽く見渡していたときだった。一人の女性と目が合った。僕と同じく、普段からよくこのカフェに来ている女性だった。お互いの間に生まれた気まずい空気感を振り払うために軽く会釈をし、すぐに目線を別の所に移す。
彼女はいつも小説を読んでいる。しかも同じ小説を五冊ほど何度も繰り返し読んでいるようだった。何度読み返しても色褪せないどころか、その魅力を高めていくものは確かにあるが、彼女はそれをもっているのだろう。実に羨ましい話だ。
パソコンのバッテリーが少なくなってきたため、一度パソコンを閉じて代わりにボールペンを持ち、ノートを開く。自分の中で溢れてしまっている言葉を丁寧に掬い取ってその形を捉える作業に移った。正直に言ってこの作業が一番辛い。濃い原液のまま記憶を流し込まれているような感覚になるのだ。それはただでさえ脆い僕の精神をいとも簡単に砕いていく。
どうやら限界が来たようだ。スイッチが切れ始めている。思考はおぼつかなくなり、脈は早く打ち、冷や汗が止まらなくなってきた。僕はテーブルの上に広げていたものを片付け、荷物をまとめると手早く会計を済ませて逃げ出すようにしてカフェを出た。
外に出てすぐに自動販売機で水を買い、財布の中に入れておいた抗不安薬を飲み、雪に反射して突き刺さってくる鬱陶しいくらいの陽射しに耐えながらタバコに火をつけ、急ぎ足でアパートへと帰った。
僕にとって安息の地と呼べるのは、今独り暮らしをしているこのアパートの六畳の部屋だけだった。お世辞にも綺麗とは言えないほどにものが溢れた汚い部屋だが、それが逆に落ち着きを与えてくれているのだと思う。
スイッチが完全に切れてしまう前に、さっきノートに書きだした言葉達をパソコンに打ち込んでいく。
まだ夕方と呼べるくらいの時間には、既に日は暮れて外は暗くなっていた。僕は完全にスイッチの切れた重たい身体を引きずるようにして冷蔵庫までの僅かな距離を時間を掛けて歩き、そこから炭酸水を取り出し、グラスを持ってデスクに戻った。デスクの横に置いてあるウイスキーをグラスの半分くらいまで注ぎ、同量の炭酸水でそれを割り、勢いよく飲み進める。一度切れてしまったスイッチを元通りにするにはこの方法しかないのだ。
僕のスイッチのイメージは電気のブレーカーに近い。ある程度の許容量を超えると突然切れる。だが、ブレーカーと違うのは時間を掛けてじわじわとスイッチが切れていくことだった。いつしかアルコールはスイッチの修復の作用、タバコはスイッチが切れないように延命する作用をもった薬になった。
ハイボールを五杯ほど飲んだところで完全に酔いが回りきり、若干の吐き気を覚えだした。僅かに残った理性で二、三分考えた後、トイレに行って今飲んだばかりの液体をすべて吐き出した。スカスカになった胃の中にゼリー飲料、胃薬、抗うつ薬と睡眠薬を入れ、ベッドに倒れるようにして横になり、そのまま意識を失うようにして眠りについた。
生活リズムだけは崩してしまわないようにと毎日同じ時間に鳴るように設定しているアラームの音で今日も意識を無理やり夢の中から引っ張り上げられる。目が覚める度に視界に入ってくる無数のケロイド、なぜこんなものをつけたのか、正気の沙汰ではないなと思いながら、タバコを吸うために換気扇の下へとふらふらと歩いて行く。
音楽を聴きながらタバコを二本、三本とゆっくりと吸っていると突然タバコを持っていない方の手に握っていたスマホから電子音が鳴り始めた。最悪だ。せっかくリラックスできていたのに。僕はスマホを黙らせ、すぐに電子音を鳴らしてきた愚か者に対して苛立ちをぶつけた。
『黙れ』
僕のその連絡に何を満足したのか、そいつはただ一言だけを返してきた。
『お、生きてた』
不愉快だ。虫唾が走る。生きているからなんだというのだ。
多分、間違っているのは僕の方なんだと思う。その友人は僕の友人として僕のことを心配してくれているのだろう。しかしそんなことは知ったことではない。救う気も、救うだけの力もないくせに、中途半端に僕の中に入ってこないでほしい。迷惑でしかない。きっと彼のことを友人と呼ぶ資格は僕にはないのだろう。
いつも以上に朝から機嫌が悪かった。このまま酒を煽って酔いに任せて眠ってしまおうかとも思ったが、今日は出かけなければならない用事があった。代わりにタバコを大量に吸ってどうにかして酒を飲みたい衝動をごまかし、シャワーを浴びてからパーカーを着てジーンズを履き、ジャケットを羽織って外に出た。
肌を刺すような冷気が漂う外で震えながら歩き、最寄り駅へと向かう。電車に乗ると扉のすぐ側に立ち、三駅分の時間をスマホをいじって雑に潰す。目的の駅に着くと、『路上喫煙、ポイ捨て禁止』と書かれた張り紙を完全に無視してタバコに火をつけ、五分ほど歩みを進めていく。目的の建物の前に着くと、タバコを最後に深く吸ってから捨て、自動ドアを抜けて建物の中に入っていく。
二年前、丁度僕が大学を辞めてすぐの頃、僕は精神科に通い始めた。ずっと続く微熱、眠れない毎日、その他色々なストレスを対処しきれずに心だけではなく、身体にまで異常が生じ始めたのがきっかけだった。
病院に通い始めた頃はどうにかして今の状態を治す、もしくは改善しようと思っていた。しかし、どうしても薬だけではどうにもならず、週に一回のカウンセリングを受け続けるだけで一向に体調に変化はなかった。きっと僕がもう本心では現状の改善を諦めているのが一番の原因なのだろう。
病院で一通りのやり取りを終えると薬局に寄ってから家に帰った。その道中、また例の友人からまた連絡が来ていた。
『今何してんの?』
僕はこれも無視することにした。
友人からの連絡が迷惑でしかないと思うようになったきっかけ。友人を友人と呼べないほどに嫌悪してしまったきっかけ。それには確かなものが存在する。対等ではなくなったからだ。単純なことだ。僕が精神科に通っているということを何でもないように打ち明けた瞬間から、彼との間には目に見えるほどはっきりと線引きがされた。彼はきっと無意識だろうが、僕はそれが嫌だった。生存確認をされるようになったのはそれから少しした後からだった。今までのように接してほしかった。何も変わらないでいてほしかった。彼から行われる無自覚なその行為は僕を彼の世界から隔絶させ、孤独の海に投げ捨てた。
完全にスイッチが切れていた。まだ外は明るい時間だというのに、家に着くと僕は何の躊躇いもなくウイスキーをグラスに注いでそれを煽った。すかさずタバコに火をつけ荒くその煙を吸っていく。勢いよく摂取された薬物に身体が少し遅れて反応し、視界が歪みだし、頭がぼうっとしてくる。さらに、その後に僕に強い孤独を感じさせる。
いつからか、僕はずっと独りぼっちだった。誰かと一緒にいても常にそこには自分の居場所がないように感じられたし、実際どこにも僕の居場所はなかった。家族とも必要最低限の会話すらせず、かつて友人だと思い、そう呼んでいた人達とはもう一切の関りがない。ずっと独りで生きてきたのだ。
孤独には慣れきっているとどれだけ思い込ませ、信じ込ませようとしても、肝心なところで僕自身が否定してしまう。人と関われば必ず傷つくとどれだけ思い知っても、どれだけ自分から人に関わらないようにしようとも、僕は孤独に慣れることはできなかった。
「寂しい……」
無意識に零れた本音はどこにも届かず、薄暗い部屋に吸い込まれていった。
ガタンという音と身体に受けた強い衝撃で目が覚めた。何が起こったのかわからずに部屋を見渡すと、歪んだ視界の中で僕のすぐ側には椅子が倒れており、割れたグラスの欠片がウイスキーの水溜りの上に散らばっていた。左手に何かあたたかい液体が伝う感触があり、経験からわかる。それを直接見るまでもなく、ガラス片で切ったらしく、血が流れていたことがわかった。
暗い部屋の中で立ち上がり、手探りでスマホを探し出し、時間を確認すると夜の七時だった。どうやら飲んだそのままの勢いで意識を飛ばしていたらしい。まだ酔いの残る頭でようやく現状を確認してから、とりあえず床の惨状を片付け、水を大量に飲んでからタバコを吸った。
またすぐに寝てしまいたかったが、酔いの深さに反して意識は冴えてしまっており、睡眠薬を飲んでも寝付けそうになかった。
することもなく、なんとなくパソコンの電源をつけてしまったのが間違いだった。昨日までの自分が書いた文章を読み返していると、意識はさらに覚醒するどころか、答えの出ない思考の中に引きずり込まれてしまった。
仲間という存在がどういったものなのか、高校生のとき、当時の僕はずっと考えていた。教師もクラスメイトも同じ部活の人達も、皆軽々しく『仲間』という言葉を口にした。
『仲間なんだから協力して当たり前』
『仲間と支え合うのは当たり前』
『仲間を大事にしろ』
他にも枕詞に『仲間』がつくことが多々あった。僕にはそれが何一つとして理解できなかった。ただ同じ空間にいるだけ、ただ同じ所属なだけ、それだけで仲間などという大層な呼び方をする意味がわからなかった。協力し合ったり、支え合ったり、助け合ったりするのが『仲間』だと言うのなら僕の周りには『敵』しかいなかった。文字通り孤独な戦いを強いられてきたのだ。
蹴落とし、蹴落とされるのが当たり前。足を引っ張られるのが当たり前。邪魔をされ続けるのが当たり前。そんな場所で僕には仲間はおろか、傷を舐め合う相手すらいなかった。
結局、『仲間』などという存在は幻想にすぎず、実際には存在などしないことを僕は知っている。少なくとも僕の周りには一人たりとも存在しないし、存在しなかった。
たった一人で何が起こっても耐えられる強靭さを身に着け、気高く生きるしかなかったのだ。しかし、僕にはそれができなかった。どこまでも脆弱で泥塗れになり、這い上がることすら叶わなかった。
そろそろ意識を保持しているのが鬱陶しくなってきていた。ウイスキーで、処方された適性の量よりも多く睡眠薬を飲み下し、ベッドに横になって意識が途切れるのをじっと待ったが、僕の意識が途切れる頃には日が昇り始めていた。
ずっと気持ちの悪い夢現の状態を吹き飛ばしたのはアラームの音だった。ほとんど眠っていない頭を無理やり起こしたが、身体がそれについてこず、しばらくの間ただベッドの上に座って窓の外を眺めていた。外は雪が降っていた。細かい雪が静かに、ゆっくりと陽の光に照らされて煌めきながら降り続けていた。
今日は何をしようか。正直、ちゃんと眠れていないせいで頭は回っていないし、回りそうにもない。かといって何もせずに、ただただ時間を溶かすのは今の僕にとっては苦痛以外の何物でもなかった。
今日もまた無理やりスイッチを入れよう。カフェに行って作業をしよう。そう思いながら動き出し、シャワーを浴びて着替えると、僕は外に出た。
寒い日に吸うタバコは格別に美味い。それだけが今の僕にとっての幸福であり、至福だった。冷たい空気と一緒にタバコの煙を目一杯吸い込み、少し肺に留めてから吐き出す。それを繰り返しているだけでも、僕の腐った精神状態はいくらかましになった気がした。
カフェに着き、パソコンを出しながらコーヒーを頼むと、隣の席には既に常連の女性客が来ており、小説を読んでいた。僕はそれを横目で見ながら前回までの進捗を確認し、どうやって続きを書くか考えを巡らしていた。
コーヒーが運ばれてきてからもしばらく何を書くか考え込んでいると、隣の席に座っていた女性がパソコンを覗き込んで話し掛けてきた。
「もしかして、小説書かれてるんですか?」
急な問いかけにしどろもどろになりながらも僕はそうだと黙って頷いてみせた。
「すごい! どんなもの書いているかとか聞いてもいいですか?」
「ただ暗いだけの物語とも言えないようなものです。だから、何もすごくない」
突き放すような僕の返答に彼女は怯むことなく口を開いた。
「そんなことありません。ただ暗いだけだとしても、そこには作者の想いが必ず乗っていると私は思います。なので、それはとても尊くてすごいことなんですよ」
きっと彼女は僕とは違って純粋な気持ちで物語というものに向き合ってきたのだろう。あわよくば自分の書いた物語で特定の誰かを傷つけたいと思っている僕とは大違いだ。だがそれを強調して言い返すほど、僕は無粋じゃない。
「ありがとうございます。そう言ってもらえて嬉しいです」
彼女は僕の返答に満足そうに微笑んでからとんでもないことを聞いてきた。
「あの、もしよかったらなんですけど、読ませていただくことってできますか?」
思わず、は? と言葉が漏れてしまった。今この女性はなんて言った?
「あああ、すみません。図々しいですよね……。いつもここで作業されているのを目にしていたので、つい気になってしまって……」
僕の書いているものを人に読ませるには少々悪意の濃度が高い。それに、賞に出すつもりと言えどもまだ人に見せられるようなレベルじゃないのだ。
そんなことを考えながら彼女の方を見ると、縋るようなまなざしでじっと僕のことを見ていた。僕はこういうのには弱いのだ。
「わかりました。書きかけでもよければファイル送りますよ。連絡先交換してもらってもいいですか?」
彼女は嬉しそうな顔をしながら大きく頭を縦に振った。
「ぜひ! 交換しましょう! ありがとうございます!」
「一応言っておきますけど、かなりの駄文なので期待はしないでください。ハードルを下げてから読んでください」
どうやら彼女の耳には今の言葉は届いていないようだった。連絡先を交換して現段階で書けているところまでのファイルを彼女に送ると、彼女はさっきまで読んでいた小説ではなく、僕の駄文を読み始めた。実に居心地が悪い。
ちらちらと横目で彼女のことを盗み見ながらする作業は、お世辞にも捗っているとは言えなかった。今彼女は僕の書いた悪意の塊みたいな文章を読んで何を思っているのだろうか? そこに失望めいたものはないだろうか? そんなことばかり考えてしまう。
少しずつだが作業を進めていると、どうやら彼女は読み終わったらしい。顔をあげて話し掛けてきた。
「読み終わりました! すごくいいですね! 私こういうのとても好きです」
意味がわからなかった。万人受けどころか一人に受けるかすらも怪しい文章を読んですごくいいだと? しかも表情がお世辞を言っているようには見えない。
「そんなことないですよ。まあ、それでもそう言ってもらえて嬉しいです。ありがとうございます」
彼女はそれを聞いて少し考える素振りを見せた。そして次に放たれた言葉はある意味では僕の予想通りだった。
「あの、もしよかったらなんですけど続き書けたら、途中でもいいのでまた読ませていただけませんか? 続きがすごい気になっちゃって」
彼女の期待するような続きを書く予定はないが、そのうち飽きるだろう。それなら少しの間誰かにこれを読ませるのもありなのかもしれないな。
「ええ、いいですよ。ある程度続き書けたらファイル送りますね」
そこで会話が終わると思っていたのだが、どうやらまだのようだった。彼女からある提案をされたのだ。
「できればでいいんですけど、ここで直接会ったときに読ませていただけませんか? そしたら直接感想とかも言えますし、それになんか居心地がよかったんです。自分が読んでいるものを書いている人の隣でそれを読むのが。だから直接がいいんですけど、どうですかね?」
不思議な人だ。素直にそう思った。そして、それを断る理由も見つからない。僕は黙って頷いた。
「やった! ありがとうございます。それでは私はここら辺で失礼します。また今度、楽しみにしてます」
そう言って彼女は会計を済ませて店を出ていった。
僕も久しぶりに人とまともに話したことで少し疲れていたため、少し経ってから彼女の後を追うように店を後にした。
家に帰ってタバコを吸っていると僕の書いている文章のどこに彼女が良さを感じたのかが気になり、改めて自分で見返してみたが、やはり良さなど微塵も感じなかった。
もう何かを考えるのはやめようと思い、パソコンを閉じてウイスキーを煽り、タバコを吸ってから眠りについた。
「私の言うことを聞かない奴は絶対に失敗させる」
指導者の口から出るとは思えない言葉だった。支えるべき相手に対して腹いせのように告げられたその言葉は地獄の始まりを意味していた。
今までのことが嘘だと感じられるほどの地獄がこの日から始まった。すべてを否定され、積み上げてきたものを壊され、蹂躙される日々が始まった。
その悪魔は笑いながら言う。
「言っただろ? 必ず失敗させると。言う通りになって嬉しいよ」
許せなかった。僕たちから、先輩たちから夢や目標を奪い尽くしたお前が。今までの僕たちの努力すべてをぐちゃぐちゃに壊そうとするお前が。
「今からでも私の言う通りにすれば許してやるよ」
「うるせえ!」
僕は怒りのままに悪魔のことを殴った。みんなの代わりに、他の誰かのために。けれど、最終的に僕の目の前に突き付けられたのはすべての終わりだった。ここから去り、さらには今いる学校からも去ることを突きつけられた。
誰か、誰か一人だけでも擁護してくれる人がいるはずだ。僕と一緒に怒りをぶつけてくれる人がいるはずだ。そう思っていたとき、無情な現実が突き付けられた。
「全部お前が悪い」
心を折られ、すべてを捨てることを選んだ仲間だと思っていた人たちからの言葉だった。誰一人として僕の味方をしてくれる人などいるはずもなかった。皆もう戦うことを諦め、現状の地獄を受け入れていた。
悪魔の意に背く者として、皆の輪を乱すものとして、僕だけが敵に仕立て上げられ、そして捨てられた。味方などとうの昔に失っていた。
「仲間だと思ってたのに……」
鳴り響くアラームの音でありもしなかった過去の記憶の夢から引き上げられた。ありえるかもしれなかった過去の記憶、時期は違うが断片的に記憶と一致している記憶。夢の中の自分は現実の自分よりも強い。
目覚めた瞬間に嫌な記憶を思い出してしまった。僕はベッドから起き上がると、迷わずにロックグラス二杯分ほどの量が残ったウイスキーのボトルを手に持ち、直接口をつけて一気にボトルの中身を飲み干した。寝ぼけた身体にとてつもない量の薬物の摂取はいつもより数倍の効果をもたらし、喉から食道、胃まで焼けるような熱が走る。少し遅れて身体が体内の薬物を取り除こうと強烈な吐き気をもたらし、僕はトイレに駆け込んで今飲んだばかりの薬物をすべて吐き出した。しかし、過剰に薬物に反応してしまった身体は際限というものを知らず、胃液まで吐き出しても吐き気が収まることはなかった。
ぐったりとしてベッドに横になると必死に吐き気に耐え続けた。ぐるぐると視界は回り、何にも上手く焦点を合わせられない中で、腕に広がるケロイドだけがなぜかはっきりと視界に移すことができた。
身体の異常が収まるまでには三時間ほどかかった。僕は倦怠感が残る体を無理やり起こして手元にあったタバコをすべて吸い尽くし、デスクの前に座って無意識にパソコンの電源を入れた。その僅かな時間の中で、僕は自身の過去の記憶に意識を完全に奪われていた。ひたすらに孤独の中で戦っていた頃の記憶に。
意識を取り戻すと孤独について考えていた。もっと言うと僕がなぜ孤独にならなければならなかったのかを考えていた。しかし何もわからなかった。
一つはっきりとわかることがある。孤独に耐えられる人間など存在しないのだ。一見耐えられるように見せている人間は、孤独を直視しないようにして何かでごまかしているに過ぎない。世界から隔絶され、孤独の海に投げ出された人間は色んなものを失う。
感情、倫理観、人間性……
どれも失くしてしまってはいけないものだ。それを喪失してしまえば、たちまち人間は壊れていく。それらを失くさないために、人間には寂しいという感情が備わっている。だが、生憎僕には寂しさを埋めてくれるような存在はいない。人で空いた穴は、人でしか埋めることができない。それができない僕は孤独のまま、幼い子供の様に寂しいと泣き続けることしかできないのだ。
さっき見たばかりで色濃く残る夢の記憶と、自身の中にある記憶、ありえるかもしれなかった記憶をパソコンに打ち込んでいるうちに意識に靄がかかりだした。
消えかかる意識と理性の中で、僕は新たなケロイドのもとになる傷を左腕に増やしてからその意識を手放した。
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