第3話

 ホテルのフロントで部屋のキーを受け取る。エレベーターで五階に上がり、部屋の鍵を開けた。煙草と消臭剤のケミカルな匂いが鼻を突く。曹瑛はコートとスーツをハンガーにかけ、ドアに近い方のベッドを確保した。もし仮に敵が襲ってくるのは窓ではなく、ドアからだ。彼なりの気遣いに孫景は悪い気はしなかった。


「俺は買い物に行ってくる」

 孫景は部屋を出て行く。ホテルの横に二十四時間営業の小さな商店があった。適当につまみを見繕ってビールを四本、ラークを二箱買って部屋に戻る。曹瑛はシャワーを浴びているようだ。

 孫景は窓際の応接セットに腰を下ろした。ピリ辛に味付けした鶏の足をつまみにビールを開ける。仕事終わりのビールは格別だ。二本目に手を付けようとしたとき、曹瑛がバスルームから出てきた。白いTシャツに黒のジャージ姿、眠そうな顔で髪をガシガシとタオルで拭く様子は先ほどまでスーツを着こなした伊達男と同じ人物とはとても思えなかった。


「うへっ」

 突然、孫景が間抜けな声を上げて飛び上がる。何かと思えば、ベッドの下から這い出してきた大きなムカデに怯えている。

「俺は虫だけは駄目なんだよ、なんとかしてくれ」

 いかつい男が悲鳴を上げて椅子の上にへっぴり腰で立つ姿は情けない。曹瑛は枕の下から赤い柄巻の軍用ナイフ《バヨネット》を取り出した。床を這うムカデめがけてナイフを投げる。見事ムカデに命中し、曹瑛は窓からムカデを放り出した。孫景はほっと胸をなで下ろす。


「助かった、恩に着る」

 孫景は心底感謝している。曹瑛が騒動で床に転がったものを拾い上げた。孫景のリュックについていたパンダのマスコットだ。

「お、ありがとな」

 そう言って、孫景はリュックに取り付けようとしている。

「お前にパンダは似合わない」

 曹瑛は応接セットに座って脚を組み、マルボロに火を点ける。

「これな、妹との約束なんだよ」

 アルコールが入った孫景は顔を真っ赤にして話はじめた。


「俺の故郷はこの杭州の西、孫姓が多く住むド田舎の村だ。貧乏暮らしで子だくさん、俺を筆頭に兄弟が五人いてな、弟が二人、妹が二人。一人っ子政策なんて田舎には関係の無い話だ」

 孫景は笑う。曹瑛は黙って話に聞き入っている。

「六つ離れた妹がな、生まれつき心臓に欠陥がある病気だった。手術をすれば生き延びられるが、しなければいずれ命を落とす。手術は医療先進国でしか受けられない。その費用は莫大な金額だ。うちは貧乏暮らし、両親は彼女の命は天命だと言う」

 孫景は続ける。


「一番下の妹だ。俺にもよく懐いて、小柄で可愛い子だった。俺はどうにかしてやりたかった。手術には大金が必要だ。それで村のヤクザものと組んで、運び屋の仕事を手伝ったのが始まりだ。それが今も続いてるんだから、これが俺の天命なのかもしれないな」

 孫景はパンダのマスコットを両手で包み込む。

「病気が治ったら、動物園にパンダを見に行こうって、俺が買ってやった絵本で見たパンダの本物を見たいってな。それは叶っていない」

 孫景はヤニで黄ばんだ天井を仰ぎ、つまらない話をした、と自嘲する。

「飲むか」

 孫景が曹瑛にビールを勧める。

「仕事中は飲まない」

 曹瑛はマルボロの灰を落とす。孫景は酔いを醒ましてくる、とバスルームへ向かう。曹瑛は煤けたパンダのマスコットに目をやる。果たせなかった約束を引き摺っているのか。曹瑛は微かに目を細めた。


 孫景がバスルームから出ると、すでに部屋の明かりがダウンライトになっていた。曹瑛はベッドに横になっている。ライトはそのままに、ソファに腰掛ける。ビールを開け、流し込んだ。ふと、曹瑛の呻き声が聞こえてきた。寝苦しいのか、ひどくうなされているようだ。

哥哥あんちゃん

 孫景は起こしてやろうと肩に触れようとした手を止めた。曹瑛が反射的にその手を振り払う。

「俺は寝ているときに他人に近付かれるのが嫌いだ」

「ずいぶんうなされてたぞ、大丈夫か」

 曹瑛は孫景を頑なに拒むように暗い瞳で睨み付けていたが、ふんと鼻を鳴らして横になりふとんをかぶってしまった。

「何だよ、一体」

 孫景は頭をかきながらベッドに身を投げた。


 煤けた窓ガラスから漏れる朝陽の眩しさに孫景は目を覚ました。曹瑛はすでにスーツに着替え、窓際でマルボロを吹かしている。

「お前のいびきはひどい。眠れなかった」

 曹瑛は何度か夜中に目が覚めてその度に絞め殺そうと思った、と続けた。

 身支度を調え、チェックアウトを済ませた。ホテルの隣にあるファーストフード店で朝食を取る。トラックのセンサーは反応が無かった。荷物が無事なのを確かめ、孫景はエンジンをかける。


「上海までここから約百八十キロ、地道で行っても三時間強で到着できるだろう」

 空は見事な秋晴れだ。トラックは東へ向けて走り出す。時刻は朝七時、正午の約束には余裕で間に合う。杭州市の市街地を抜ければまた農道が続く。のどかな一本道だ。孫景は気持ちスピードを上げた。

 上海まで一時間地点まで距離を縮めたところだった。不意に破裂音がして、孫景はハンドルを取られる。横転しないようバランスを取り、農道脇にトラックを停める。孫景と曹瑛がトラックから降りると、挟み込むように前にボルボ、後ろにジープが急停車した。トラックの後輪がパンクしている。

 八人の黒スーツの男が二人を取り囲む。その手には自動小銃を持っている。


「積み荷を渡してもらおう」

 黒服のリーダーが一歩前に出る。開襟シャツの胸元から龍の刺青が覗いている。曹瑛は鋭い殺気で黒服たちを牽制する。

「渡すわけにはいかねえ。俺はプロだ。依頼されたものは目的地まできっちり届ける」

 孫景がニヤリと笑う。銃口が向けられているが、怖れる素振りはない。

「お前たちを殺して奪うのは容易い」

 リーダー格の刺青男は腕を広げ、派手な仕草でおどけてみせる。

「何故、こんな規模の小さい取引を狙う」

 曹瑛が尋ねる。銃で狙われていても不遜な態度を崩さない。

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