其の三


「不思議に思わないのかしらね。そもそも腕を切り落とされても喋るだけの余裕があり、逃げ惑うだけの体力もあり、更には褥が鮮血に膨れ上がっても未だ生きながらえる程の血液量って、あなた……可笑しいじゃないの。あたしの耳が見えるだの、そもそもこの〈骨食〉に切り裂かれるとあれば、それは最早答えのようなものなのだわ。しかしこれぞ氷解するというやつかしら。よもやのよもや、成程、自覚がないが故に〈無自覚に己の存在理由として振りまいていた〉となれば、それはもう、ある意味では装置のような扱いね……」


 鶴の嬢の手元に彼の息遣いはない。

 血の海に転がっている臓腑のそれらも動きはない。

 それらはそもそも〈形を成せども機能していなかった〉。

 だというのにもかかわらず、切り裂かれた当の本人である霧雨亭には未だに意識があった。


「何をいっている、この化け物が……! いいから手を離せ! 何をどうのこうのと一人で完結したような風に物を語りおって! そうとも、このままでは死んでしまう! 血が足りぬ、血が、そうとも、血が、こうも……流れて、は……?」


 最初、彼の言葉は怒りに任せたような物言いだった。

 だが次第にその勢いは鳴りを潜め、まるで確信を突くような鶴の嬢の台詞を反芻はんすうするかのように頭の中で巡らせた霧雨亭は、段々と言葉尻をすぼめていく。


「そうだ、このままでは死ぬ……死んでしまうじゃないか。そう、危険だ。何せ人というのは脆いのだから、それも身体を動かすには十分な量の血がいるんだ。でも何だろう、この違和感は……? そもそも何故に腕を斬り落とされているのに、臓物も零れ落ちているのに、何で私は今も生きているんだろう? 何故に意識がある、何故……何故だ……?」


 人という生き物は、普通、腕を斬り落とされたら話す余裕も余力もなくなる。

 腹を真一文字に斬り裂かれ、臓腑が零れるとなれば即座に絶命する。


 それらは全て当たり前のことだった。

 それ故に人という生き物は弱く、脆く、簡単に消えてしまう儚い存在だった。


 彼は当たり前にも程がある人の生態を考えるとこの状況に違和感を覚えた。


 霧雨亭は己の様子を見てみる。

 片腕はないし臓物が零れている。

 心臓の鼓動はないし、溢れる程に垂れ流れていた血も既に止まっていた。

 

 それらは全て人が生きる上で失ってはならない内容だった。


 人は心臓が止まれば死ぬし血が多く流れてしまっても死ぬ。

 あまりにも当たり前すぎるのに、今、彼は意識もあるし意思の疎通すらも取れていた。


 仮に人であるならば、現状の霧雨亭のようになればとっくに死んでいる筈だった。

 困惑する霧雨亭を見て鶴の嬢は鼻を鳴らすと、息遣いのない彼の面に顔を寄せた。


「無様ね、霧雨亭……だって〈それがあなた〉なのでしょうよ。噺家だとかと都合のよい肩書なんぞ名乗ってからに。その実態こそは正しくあなたが得意とするものでしょうに」

「はぁ? 私? 私が私って何だ? 何をいっているのだろう……分からない。分からないが、けれども不思議と分かる。幾らでも噺を書いてきたのに、幾らでも饒舌に語れるのに、それに終わりがあってはならないのだから、やはり私はまだ、死んではいけない。いけないのだ。だってそういう風にあるべきなのだから、私が私であるというのならば、私は〈永遠に語り続けなければいけない〉じゃあないか。そうだとも、ここで命尽きることなど〈誰も望まない〉……そう、〈誰にも望まれていない〉のだから――」

「成程ね……あなたはそういう形なのね、霧雨亭。つまりは〈人々の負の集合体であり、それを世に撒き散らす為に存在する悪意そのもの〉なのね。ではあなたは不死衛門と同じ存在だというのね……実に哀れ極まる存在だったのだわねぇ」

「何をいう、何をいっているのだ。早く私を離せ、早く、早く私を自由に――」

「ねえ、霧雨亭」


 鶴の嬢の吐息が彼の頬にかかる。

 それの感覚など通常ならば分かる訳もないのに、彼は死んでいる筈なのに、その生暖かさも、彼女の誇る甘ったるい薫香くんこうも、何もかもを強く感じていた。


「あなたも〈怪異〉なのよ――〈霧雨亭〉」

「は……?」


〈霧雨亭〉――後の世に知られることはない。

 そんな噺家の存在は

 大正の世において〈怪談〉は流行れども〈都市伝説〉などと呼ばれるものは


 彼の得意とした〈都市伝説〉という言葉が世に知られるようになったのは昭和の末期であり、そもそもが民俗学で用いられてきた言葉だった。

 或いは彼自身が思いついた言葉だとしても、それが大正の帝都で根付くだとか浸透しただとかという記録も一切なかった。


〈霧雨亭〉の目が見開かれる。

 それを見て鶴の嬢は息を吐くと、彼を鮮血により膨れ上がった褥の上に落とした。


 溢れる血と臓物の海の中、〈霧雨亭〉はどもるように何事かを呟き、呻き、次第に顔は青白くなると、彼は放心したようになる。


「さて――……ようやく自覚を得たかい……〈霧雨亭〉」


 そんな時だった。

 妙に冴える意識のまま〈霧雨亭〉は耳に恐ろしい声を聞いた。


 それは聞こえる訳がなかったし、聞こえていい訳がなかった。

 何せそれは彼自身が先程亡ぼした存在だったし、よもや地獄の底から這い上がってきただとか、或いは蘇るだとか、そんな〈怪異〉が存在する訳がないと彼は恐怖した。


「ほう、伊達な姿になったじゃあないか〈霧雨亭〉。僕もわざわざ地獄に落ちた甲斐があったというものだよ」


 それは突然に闇の中から這いずり出てきた。

 その声は先の小川で聞いた時と変わらないのに、その男の姿形というのは大きく違っていた。


 背広スーツを着込み、顔は白面で、背からは枝垂しだやなぎのような黒く細長い触手を生やし、青黒いもやのようなものを纏って姿を現す。


 それは一説に〈のっぺらぼう〉や〈八尺様〉のようだとも語られるが、真実は大きく違い、彼は〈都市伝説〉において最強格の一つに数えられている。


〈スレンダーマン〉――正確な起首きしゅというのは不明だった。


 一説にはネットロアを起源とすると噂されるがそこに正確性は失われてしまっている。理由は至極に単純で、彼は〈全ての時代に存在していることになっている〉からだった。


 その伝説とも、或いは神話とも呼べる特性を与えられたが為に〈スレンダーマン〉と呼ばれるフォークロアは人々の手綱を離れて独り歩きを始めてしまう。

 生まれの発端は人々の遊び心だったのに、気がつけば過剰にも程がある能力を彼は与えられてきた。


 森の中を彷徨い、或いは森を産み出すことを可能にした。

 人々を捕食する為に瞬間移動のような能力と、獲物を捕える為の触手を与えられた。

 見ただけで死んでしまうようにしよう――必殺必死の能力が付与された。

 それだけでは逃げられてしまうから、獲物を苦しめる為に〈やまい〉の数々を授けられた。

 残虐性が欲しいからと幼児を好んで襲う設定が追加された。

 退治されるようでは脅威足り得ない。過去に名を馳せた化け物の多くは理不尽であるのだからと、ついには不死不滅であるとして〈時を超越し、いつの、どの時代にも存在が確認されている〉ことにされてしまった。


 これ等により完成されたのが人々の誇った最強無敵の〈都市伝説〉だった。


 全ての時代に存在を確認されているということは即ち不死不滅を意味する。

 仮にどこかの時代で亡ぼされるとすれば矛盾が生じるが為に〈彼を亡ぼすことは不可能〉ということになり、人々の生みだした〈スレンダーマン〉は絶対に死なないし亡びることもなくなってしまった。


 まるで子供が考えるような怪物フリークスだが、そんな存在を望み、産み出したのは人々だった。


 非現実的な、誰もが抗えない程に強力で強烈な、出鱈目が極まったような化け物――それこそが〈スレンダーマン〉と呼ばれる、〈人々の抱く呪いが産み落とした怪異〉であり〈人々の思念の集合体〉だった。


「おやまあ、何たる惨憺さんたんなる様だい、こりゃあ……ちょいと鶴の嬢、何も好き放題にぶった斬らなくてもいいだろうに。内臓の多くも細切れにしちゃって……〈骨食〉は一振りで千も万も斬る結果になるんだよ? 君、分かってるのかい?」

「あらあら、これはまた何とも余裕でのご帰還だわね、不死衛門。あの世に参った割に口の数は減らないのだから心底に鬱陶しい奴なのだわ。そうも鳥のようにぎゃあぎゃあとわめくもんじゃないわよ、喧しいわねぇ」

「君こそ減らず口だなあ、まったく……げえっほ、げぇほ」


 血の海に転がる〈霧雨亭〉を見下ろしつつ、妖刀を持つ鶴の嬢に不死衛門は呆れを帯びた声でいう。

 対する鶴の嬢も同じような態度で、互いは互いの無事を当然のことのようにしていて、目の前で繰り広げられるやりとりを前に〈霧雨亭〉は困惑が増すばかりだった。


 そもそも亡ぼした筈の〈怪異〉が出現した事実も理解が及ばないし、元より対峙していた鶴の嬢だけでも手に余るどころか敵う相手ではなかった。


 畳みかけるようにして降りかかるのが不幸の常だが、それを〈霧雨亭〉は実感すると、最早笑いすらも出てこなくなって、自然と涙が溢れてきた。

 しかしその涙も血の色をしていて、先程鶴の嬢に突きつけられた事実を尚更に自覚すると「まるで己は道化のようではないか」と自嘲気味に笑う。


「は、ははは……そうか、私も貴様等のような化け物だというのか、はは、ははは……」


 既に抵抗をするだけの気力も、まして思いもないようで、その様子に鶴の嬢は何かをいおうとしたが、制するように不死衛門が前に出ると、彼は〈霧雨亭〉の顔を覗き込んだ。


 迫る白面を前に〈霧雨亭〉は息を呑んだ。

「生気のないような」という言葉は正しくこの白面をいうのだと悟った。

 何せ目や口や鼻はなく、無に等しいのだから、それでは感情を表現することは不可能だし読み取ることも出来ない。


 低くうずもれたような声がどこから生まれているのかは不明にせよ、それは確かに耳に捉えることが出来たし、生気を感じずとも意思は確かにあるのだと〈霧雨亭〉は結論した。

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