其の二

「まったくもって化かされる身というのは中々にしんどいものですな。しかしこうも戯れのように振る舞うのだから、あなたも性格が悪い、〈政木狐〉殿」

「いやね、普通では面白くないじゃない。こういった化かし化かされというのが古くからのナラワシじゃあないの。それこそ命を張る程に謀略を巡らせて、ね」


 霧雨亭の頭は先から都合のよい方向へと思慮が巡っていた。恐らく彼女は己の命を奪う為にやってきたものだと考えていたから、その反動が大きいのかもしれない。


 だが本当に誘いにのって大丈夫なのかとも思う。

 思うのにもかかわらず、立ち上がった彼は身をよじる鶴の嬢へと迫り、幾度も目を閉じ、また開きを繰り返し、いいや大丈夫な筈だと結論を繰り返していた。


 そうして彼の手がいよいよ乙女の胸元へと伸び、最早何の問題もないと最終結論に至り、然らば〈政木狐〉なる絶世の美女を堪能せんとしたその瞬間だった。


「けれども――その浅はかさこそがやはり、童の如き拙さなのだわよ」

「へっ――」


 凛と鋭い音が一つ鳴る。

 それと同時に鮮血が舞い上がり、今し方鶴の嬢の衣服に手をかけようとしていた霧雨亭の腕が宙を踊った。


 それは鈍い音と共に畳の上に着地すると、突然のことに呆けた面をした霧雨亭は、段々と輪郭を帯びる痛覚と衝撃により、この日最大の声量で叫び散らすと畳の上にうずくまった。


「が、あぁああああああ! 何、何をする、神の代行だろうが貴様!」

「あらまぁ不甲斐なく叫ぶのだわね。やはり童のように未熟なのかしら……」


 鶴の嬢の手の内には先の千鳥ヶ淵でも振るった妖刀〈骨食こっしょく〉があり、霧雨亭の腕を斬ったのは紛れもなくこの妖刀だった。

 鮮血に染まる〈骨食〉を握り締めたまま、彼女は苦悶に面を歪め這いまわる霧雨亭の背を踏みつける。


「がぁっ!」

「何処へ行こうというの。何もまだ済んでいないのだから勝手な真似をしないでくれるかしら」

「ふざっ、ふざけるな糞女め! 斬りかかっておいて何を!」

「あはは、ふざけるなですって? 一体どの口がいうのかしらね」


 鶴の嬢は霧雨亭を適当に蹴り上げると、仰向けになって倒れる彼の口に〈骨食〉の切っ先を突っ込んだ。

 それにより彼の口腔こうこうは幾らか傷つき、血が垂れたが、彼女は気にもせず肉薄すると彼の顔を覗き込む。


「少なくはない人々の命を奪っておきながら手前勝手なことをいわないで欲しいものだわ。そうも都合のよい口調というのも噺家だからかしら。憎らしいくらいに不快だわよ」


 喋ろうにも刃の所為もあって霧雨亭は呻くのみだった。

 そのザマに呆れたような顔をする鶴の嬢は再度と霧雨亭を蹴り飛ばす。

 今度は襖を突き破る程に吹き飛び、彼は隣室に用意されていた褥の上に倒れるが、それでも這い上がると背後から迫る鶴の嬢に叫び散らす。


「人の命を奪ってだと? ふざけるな、それこそ勝手な結果だろうが! 私の産み出した〈都市伝説〉を面白がって噂にするだの、そこに赴くだのと、油断して楽しんだのは人々だろうに! だのに私こそが罪であるかのような物言いはなんだ、馬鹿にしやがって!」

「はん、まるで阿呆の理屈だわね、古き時代の〈呪い〉や〈怪異〉のように〈そこに近付くな〉と戒めの如くに語るならまだしもね、あなた、新作落語だとかと娯楽のままに噺にして、人々の好奇心を煽ったのではないの。それで実際に人が死ねば勝手な行動の末路だとかというの?」

「その筈だろう、私は間違っちゃいない! 私は別に確認しろとか、見てこいといっていた訳じゃない!」

「では〈四階で御座います〉は何だというのかしらね。例えば〈千鳥ヶ淵〉は時代のそれが如く悲恋や自由等の哲学をうながす噺だけれどもね……端からありもしない存在を作り上げて、それも人々のよく行く場所に産み出して、これによる〈死〉をどうして人々の不注意だとかと結論付けることが出来るのかしら」


 鶴の嬢の瞳には紅蓮のような赤い輝きがある。

 それはまるで彼女の抱く怒りに呼応するかのようで、彼女の背後では実体を持った九本の尾が妖しげに揺らめいていた。


「それはどう考えても剥き出しの殺意だし〈四階で御座います〉と遭遇してしまった人々は抗うことも出来ず〈死〉に至るのだわ。更には話題の拡散と共に発祥云々を無視して至る所に同じような〈呪いによる怪異〉が発生してしまうじゃあないの。元より逃げ道を用意もせず、必殺必死のままに〈死〉へと追い込むその所業は正しく悪でしかないのだわ」


 先の彼の言い分を信じるとして、ではもっと容赦のある内容にできたはずだった。

 だが彼は時代の象徴性を含むデパートのエレベーターを〈都市伝説〉の舞台にしてしまった。


 出来上がった〈都市伝説〉の内容は正しく〈呪い〉のように人から抵抗の手段を奪うが、これを娯楽によって産み出した〈怪異〉だと判断することはあまりにも無理があった。


「では悪であるからと私を殺すつもりか、私自身は人を殺めたことすらないのに!」

「直接には、でしょう。ところで殺意を否定しないのは事実なのね。いえ、そうでしょうね。何せ先の不死衛門がよい例だけども……ああいった〈呪詛じゅそ〉を常日頃携帯しているのだものね」

「元から護身の術として常に持っていたものだ、別に殺すつもりなど――」

「尚のこと過剰よ。あなたね、不死衛門を奈落に引きずり込むとなると、それってのは普通の人々では確実に死ぬことになるじゃないのよ。あなたは己の身を護る為ならば他者を殺めることも厭わないというのかしら。いつの時代の侍気取りなのやら。まして欧米人でもあるまいし」


 情けなど持ち合わせぬといった相貌になる鶴の嬢。


 霧雨亭は何とかして逃げの手を探すが既に詰みに等しかった。

 片腕は斬り落とされ、溢れる血の量からしても生き延びる術というのはなかった。

 褥は鮮血に塗れ、血みどろの景色において救いは皆無だった。


「……何が問題だというのだ、幾らかの人が死ぬ結果になろうとて、これしか私の術というのはない! 生きる術はないのだ! そうであるならば仕方がないじゃあないか!」

「仕方がないで済ます程に人の命は軽くはないのよ。それを結果的に奪う形となったあなたに生きる術を語る資格などないじゃないのよ」

「ならば貴様も同じくではないか! 過去に悪逆あくぎゃくの限りを尽くした癖に、千や万の命を導いたからと神気取りめが! こうやって人の命を奪うのが常道じょうどうなのだろうが、化け物め!」

「あらまぁ、化け物とはいってくれるじゃあないの。さも己は普通かのような、それこそ〈人のような物言い〉をしくさってから、に……?」


 叫び散らし、鋭い双眸そうぼうで鶴の嬢を睨み付ける霧雨亭。

 向けられた内容に最初、鶴の嬢は呆けた顔になるが、しかしそれもほんの少しのことで、くつくつと笑いを漏らすと次第にそれは勢いを増し、ついには抱腹する程の大笑いをした。


「あは、あはははは! 何をいうかと思えば、まさかあなた、霧雨亭……〈まるで己は化け物ではない〉かのような口ぶりじゃあないの! 人の命を奪うことをしておいて〈己は立派に人である〉かのようじゃあないのよ、あはは!」

「何が可笑しい、当然に私は人なのだ! 貴様のような人ならざる存在には、どうあっても人の心のうちだとか、必死になる様というのは理解出来ないのかもしれんな、〈狐〉めが!」


 その様子は宛らに狂気を思わせる程の大笑いだった。

 理解し難い反応を前にして霧雨亭は咽喉のどを鳴らし、兎角として状況から逃れる為に手段はないかと目を配らせた。


 寝室のつくりは然程広いとは呼べず、先程吹き飛ばした襖以外の出入り口というのはない。それは乙女の背にあり、今の霧雨亭は追い詰められている形だった。


 だが霧雨亭は気がついた。

 暗がりの中、輪郭を確認出来るだけの明るさがあることに。


 それは彼の背後にある窓辺から射し込む月明りによるものだった。

 霧雨亭は微かな希望を抱く。

 一寸すこしの程度でいい、その隙さえ衝けば、もしかしたら己は背後にある窓から外へと飛び出し、この状況から逃れられるかもしれないと考えた。


 好機は今この瞬間こそにあると彼は判断した。

 意味不明にも大笑いをする〈九尾の狐〉は間違いなく油断をしている――確信を抱いた彼は全身の筋肉を緊張させると、今こそ全力を以って状況から逃げだすべく、勢いよく立ち上がろうとした。


「いいえ、霧雨亭。のよ。ああ、なんたる滑稽なザマかしら。ねえあなた、そうだとするならばいよいよ救い難い程の阿呆なのだわ。で、あるならば……せめて自覚くらいは抱かせねば、哀れにまでなってしまうわね」


 だが、その瞬間を待っていたかのように鶴の嬢が〈骨食〉を振るった。

 それにより景色に一閃が描かれ、鮮血の軌道は霧雨亭の腹部を真一文字に切り裂いた。


 臓腑が飛び出し、鮮血が飛び散り、景色は惨憺さんたんなものになる。

 しかしその殺戮の景色において鶴の嬢は未だ笑みを浮かべたままで、凶刃きょじんに斬り裂かれた霧雨亭の首根っこを引っ掴むと片腕で軽々と持ち上げた。


「ねえ……何であなたは死なないのかしらね?」

「ぐぶっ、がぼぁっ」


 乙女の瞳に真紅の輝きが浮かぶ。

 それを見て、或いは乙女の御髪おぐしに紛れる〈狐の耳〉や、背後にうごめく九つの尾を見て、これが本当に善を象徴する〈政木狐〉なのかと彼は疑問を抱いた。


 曰くは戦乱の世において〈浮き城忍城〉の御堀の傍で茶屋を営み、人々の悩みを聞くだとか、それを解決してやるだのをしていた老婆こそは名高き政木大全まさきたいぜんを幼少の頃より守護奉った〈九尾の狐〉だったという。


 若き大全の乳母うばをしたりと〈政木狐〉なる伝説の〈狐竜こりゅう〉は慈愛に満ちた、正しく神の代行に相応しい程の格を持つが、今、霧雨亭を持ち上げる鶴の嬢に妻恋つまごい稲荷の慈愛など微塵もないように見える。


 故に、やはりこれの正体というのは〈政木狐〉ではなくて、悪逆の〈妖狐ようこ〉ではないかと霧雨亭は考える。幾らなんでも殺意が強すぎるし、やはり民草を導くような風には見えなかった。


 しかし霧雨亭は肝心な部分に全く考えが回っていない。


 実際のところ、鶴の嬢は怒っていたし、先には友の関係でもある不死衛門を直接に殺されている。更には今までの口争こうそうから鶴の嬢は霧雨亭の性根を酷く嫌っていた。


 他者の命が危ぶまれる状況など歯牙にもかけず、己が生きる為であれば他者に被害があろうとも仕方がないと済ますような、それは外道の所業であるのに、まるで己は悪ではないように語り、どころか死した者こそが愚かだと彼はいった。


 故に乙女は激怒した。

 何せ彼女は紛うことなき神格の長の座を頂く〈政木狐〉そのものであり、そんな彼女を前にして、愚かにも他者を殺めることの正当性を主張すれば、乙女が古い時代のような破壊の限りを尽くしても至極のことだった。


 そして更に付け加えるならば、乙女は〈殺意や怒りと同じ程度の憐憫れんびん〉も抱いていた。

 真紅に輝く瞳の中に哀れみの色が混ざり、乙女は霧雨亭を諭すように語り始める。

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