四 不死衛門

其の一


 霧雨亭は質素倹約で、いつの日か手にした邸宅にしても豪華絢爛とは程遠い。

 彼の住まう邸宅に招かれた鶴の嬢だが、これが流行りの噺家が住まいかと意外な事実に疑問を浮かべたが、長屋住まいの不死衛門と比べれば遥かに豪華なのは間違いなかった。


 かくいう彼女の住まいというのは不死衛門ですらも知らぬことで、果たして乙女の住処というのはどれ程に豪奢ごうしゃなのかといつかの折に不死衛門は笑っていた。


「酒でも如何ですかな」

「いえ、結構だわ」


 邸内は静かだった。

 通された部屋は十畳ばかりの広さで隣の襖を開ければ寝所がある。


 元より淫乱の如くにけしかけたのは鶴の嬢だったが、彼女は可笑しい風に笑うと「質素倹約とはいえ性ばかりは留るところを知らないのだろう」と結論した。


「しかし意外にも普通の邸宅なのですわね。もう少し派手な暮らしでもしているものかと」

「ええ、まあ……然程暮らしの環境というのに拘りはないものでしてね。どうせ必要なことといえば噺を考える頭とそれを書く物だけですから」

「成程、墨を磨る以外に用はないと。かえって贅沢なのだわ」

すずりを置くに耐えうる机に静謐せいひつに満ちた部屋もかかせませんな」

「まるで勤勉な書生だとか名の知れた物書きだわね」


 酒の代わりに出された白湯さゆを口にしつつ鶴の嬢は感心したようにいう。それに対する霧雨亭は、然程のことではないと呟きつつ彼女と対する位置に座った。


「しかし驚きですな。何も訊かぬのですかな」

「はて、何を訊きましょうかね。彼を何処へやったのかとか、あなたは何者であるか、だとか?」

「まあ通常はそこら辺に意識が向かうのでしょう。或いは御所望の〈都市伝説〉ですか」

「それはしとねでの楽しみに致しましょうよ」

「ははは、なんとも不埒ふらちな……」

「何せモガですからね。時代の先を生きる女というのは男の一人や二人、片手間に喰らうのが粋なのだわ」

「まるで艶福家えんぷくかかのような振る舞いですなぁ。それもまた流行りでしょうかね」

「世はそれに溢れ塗れているのも事実でしょう。よもやの時勢じせい読みの貴殿に分からない筈もないでしょうに」

「まあ愚問ですな」

「少なくはない男共が喫茶店で春を買うのと同じくよ。結局、人の浅ましさというのは古い時代から変わりゃしないのだわ」

「まるで見てきたかのような物言いですな」


 乙女らしからぬ人品じんぴん骨柄こつがらだと霧雨亭は笑う。


「或いはその性剛せいごうの様も〈狐〉であるが故でしょうかな」

「あら……まるで当然のように分かるのだわね」

「ええ、まあ……帽子を嫌うのはその耳にとって煩わしいからでしょうか?」

「ふぅん……しかもちゃんと視えている、と」


 洋装に拘る鶴の嬢は帽子を嫌うが、その理由は耳にとって邪魔でしかないからだった。

 ところがこの耳は通常、見ることは叶わない。

 それは彼女が意図的に隠していることもあるが、何よりとしてそれを捉えることは出来なかった。


「感じる、といえばよいのでしょうかね。先の不死衛門殿も凡そ人の空気を感じなかった。あなたの洋髪はとても美しく黄金に輝くが、よくよく見ればぼんやりと耳が見えてくる」

「……成程。やはり〈都市伝説〉だとかという〈呪い〉や〈怪異〉を産み出す人物というのは、凡そ普通ではないようだわね」

「お褒めに与り恐悦至極、ですかな」

「恐ろしくはなくて?」

「ははは、〈狐〉は実に種類が多いですからな……それこそ〈野狐やこ〉と一括りにしてしまってもよいのでしょうが、当人を前にしては、それでは無礼が過ぎるでしょうな」

「白に黒に天に空に、色だけのみならず尾の数だけでも呼び名は変わってしまうものだから、完全に把握するのは難しいでしょうね。けれどもその気概だけで十分だわよ」

「そう仰って頂けるとありがたい限りですな。善に悪にと、誠、あなた達〈狐〉というのは複雑だが……或いはその美貌を前にしては、更に〈狐〉となれば〈玉藻御前たまもごぜん〉を想起する程だ。そうであれば当然に恐怖をする。しかし……そういう世を掻き乱す存在には見えない」

「ではあたしは〈荼枳尼天だきにてん〉かしらね」

「ほう、夜叉やしゃでありますか。確かにそういった気骨も窺えなくはない。勇ましくも友をほふった相手に真正面から対峙し、どころか床に誘う胆というのは鬼神が如くといえる」

「では真実は如何かしら」


 試すように微笑む鶴の嬢。

 その可憐な微笑みを向けられては世の男共は皆、太刀打ちも出来ずに骨を抜かれるのも仕方なしと霧雨亭は思った。


「否でしょうねぇ。何せ武の神であるならば先の時点で飛び掛かっている筈でしょうから」

「ああ、成程、それは確かにそうね。面白がって見ていては夜叉とはいえないわね」

「しかしそこが性格もまた〈狐〉のらしさといえる。が……見捨てるような真似も出来ぬその慈悲深さがまた疑問を抱かせる」

「見捨てているけどね」

「そうでしょうかね。まるで潮を窺うように、私を逃すまいと迫っている風ですがね」

「あら、中々に用心深いのね。その割に床はすぐ隣にあるように思えるけども」

「あわよくば〈狐〉の媚態びたいを見たくもなるのが男の業の深さでしょうかね」

「あなたも時の帝が如くに祟られ殺されるのが趣味かしら?」

「いやぁ、恐らくそうはなりませんでしょうな」

「へえ、それはまた何で?」


 先から鶴の嬢は愉快そうで、それもこれも流行りの噺家というのが彼女にとっては新鮮だったし、言葉を交わせば霧雨亭の知識量が窺える。

 では己の正体に辿り着くだろうかと、そういった楽しみ方を彼女はしていた。


「結論からいえばあなたは悪逆あくぎゃくの如し〈狐〉ではないからだ。人の世に深く関心を抱き、それらに紛れて生活をするという……いや、実態は〈民草の守護〉を意味するその慈悲深さこそは〈瑞獣ずいじゅう〉のその物を思わせる」

「ふんふん。それで?」

「古くから日本には稲荷いなり信仰がありますがね、稲荷の使いや、或いは稲荷神として祀られる〈狐〉というのは古今ここん悪戯に人を惑わすだのと実にお困り極まる。その節はあなたからも窺えるが……慈愛の精神こそが勝る風に窺える」

「何故にかしら?」

「それこそは友を思っての接近でしょうからね。しかし他者を助ける〈狐〉というのも多くはない。かつ、あなたの背からは複数の……〈九つの尾〉の影が見える。ならば〈九尾〉……傾国のそれに恥じぬ美貌は正しく羞花閉月しゅうかへいげつですが、面影には母性の強さも感じる」

「……中々にじれったいわね。あなた、褥でもくどく繰り返す性格でしょう」

「いやあ、噺家の性格ってのはそんなもんですよ。しかしあなたも人の話を辛抱強く、よく聞く性質たちですから……これで確信に至った」


 霧雨亭の両目が鶴の嬢を真っ直ぐに射抜き、いよいよ彼女の正体を口にした。


「人の言葉を根気よく聞くのも〈忍城おしじょうの御堀の傍で茶屋を営んでいた時の経験が故〉ですかな……〈政木狐まさきぎつね〉殿。千や万の人々を救い、政木大全まさきたいぜんをお救いになられた救国の〈九尾〉とは正しくあなたなのでしょう」

「……ふふふ。ふふ、あはは……成程成程、慧眼けいがん冴え渡るとは正しくだわね。〈狐〉からよくぞそこまで勘繰りをしたものだわよ、ええ、実にお見事」


 面白くて堪らんとばかりに鶴の嬢は笑い、口角をこれでもかと広げる。


 彼女の背後では実体のない影が尾のように揺らめいていた。

 その数は九つ。

 曰くは〈瑞獣ずいじゅう〉が一角のうちでも暗君あんくん殺しの性格を抱く難しい気質の神格だが、彼女は大きく息を吐くと、実に満足した顔になる。


「正解よ、霧雨殿。よく辿り着いたわね」

「しかし〈八犬伝〉に描かれた物と比べると幾分も……いや、あまりにも幼い風に思われる」

「姿や形など意味をなさないのよ。己のある様というのは己のあるがままなのだわ」

「成程、中身にこそ意味があると」

「ええ、そうよ。見てくれは乙女であれ、その中身は千を越える時を生きるのだから、本当、外見に騙される人々というのは阿呆のようだわね」

「ははは。これは手厳しい……しかしその美貌を前にしては、それこそ不死身を誇る不死衛門殿でも心を射抜かれましょうな」

「あら、本当にそう思っているのかしら?」


 神格を持つ存在や妖を含む人ならざる存在にとって、正体を見破られるというのは実態に迫られることと同義。

 本質を射抜かれるとなれば如何に特殊な存在であれ、例えば妖刀のような魔や鬼を断つ得物があれば亡ぼすことは可能だった。


 故に人ならざる存在というのはその正体を隠すのが当然だし、間違っても真の名前を口にすることはなかったが、この状況に至っても鶴の嬢には笑顔しかなかった。


 それを霧雨亭は奇妙に思う。

 或いは余裕だとか、人の存在に〈神懸かり〉をも凌ぐ神格を手籠めにすることなど不可能だと思っているのかもしれない。


 いずれにしても彼女の余裕の様を怪訝に思いつつ、彼は静かに立ち上がった。


「違ったとは思えませんね。あなた方のような常世とは隔絶された存在に恋心のようなものがあるかは不明だが、しかし仲睦まじく帝都で伴って食事をしていたりもしたでしょう」

「あらま、詳しいのね。ファンというやつかしら」

「元より不死衛門殿は有名人だし、あなたもそんな彼の傍にあるのだから噂の一つも立ちましょう。そんな相方を簡単な具合に亡ぼした私に対し、正体を看破されたとあれば通常ならば危機であろうに……何故に笑われるのか」

「いやあ、何せ面白いのだわ。あたしというのはあまり知れる存在ではないからね、それこそ〈玉藻御前〉だと勘違いするのが普通でしょうに」

「元より怪談噺を得手とするのですから、当然、古今の人ならざる存在に精通していますとも」


 果たして彼の胸中に彼女を籠絡ろうらくする気持ちはなかった。

 隣の部屋に褥があるのは彼女の意識をそちらに向かわせ油断を招かんとしたが為であり、それは謀略ぼうりゃくだった。


 性剛かのような振る舞いも当然ながらに演技であり、彼は鶴の嬢の正体に行き着くと、ある意味では命の瀬戸際にあるこの状況を脱する為に幾らかの考えを巡らせる。


 時を必要としていたのは彼の方だった。

 正体の分からない存在を相手にしては勝機など有り得ないし、その上〈狐〉が相手となると万全の用意が要る。


「しかしね、霧雨殿。あたしと不死衛門の間において、そういった恋情のような淡く切ない感情などは微塵もありゃしないのだわよ」

「ほお、では何故にここまで参られたというのか……」


 考えを巡らせるうち、彼は解に辿り着いた。

 対する〈狐〉が悪鬼をも凌駕する〈玉藻御前〉のような存在だったのならば、やはり手の打ちようというのは少ない。


 だが鶴の嬢は己を〈政木狐〉だと認めた。

 人々を守護し〈狐竜こりゅう〉と成り果てた神格の代表とも呼べる〈九尾狐〉は、謂わば人々を救う神の代行であり、そうであるならば彼女は人々を傷つけることは出来ないと結論する。


 それを証明するように正体を明かされたにもかかわらず襲い掛かってくる様子がないことから、彼女に己を殺す術はないのだと確信まで抱いた。


「それこそは褥に誘う為だわよ。何を勘繰るのやら。よもや愛憎に駆られてこのあたしが直接に動くだなどとお思いかしら?」

「……成程、見事に〈狐〉ですな。人をあざけるが如きその性分は、誠、対峙して幾度肝を冷やされたことか」

「ふふ、ふふふ……ああ面白かった。それで、ねえ、よい男様。あたしを抱いてくださるのかしら? それともそういった度胸もないと?」


 中身は千年を生きる神の使いだとしても、その美貌を前にしては千年も百年も一年も大した問題ではないと思えてしまう。それ程の美女が小首を傾げて軽くはだける。


 ブラウスの隙間からは白磁はくじのような肌に、脳天に突き刺さる程の魅惑的な女の香りが漏れてくる。

 それに咽喉のどを鳴らし、霧雨亭は「ではこの乙女は害ではないのだから、その身体を堪能してもよい筈だ」と思った。

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