其の五


「さて、不死衛門殿からの御所望とあっては応えぬ訳にもいきませんからね、然らば〈千鳥ヶ淵〉という噺は如何な内容なのか……それは今も命を投げやる乙女達に通じる、悲哀の恋なのであります――」


 高座こうざで語るのは霧雨亭だった。

 先の不死衛門からの無理強いにも等しい要望に気前よく応えた彼は〈四階で御座います〉の時よりも、どこか穏やかな口調で淡々と語った。


 噺の内容は今の時代より少し前、明治の頃にあったと噂される二人の乙女達の悲恋ひれんだった。


 女学校で出会った二人は運命に導かれるかのような関係性だった。

 所謂、エスと呼ばれる乙女同士の恋愛関係は特殊な部分が多い。

 互いを唯一無二の関係として永続的な関係であり、清純を保ち、鏡像きょうぞう性――同じ服装に装飾等をすること――を示し、最終的に同一化を求めた。


 同一化というのは簡潔にいえば一つの存在になることをいうが、当然ながら肉体的に重なろうともそれは重なるだけで単一の存在になる訳ではないし、一つの理想にも等しかったが、この〈千鳥ヶ淵〉はその解を示す噺だった。


 物語の乙女二人はいつしか越え難い壁に突き当たった。

 如何に愛し合い身体を重ねても真の意味合いで一つの存在になることは叶わない。

 更には愛の逃避行にも等しい鳥籠の時期もいつかは終わる。


 女性は必ず男性の下へ嫁ぐ。

 己がそれを望まないとしても時代は女性の自由恋愛を認めたりはしなかったし、それを謳いはするが蓋を開けてみれば社会進出においても「所詮は女が」と蔑まれていたのが時代の実情だった。


 つまり女性の自主性なんてものは一切受け入れられていなかったし、その真実を時代の乙女達は知るが故に、女学校という、不自由にも思える鳥籠の中にのみ自由が存在した。


 噺の終盤に差し掛かると片割れの乙女に縁談の話しがやってくる。

 どこぞの御曹司が見初めただのという話しで互いのお家はその気になり、当人はやはり道具だとか装置のような扱いで婚約は成立されてしまう。


 二人の乙女は泣く。

 これ程の苦しみはないと嘆き、ではどのようにすれば己等は幸せを手に入れられるだろうかと苦悩する。


 やがて二人は絶望の末に東京大神宮へと赴き、そこで永遠を誓った。

 それは抵抗の様子だったが、しかし二人の乙女は、これもまた運命のように、互い同時に同じ思い付きをした。


「二人同時に、丁度の拍子に命を断てば、きっと己等の愛は真実であり無垢の様であると……永劫えいごうなる愛の関係を結ぶことが出来るはずだと二人は思い立ったのであります」


 乙女達は千鳥ヶ淵にやってくる。

 互いの指を結び、それを互いに口付けて、見合って、そこで永遠を誓う言葉を交わす。


「永劫、愛しております」「わたくしもです」――それが合図だった。


 二人は抱きしめあいながら御堀へと身を投じ、互いを決して離さぬよう強く抱きしめると、静かに御堀の底へと沈んでいった。


 誰の邪魔も入らぬようにと、純粋無垢なる悲恋の結末とはあまりにも悲しく切ない最期であり、然らば来世で再会せんことを強く願い、観衆の涙こそが下げとなり噺は終わりを迎えた。


「何度聞いても心にくるわね……本当、美しいですわ。愛するあの人に会いたくなる程に……」

「綺麗な内容だよねぇ。乙女達の清らかな想いというのはどうしてこうも美しく響くのだろうか」


 最後の噺となった〈千鳥ヶ淵〉に客の多くは涙を零し、各々の感想は〈悲恋の末の心中は儚くも美しい〉というものに尽きた。


 時代は果たして〈死〉を求めていたのかとなるとそうではない。

 結末として〈死〉を迎えることが多いだけで、その過程に存在する困難だとか、それと対峙した果てに生まれる哲学や自由意思にこそ大衆は共感し、美しさを感じていた。


「死んだのにか」


 皆の反応を見つつ不死衛門は小さく零す。


 それが誰かに聞こえることはなかったが、涙の止まぬ寄席で無表情だったのは彼が只一人。

 こやつには感情と呼べるものはないのかと幾らかの人々は思うが、不死衛門にはどうにも人の抱く情緒だとか、結末として迎えられる〈死〉の美しさというのに頷き難く、では死なずして乙女等が自由を手にした場合、興醒めな内容になるのかと思いもした。


「さあ今宵はこの限りで御座います。皆様、どうぞ夜道にはお気をつけ下さいな……」


 霧雨亭のその言葉で今夜の興業は終わりとなった。

 客の皆は何がよかっただとか、あれの噺がよかっただとかと感想をいい合っているが、その中に不死衛門の言葉はなく、彼はひたすら無言のままに寄席を後にした。


 夜の四つにもなると辺りは静かで、次第に人のいなくなる帝都の街並みを観察しつつ、彼は小川の傍をそぞろ歩き、月のある空を見上げて先の悲恋の噺を思った。


「死んだら終わりだろうになぁ……」


 時代の流行りで済ますには少しばかり無理くりが過ぎるのではないかと彼は思った。


 感想を抱くのは噺を聞く方だが、では当人達――噺の中に登場した乙女達の心境というのは何故に勘定に含まれないのかと、そこばかりが不死衛門の疑問だった。


 果たして物語の登場人物に心はないのかとか、当人達が本当に望んだ結末だったのかと思い、不死衛門は憂うような顔になると嘆息たんそくして、月の浮く夜空に呟いた。


「やはり人という生き物は自分等の都合でしか物事を見ないし、感じないんだなぁ……」


 それが創造主の特権とも呼べるし、聴衆の特権でもあるといえた。

 結局、彼の感想に対し返事をするものはなく、虚しくも風の音が鳴いて、緩く吹くそれが彼の頬を撫でるだけだった。


「お気に召さなかったようで、不死衛門殿」

「おや……」


 暫くぼうと突っ立っていると彼の背後から声がかかる。

 聞き覚えのある声に振り返ると、そこには先まで寄席で〈都市伝説〉を饒舌に語っていた男が立っていた。


 曰くは霧雨亭と名乗る男は不死衛門に語りかける。

 それに不死衛門は自然な風に応えると、互いは対峙するかのように見合った。


「先程ぶりですな、不死衛門殿……如何なされましたかね。もう夜も遅いというのに、ここらで何か用事でもおありかな」

「いやね、今夜はやけに月がよく見えるものだから、見惚れて立ち竦んでいたというだけだよ」

「ほお、それにしても偶然にここで月見をしていたと」

「ええ、偶然にね」

「然様で。しかしここはね、実は私のよく使う帰り道だったりもする。奇遇でしょうかな」

「さてねぇ……奇遇であれ何であれ、互い、出会ってしまったのであれば邂逅かいこうに等しいだろう」

「意図したものであれば?」

「邂逅とは呼べまいね……」


 不死衛門にとって霧雨亭の登場というのは予測していたことだし、先からの目的というのは彼の登場を待つことだった。

 つまり、待ち伏せのように不死衛門は先に得ていた情報から霧雨亭が通るだろう道で待ち構えていた。


 しかし霧雨亭の表情に驚きはない。

 これもまた自然のことのように無表情で、彼は相対する不死衛門と真正面から見つめあっている。


 互いの距離の開きは大きくあったが、それを霧雨亭が歩いて埋めていく。

 まるで不用心、どころか警戒の一つもないように見受ける。


「何故でしょうかな。先の最中にあなたを幾度も見ましたが、どうにも共感というものを得られなかったように思えました」

「ああ、まあ……そうだねぇ。或いは僕の感覚というのはズレているのかもしれない」

「ふむ。感性というやつでしょうかね」

「それも含めて、凡そ普通の感覚というのがね、どうにも……難しく思える」

「然様で。それは残念でありますな」

「だから没頭出来ないというか、許容し難い気持ちになってしまったようだ」

「それが顔にも出ていた、と」

「顔か……どのような顔だったかな、僕は」

「無でありましたよ。宛らに白面とでも呼べるかのような、そのような無でありました」


 白面と口にされて不死衛門の表情に僅かな強張りが生まれる。


「……白面か。成程、確かにそうかもしれない」

「あなたの芸を見たことはありませんが、どうにも快闊かいかつに腹を切るという。その噂と比べるとまるで人を違えたかのように思える。しかし……だからこその役者のそれとも呼べますな」

「ではどちらが本来の僕だろう。あなたには分かるだろうかな、霧雨さん」

「人の本性というのは芸の中にこそ生まれるし、真に迫る程の気迫は、それこそ腹を召す人の緊張を如実に表す訳ですからね、当然にそちらではないでしょうかね」

「で、あるならば僕は立派に人間だなぁ」

「まあ、そうですな。実に立派だと思いますよ」


 ひたりと霧雨亭が足を止める。

 互いの距離はいよいよ肉薄する程で、すれ違う寸前だった。

 その折に霧雨亭は小さく笑むと、不死衛門の耳にはっきりとした口調でこういった。


「上手く化けてらっしゃる、まるで人間のようにね」

「……ははは。貴様……」


 不死衛門が腕を伸ばして霧雨亭の襟首を引っ掴んだ。

 互いは急接近する形になるが霧雨亭に焦る様子はなく、どころか余裕のそれだった。


 その様子に少々の違和感を抱く不死衛門だが、霧雨亭は両手を上げると参ったとばかりになだめようとする。


厭味いやみに取られたのなら申し訳ありませんね。しかし私は感動しているのですよ。よもやこうも見事に人の世に馴染む〈怪異〉というのも存在するのだとね」

「……今の状況に疑問はないのかい?」

「はて、例えば私が〈都市伝説〉と呼ぶ新作落語が逆鱗に触れる内容だったとかでしょうかね」

「余裕も余裕じゃないか、大した胆の太さだ。いや、さもなきゃ混沌を生み出す訳もないか」

「ははは、混沌……いいますな。そうも歪に思えますか、私の産み出した〈都市伝説〉は」


 一切の抵抗もせずに朗々と語る霧雨亭。それはある種は奇妙だった。

 不死衛門が人ならざる存在だというのに気が付いている風なのに、更には肉薄する程の距離にあるのに、そこに恐れる様子はない。


 更にはどうにか暴力は勘弁してくれと降参のような真似をするのだから、本当にこうも情けのない男が諸悪の根源なのだろうかと訝りに不死衛門は首を傾げた。


「例えばだ、不死衛門殿。こういう勘違いをしているのではないですかな。この私が己の産む〈呪い〉や〈怪異〉を以って世に惨憺さんたんなる景色を描こうとしている、だとか」

「……それは違う、と?」

「ええ、まったくの否ですよ、それも酷い勘違いだ。何せ私に出来ることなんて数が知れる。それこそこの頭に浮かぶ噺を人々に語る程度……落語家のそれでしかない」


 それに、と霧雨亭は続ける。


「仮にそうも大それた目的があるだとか、或いは絶大なる能力があるとすればだ。そんな危険思想を抱く奴なんてのは見境なく産み出して何も顧みずに好き放題に暴れ回るのが常でしょう」

「それこそ異常者が如くにかい?」

「暴君が如くが近いでしょうな。私に独裁者だとか支配者になるような目的はないし、そもそもそんな器量なんてものもない。ただ何となく思いついた物語が、どうしてか形を持ってしまうというだけのことなのです」

「ふぅん……」


 霧雨亭の言葉に嘘偽りはないと思えるし、彼の言い分は確かにそうだろう。

 鶴の嬢はあれ程に危険性が云々と語っていたが、そもそもの前提として地獄のような殺戮や混沌を描かんとするならばもっと大々的に、それこそ歴史に残る程の阿鼻叫喚を産み出すはずだった。


 しかし現状、不死衛門の知る内で大きな殺戮はない。

 少なくはない命が散っているのは事実だとしても、絶大な力を持つ人物とはそうも消極的だろうかと疑問を抱いた。


 往々が力を誇示せんと派手なことを望む傾向にある。

 けれども不死衛門と対峙する霧雨亭といえば無様にも無力であるかのような振る舞いだし、即座に降参した事実からして、やはり凶悪性というのが窺えなかった。


 幾らかの思慮を重ねた結果、不死衛門は彼の襟首を放す。それによって鈍い咳を繰り返す霧雨亭を横目で見ながら、では如何しようかと悩んだ。


「よもや私を殺すつもりでここに?」

「そうだね、そのつもりだったんだけども……少しばかり悩みが生まれちゃって」

「はあ、そうであるならその迷いとやらは実に有難いことですがね……しかし、しかしですよ、不死衛門殿。例えば私の持つ力というのが不可抗力だとしたら如何しますかね」

「ほう? 意図的なものではないって?」

「副次的なものだといえるでしょう。何せ噺というのは人に聞かせることが目的ですからね」


 当然のようにいう霧雨亭。

 しかしそれは無論のことその通りだろうと不死衛門も思う。


「後ろめたい気持ちがない訳じゃあない。何せ望まないままに私の作る噺が、何故か現象として皆の知るところとなってしまった。その因果性というのは誰にも分からないことだし、誰もが私を悪のように思いはしませんがね。だからといってその日の新聞にですよ、またもや例の〈都市伝説〉が如くに死者が出たと打たれているとね、やはり嫌な気持ちになる」


 心の底から思っているように彼の顔に深い悲しみの表情が浮かんだ。


「生きる為には術が、金がいる。つまりそのどちらもが成り立たねば生活は出来ません。私にはこれしかない。物語を考える頭と喋る口しかね。だから心の中では苦しく思えども噺家の道を辞めるだなんて考えは湧いてこない。全ては生きる為、必死になるのは当然じゃないですか」


 尤もな意見だった。

 仮に、自分が原因で他者の命が消えたとして、更に後悔の念だとか後ろめたさが生まれたとしても、生きる術がそれしかないとすればそれに縋る他にないだろう。


 不死衛門は当然な言い分に頷く。何せ罪の意識があろうとも、それを糧にせねば生きられないというのであれば割り切らなければならない。或いは贖罪の為にも続けるのが責任と呼べるものだろうと結論した。


「……そうかい。苦悩を抱きつつも抗っている訳だね、君は」

「許されぬ所業でしょうがね。ですが……私だって死にたくはない。生きたいのです」

「そうだろうね、普通はそう思うだろう。時代に見合った生き方だし僕にもよく分かるよ。しかし何といったかな、確かそういった生き様を、ごう、ごうり……」

「合理的、ですかな」

「ああ、そう、合理的というやつだ。いやさ、僕の友人がね……〈人という生き物に限っては合理性が勝るだなんてことは有り得ない〉だなんていっていてね。それを思い出したんだ」


 そうも人の世は不完全ではあるまいと不死衛門は思い、彼の言葉に霧雨亭も頷いた。


 そんな最中のことだった。

 ふと、彼は霧雨亭から差し出された紙の束に視線をやった。

 それは恐らく彼が書き起こした噺を綴ったもので、献上するような仕草に不死衛門は首を傾げる。


「故にですね、またこうして新作を書き上げましてね……私の処遇というのがどうなるかは分かりませんが、もしもここで断罪すべく殺めようというのなら、せめて遺作の変わりにこれを読んで頂けたらば……」

「へえ、こりゃまた……想像力が豊かといおうか、正しくは己の有様を示すかのような……熱心な創作意欲にこそ賞賛を贈りたくなる程だが、しかし何故に僕に?」

「ええ、実に単純な理由です。何せ私の作る噺は、どうにもこうにも〈呪い〉や〈怪異〉といった存在を産み出してしまう。だったらば、あなたのような存在であるならばそういった恐れも気にせずに楽しんでいただける筈だ」

「成程ねぇ……しかし稀代の噺家の新作かぁ。それはまた贅沢なもんだ……」


 霧雨亭の言葉に小さく笑う不死衛門。

 彼は寄越された紙の束を開き内容に目を走らせた。


 対峙の最中ではあるにしても折角の機会であるのもまた事実。

 更にいえば不死衛門は読み物を趣味としていたし、名の知れた噺家の書く文章というものに彼は強く興味を抱いた。


 果たして喋りの上手さというのは文にも通じるのだろうかと不死衛門は思うが――


「あれ、これ……」


 不死衛門の目が文字を追う。

〈その内容を間違いなく理解していく〉。


「これは、私が尋常じんじょうの頃の話です。学舎からの帰り道、真っ黒な髪を腰まで

 のばした女の子が、電話の前に立っていました。その子が振り向いて

 話かけてきた時に、その目が白く濁っていたことから、私は彼女が盲目であること

 を知ったのです。その子は透き通った声で言いました「美加ちゃん、お葬式の

 最中に悪いんだけど、私の代わりに電話をかけてくれる?」わたしは、何か

 誤解されてるなと思いながらも、そこは突っ込まずに、それよりも彼女が何故

 まようことなく私の名前を言い当てたのか、知りたいと思いました。「どこか

 で、会ったかしら?」すると彼女はクスクスと可笑しそうに笑い、本を

 読むように饒舌に語り始めたのです。「クラスが違うから、知らなくても

 無理はないけど、アナタの同級生よ。貴方は一組で私は六組。廊下の端

 と端ですものね。でも私は、ずっと前からアナタを知っていた……。

 目の悪い人間ほど、声には敏感なものよ。アナタはとても綺麗な声で、クラス

 の人望も厚くて、よく皆の話題になっていた……だってアナタは優等生の

 見本のような人ですものね。きっと私の頼みを聞いてくれると思ったの。

 エゴイスティックな他の人たちとは大違い……」

 なにかが狂ってるような気がしました。それでも私は、その少女の

 いう通りに、ダイヤルを回し、

 少女のいう通りに、受話器を渡したのです。

 女の子は、電話の向こうの誰かと声を潜めて話しては、時々こちらを見て、

 にっこりと笑いました。その電話が終り、少女が去った直後でした。私が、

 途方も無くおそろしいものに取り憑かれていた事に気付いたのは。

 理由を詳しく説明する事はできません。私の

 つまらない文章の意味を理解した者だけが、とりつ

 かれる。そ

 れが、この少女の呪いの

 ルールなのですから」


――不死衛門の双眸そうぼうから鮮血が溢れた。

 字を〈正しく〉読み、内容を〈正しく〉理解すると同時、彼はようやっと霧雨亭の思惑に気がついた。


「あーあ、〈呪詛じゅそ〉かい……やられたな……しかも大した〈呪い〉だ、これは後で怒られるなぁ」


 不死衛門の背に〈何か〉があった。

 それは黒い塊だったが、意思を持つように動き、彼に強くしがみ付き離れようともしない。


 しかし更に注目すべきは、彼の足元にこそあった。


「理解したが最後……〈お憑かれ様〉であります、不死衛門殿」

「ああ、実に腐れ外道めが……後で覚えておけよ、霧雨亭」


 そこには黒い池のようなものが広がっていて、宛らに奈落へ通じる深淵に等しかった。


 その黒い池の中からは、不死衛門の背にしがみつくのと同じような黒い塊が這い出てきて、それは大群のように溢れ、不死衛門の全身へと絡みついていく。


 それは人の子供の姿をしていた。

 一様に瞳はなく、暗黒に染まる眼窩がんかからは鮮血を垂れ流し、気味の悪い笑いを零しながら不死衛門を黒い池の中へと引きずり込んでいく。


「気づいたわね」「愚かですわ」「しかし嬉しいのよ」「そうね」「学のある方かしら」「文が読めるのね」「読み書きが得意ですのね」「素晴らしいわね」「そうね」「けれども死ぬのよ」「地獄で遊びましょう」「あちらで戯れましょう」「何せお読みになられたのですから」「ええ、理解したのだから」「そうであるならば離さないわ」


 子供の姿をした群れのそれぞれは笑いを響かせながらに言葉を紡ぐ。

 それらは同時にも聞こえたし、一つ一つが独立したようにも聞こえた。


 いよいよ不死衛門は口の中まで黒い塊に侵入されると、まるでこと切れたように動きが失せ、無抵抗のままに闇の池の中へと沈んでいく。


「誠、知見を得るとは恐ろしいことでありますな。彼の不死衛門ですらもそれを前にしては無力のままに散るというから、世の中というのは実に不誠実だ」


 間も無く、先の闇の歪みすらも消え去り、小川の傍に立つのは霧雨亭だけとなった。


 全ては突然のままに始まり突然のままに終わったが、しかし呆気のない幕引きだと霧雨亭は詰まらなそうな表情になる。

 そんなままで彼は再度歩き始めようとするが――


「あらまあ不死衛門ったら無様だわね。こうも簡単に〈呪い〉に呑まれるだなんて」


 ふいに彼の背後で声が響いた。

 予想もしていなかったことに霧雨亭は慌てて振り返る。


「あの阿呆のことだから簡単に騙されやしないかと様子を窺っていたけど、物の見事に騙されて……いやはや情けないのだわ。少しは灸を据える意味でも〈呪い〉に殺されまくるとよいのだわよ。何せこのあたしに金を出させたのだから相応の罰もくだるというものよね」


 そこには見目麗しい乙女があった。

 歳の頃は不明だが、しかしあどけなさを含む可憐な顔立ちに華奢な身体だとか、だのにもかかわらず儚さや憂いを帯びた視線といえば妖艶ようえんのそのものだった。


 洋装で着飾り、今宵に至っては全身に闇と同化するかの如き漆黒のブラウスを纏い、何故にかは不明だが帽子はせず、だとしても珍しい金髪といえば夜風に靡いて尚更になまめかしく映る。


 あまりにも美しく、あまりにも妖しい様子には流石の霧雨亭も咽喉のどを鳴らす程だった。


 そんな彼の反応はまた他所に、夜に現れた乙女は彼へと歩み寄ると悩まし気な表情をつくり、小鳥がさえずるような声で言葉を紡ぐ。


「お初にお目にかかりますわね、霧雨殿。寄席も終わった頃でしょうが、どうでしょう、宜しければあたしにも世を震撼させる〈都市伝説〉とやらを聞かせては頂けないかしら」


 無論、と彼女は言葉を続ける。


「夜のしとねの中で、ね」


 或いは魔性とは彼女を指すのだろうと霧雨亭は思った。

 さもなければ傾国の佳人かじんと呼ぶべきかとも思えた。

 どう見ても人の様子ではないのは分かっていても彼女に注目せざるを得ず、彼は咽喉を上下させて、負けじと笑みを浮かべ、差し出された手を掴む。


 乙女は毎度のように、蠱惑こわく的に、人をあざけるが如くに笑った。

 何故ならばそれこそが彼女、鶴の嬢の性格であり、〈狐〉としての在り方だったからだ。

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