其の四
「霧雨亭を知っているかしら、不死衛門。巷では名の知れる噺家なんだけどもね」
「いや、知らないな」
「その出不精のきらいをどうにかしなさいな。故に情報に疎いのだわよ」
「そいつはどうも。それで、その有名人が世に魔を撒き散らす諸悪の根源だってのかい?」
先の喫茶店での会話だった。
聞いた覚えのない人物に不死衛門は分からないと答えたが、鶴の嬢は呆れて顔を顰める。
「まあ恐らくはそのようだわね」
「確たる証拠はなし、と」
「とはいえその名は轟くに足る売れっぷりよ。それも得意とする怪談噺の出来は新作落語の中でも随一だとか」
「またえらく大袈裟な……」
「各亭の親方も霧雨亭の寄席に集う程なのよ。それってよっぽどよね」
「ほぉん、口調がよいのかい?」
「あとは顔もね。いい歳の二枚目ね。壮年の憂いを帯びた風格が乙女等の心を掴むのだわよ」
「あー、然様で……」
果たして
「その噺の中でも昨今挙がる名作といえば……〈四階で御座います〉に〈千鳥ヶ淵〉だわね」
「……おやおや。よもやの話題のそのものが題とは、なんとも安直過ぎないかい?」
「安直故に因果性が不明にもなり得るのよ、不死衛門」
「んん? そりゃまた何でだい?」
「だってその噺は巷を騒がす〈呪い〉や〈怪異〉をもとに作られた噺かもしれないじゃない」
「成程……〈怪談〉が先なのか〈呪い〉や〈怪異〉といった現象が先なのかが分からない、と」
「ええ、故にどうにもね、きな臭いとはいえ確信を得られずにいたのだけども……」
通常であれば、そういった風説から狂言や歌舞伎に噺というのは生まれてきた。
伝統芸能には間違いなくそれに通じる歴史と呼ばれるものがある。
それだから普通の人々からすれば霧雨亭というのは
しかしそれが当たり前のことだし、よもや一人の人間の手によって〈呪い〉や〈怪異〉が産み落とされるとは誰の考えにもないことだった。
「それでも確たるものを得たのだわ、不死衛門。先の心中騒ぎだけどもね、先月だかもう少し前のくらいに、講談として噂の霧雨亭がやってきたというのだわ」
新たな情報に不死衛門の顔に僅かな鋭さが帯びる。
それを見た鶴の嬢の瞳は赤く輝き、毎度の如く〈狭間の領域〉が二人を中心に展開された。
ぼやけた世界で対峙する二人は先までの様子から打って変わって真剣な雰囲気になる。
「まあ別に珍しいことでもない、所謂は
「それ故に要らぬ災害を招く結果になったんだろう?」
「ええ。特に皆の印象に強く残った噺というのが……〈千鳥ヶ淵〉ね」
「あーあー、なんともまぁ……」
最早殺意が透けて見える程だろうと不死衛門は項垂れる。
「普通に考えれば単なる心中の噺よ。
「しかし、だとしてだ。確かに某女学校の近所に千鳥ヶ淵は存在するけど、そもそも噺の幕引きに謎がある。何故に御堀を終焉の地としたのかが疑問だ」
「そうね。心中するだけなら、それこそどこでもよいだろうし、わざわざ
「んじゃあ何で乙女達の間で千鳥ヶ淵が戒律が如き絶対の死の場所に? 納得する要素は?」
「その答えは至極に単純だったのよ、不死衛門」
身を乗り出した鶴の嬢は不死衛門の目を真っ直ぐに見据える。
「それこそは東京大神宮に通ずる道に千鳥ヶ淵が存在するからだわよ」
「東京大神宮って、あの
「
「はあ……」
何を真剣にいうのだろうと半ば呆れる不死衛門。
しかしその呆れる内容が〈千鳥ヶ淵〉を形成する最大の根幹だと鶴の嬢はいう。
「古くからの日本における結婚というのはね、通常は家庭内のみで行われてきたのだわ。親族や友人を招いて近しい人々の間だけで宣言を行ってきた訳なのよ」
「え、そうなのかい?」
「今もその風習は各地で見受けられるけどね。しかし近代の日本では神前結婚式が当然のようになってきているのだわ」
「ああ、それは僕も流石に知っているよ。しかし驚いたな。以前の時代ではそうも厳かにやっていたのかい?」
「或いは村をあげての祭りとしたりね。それこそ神聖な儀式な訳だけども、結婚の儀式というのは今や神前で行うようになる流れとなっていて、その発祥こそは東京大神宮なのよ」
そう聞いて不死衛門は合点する。
そうなると乙女達が千鳥ヶ淵に拘る理由が見えてきた。
「つまり、
「故の説得力なのよ、〈千鳥ヶ淵〉と呼ばれる現代の〈置いてけ堀〉はね。自由恋愛とは名ばかりの、女性に対する不自由な様を悲哀のままに語るその噺の中で、乙女達は神性なる儀式として心中をするのだわ」
「そいつは……まずいねぇ」
「だからこそ乙女達が多く死んだのよ。忌々しい程によく練られている噺なのだわ」
何とも形容し難い気持ちの悪さに不死衛門も鶴の嬢も渋い顔をする。
内容を深く聞かずとも窺えるのは〈死〉を美徳のように描き、〈死〉を終わりとするのではなく、死することで後の世で結ばれるのだと神前で誓うが如しと受け取れる。
そうも美談のように語られては多感な時期の少女達は当然のように憧れを抱き、それを実行したって可笑しくはない。
「これもまた時勢読みが見事なのだわ。何せこの大正の世において心中は美徳であり、その流れを汲んだ〈千鳥ヶ淵〉の効果は絶大と呼べるわね」
「しかし怪談噺だろうに、何故に受け入れられたんだろうか」
「元より怪談噺には人情噺のような内容も少なくないのよ。哀れみの様を描く怪談噺は無数にあるし、下げもなく怨念を抱き亡くなるような噺だってある。そもそも愛憎こそは死に結びつきやすい人情劇のそのものではないの」
「まあ、それはそうだけども……」
「これも変革の時代故かしらね。人々は自由意思と呼ばれる思想や哲学を何よりも重要視するようだわ」
「自死もそれに含まれる、と」
「故に美徳となり得るのだわ」
「仏教だか儒教だかじゃ自死は罪ではなかったかな?」
「時代と共に解釈の仕方なんて大きく変わるわよ。そうせねば生き辛くなるのだからね」
「死ぬ為に都合よく解釈を
「あら、いうじゃない。けれどもどこの宗教も似た程度でしょうよ」
「まあね。ヨーロッパの惨劇なんて日本人からすれば目も当てられない程の血みどろの歴史があるよ。十字軍にせよ魔女狩りにせよ、さ」
「へぇ、詳しいじゃないの。流石は読書家といおうかしらね」
「ははは……知識として知っている程度さ」
「ああ……〈あなた自身が
「恩恵かねぇ……僕は単なる〈思念の集合体〉さ。経験してきた訳でもない」
皮肉のようにいって笑う不死衛門。
その様子に何をいうでもなく鶴の嬢は内容の入った飲み物を啜る。
「しかしよくそんな情報を仕入れたね。またどうやって?」
「先の御堀の件から幾度か例の女学校に忍び込んでいたのだわ」
「また熱心だなぁ。流石は〈
「喧しいわよ、まったく……そんなこんな、根気よく嗅ぎまわったお陰で情報を得たのだわ。噂の如くに女学生たちがいっていたけれども、流石に出来過ぎだろうと笑っていたわ」
「どうにも危機感のない……いや仕方がないか。まさか噺家の程度が〈呪い〉や〈怪異〉を産み出して、それに
「ええ、故に誰も気にも留めず、そして自然のように先の〈千鳥ヶ淵〉が心のどこかに根付いてしまうのだわ。ふとしたように〈ああ、死ぬならばあそこがよいだろう。そうだ、先の悲恋に散った乙女達のような、清廉潔白とは正しくあの噺の通りである〉と思いだし、恋人と死の約束をしてしまう」
「……こうして聞いている分にはその凶悪性というのは薄れてしまうけども。事実として複数名の女生徒がそこで亡くなっているし、それとはまた別に千鳥ヶ淵では自死した人々がいるとなると……やはりその噺を寄席だとかで聞いたからだろうか」
「そうでしょうね。その手腕足るや恐ろしい程だわよ。噂の内容や人気の噺なんかに影響を受けて、それに倣うかのように命を絶つだなんて誰も考え付かないわ。そんな阿呆なことがまかり通る訳がないとね」
「だが起こってしまっている、と」
「ええ。けれどもね、不死衛門……〈千鳥ヶ淵〉とは謂わば積み上げられた〈死〉によって確立された〈呪いによる怪異〉だけどもね。恐ろしきはもう一つの方だわよ」
「もう一つ?」
或いは勘違いであればいいと鶴の嬢は零し、口火を切った。
「……〈四階で御座います〉だけどね。これはどうにも〈千鳥ヶ淵〉のそれとは違うように思えるのだわ。そう、それこそはまるで、実験的な試みを思わせるような……」
仮にそれぞれの噺に目的とするものがあるとして、例えば〈千鳥ヶ淵〉は噂のように拡散することで多くの人々を〈死〉へと誘い、それが積み重ねられた結果として必殺必死の〈呪いによる怪異〉へと昇華したともいえる。
対する〈四階で御座います〉は拡散されずとも、そもそも事象的に発生する仕組みのような〈呪いによる怪異〉だった。
それは単体で機能するのと同義で、つまり噂のような流行に頼る必要がない、自律する〈呪い〉であり〈怪異〉だ。
しかし必要とせずとも、これの凶悪性は話題の拡散と共に、本来ならば発生する筈のない別の場所でも同様の現象が起こりえる可能性があり、情報として広まれば広まる程に人々の意識に根差す〈呪いによる怪異〉へと変貌するかもしれない。
「成程ね、それこそよく練られた内容って訳か……」
「あら……よもや即座に動く、と?」
「まあね。君が珍しく不安な表情をするのも珍しいし……そもそもに気になることがある」
「気になること? それというのは?」
実際の目的は不明だし、過剰な心配かもしれない。
だが鶴の嬢の顔には珍しく焦燥のようなものが浮かび、それを見た不死衛門は静かに立ち上がると、この夜に噂の寄席へと向かうことを決めた。
「〈都市伝説〉という言葉が既に〈異常〉なんだよ、鶴の嬢。君も分かっているだろう?」
「……ああ。そうね、確かにそれはそうだったわね。つくづくあなたと共にあると、如何せん〈異常や奇妙な状況というのが分からなくなってしまう〉のよね。感覚が狂ってしまうわ」
薄く笑みを浮かべた不死衛門は呟くように言葉を零す。
「〈この時代〉に〈都市伝説〉とは面白い情報さ。それを口にする存在というのは人か、或いはそうではない何かしらか。霧雨亭とやらが何者なのか……確かめてみようか」
間も無く、彼は薄ぼやけた世界で景色に溶けるように姿を消した。
その光景に何をいうでもなく、むしろ当然のことのように見送った鶴の嬢は音を取り戻した通常の景色に戻ると、勘定が済んでいない事実に気がついて
「確かめるも何も、同じような存在でしょうよ、あの阿呆……それこそ〈時代にそぐわない〉わよ。女に金を出させる阿呆が何処にいるってのよ。まったく以て論外だわ」
これだから常識外の存在は困る、と鶴の嬢は愚痴を零す。
いよいよ不死衛門の姿がなくなると店内にいた幾らかの男性は彼女へと迫ろうとしたが、それらをいなしつつ、怒り心頭のままに店を出た彼女は、夜の帝都を歩き、ある方角を目指した。
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