其の三


「いつの頃やら帝都なんて呼ばれるようになった江戸も、はて華やかになりましたもので……」


 暗がりの寄席よせに人々は集った。

 高座こうざには龕灯がんどうによって仄かに照らされる噺家の姿がある。

 いい歳の風貌で灰色の単衣がよく似合う、渋く女受けのよさそうな顔の整いだった。


 それを証明するように夜分の寄席には女性の姿が普通よりかは多く見受けられた。

 流行りの噺家だった。特に怪談噺かいだんばなしを得意とする人物で、亭号ていごう霧雨きりさめと名乗った。


「けれども華やかさの匂う帝都にもあな恐ろしき噂がある。御存じないかもしれませんがね……例えば今時といえば買い物には百貨店にデパートにと、ちょいと遊びのつもりで出かけると魅惑的な場所が多くあるでしょう」


 この霧雨と呼ばれる雅号がごうは江戸期にも、そして明治期にも存在しないものだった。たった一人の人物が名乗ったもので元の出所は不明だった。


 当初、霧雨亭の寄席に人の数は少なく、ただいい男が気取ったように詰まらん噺でも聞かせる程度だろうと大衆はあざけった。


 ところが日が経つにつれて客の数は増えていく。

 先日には隙間だらけの寄席だったのに、明くる日には風の通しの悪いこと。

 いよいよ背伸びでもしなければ顔も見えないというから、一体どのような口調だと同業間では怪訝けげんに思われた。


 しかしこの噺家といえば他の噺家をも魅了し、いつぞやの寄席では前席を名の知れた各亭の長が埋めたというから、最早霧雨亭において過剰な宣伝というものは不要になった。


「私も近頃は羽振りがよくてね、ええ、はい、お陰様で御座います。皆様にはこうもよくしていただいてね、下げオチはまだなんですが、いやいや、ははは……つまりは余裕があるという訳でしてね、そうなると見分の一つも広めようという風になるのですわ。何せ芸を磨くにゃ知見ちけんが要りますからね」


 得意とする怪談噺だが、彼が古典を口にしたことは一度もない。

 当然ながら古典は噺家にとっての教科書だし、各々の解釈による噺の変化がまた客にとっての楽しみだったし、それこそが腕前の披露と呼べる。


 しかし彼は己の本分は新作落語にこそあるといった。


 新作落語は大正時代から流行したが、そのうちでもやはり、得意としていた怪談噺は絶品で、そもそもの緊張感というか、空気づくりがうまかった。


 江戸落語のそれらしく出囃子でばやし等はないが、しかし他に人物もいないし道具も仕掛けもない。

 ただただ仄かに光る龕灯と霧雨亭が只一人という状況で、小噺まくらはお道化た調子だが、しかし筋に入るとすっと声色が落ちる。


「さて知見を得んとデパートにでてみると絢爛けんらんな様子には圧倒されましてね、意図も不明な用品に洒落た洋装なんかも普通に売られていて、こりゃ華々しさに酔っちまうってなもんですわ。そんなもんですから、どうにかデパートを退散しようとするんです。けどね、何分知見を得る為といった手前ですから、つまりデパートの中身なんて知らん訳ですから、少し歩いた程度で迷子になっちまう。はてさて逃げ場は何処なりやと彷徨さまよえば、そこには列をなす人だかりがあったのです。これはきっと出口に違いないと列に混ざってみれば、そうしたらなんとまぁ見たことも触れたこともない昇降機とやらに乗る羽目になっちまったんですから、無知とは罪ってのはこのことですなぁ」


 少なからずの笑いから張りつめたような空気に変わる時――その瞬間の肌寒さと気味の悪さに人々は酔いしれる。

 ある種は麻薬じみていて、夢中になって客は彼の噺を聞いた。


「しかしまぁ仕方がない、これも経験ですから観念して乗り込んでみる。するとこれの快適の様といったらなんとまあ素晴らしい。近代文明の利器とは正しくで、こっちが動かなくても昇降機が自動で上り下りをしてくれる。これはよいと思って、ああ何たる人の進化の様よと思って感動していたのです。けれどね、そんな風にしていると妙なものに気が付いたのですよ」


 龕灯に照らされる霧雨亭の顔に濃い陰が落ちる。

 他の光源はなかったし、人々は黙って聞いているだけなのに、寄席全域も含め、何たる空気の重さだと客の各々は思っていた。


「最初は気のせいだと思った。そこは四階建てのデパートだったんですがね、一階から私は乗り込んで、何となし四階まで向かうことにしたのですな。ところが最初、私は一人の特徴的な人物をよく見ていた。何だか妙な気がしたのですな。何というかな、まず、背を猫のように深く丸めていて、着るのは和装だが妙に薄汚れている。髪は伸びっぱなしでして、こいつはどうにも田舎の奴か、もしくはどうしようもなく生活力のない奴だろうと思っていたんですよ。けれども不思議なことにその昇降機に乗り込むと、そいつがいつの間にか姿を消している。あれま、どうしたことかと思うでしょう? だって見失う訳がないんだからね。籠の中なんてのはまったくもって狭いし、そもそも目立つ奴だから、そりゃやっぱり見失う訳がないんですよ」


 声色が先よりも更に深く、低い具合になる。

 知らず内に固唾を飲んだ客の一人は、隣にある奥方だろう人物の手を握り締めた。


「でもね、あれ何処だって探している合間には次の階に到着しちまうんです。二階ですな。ああ、これはまた人が乗り降りして厄介だぞ、と思っていると……その二階から、またもやその人物が乗り込んできたんですよ」


 ねえ、と霧雨亭が問うようにいう。

 客の多くは顔を強張らせると黙して頷いた。


「何だか嫌な予感がしていたんですよ。先にもいったように、こいつは変な奴だと思っていた。しかし一瞬で姿を消して、上階にやってきて再度乗り込むだなんて芸当を果たして人間に出来るのかなと疑問を抱くのです。けどそんなことは不可能でね、そりゃ全力疾走して階段を駆け上がって、人の波を押しのけて無理矢理に二階から乗り込むのは可能かもしれませんが、そんな無駄な真似をしてどうするってんです。それをお笑いの如くにやるってんなら、じゃあ笑う奴がいなけりゃそもそも成立しない訳だ。故にそういった可能性もあるんじゃあないかと思って、私は籠の中の全域に目を配るでしょう? でも誰も笑っていないし、ああ、ではやはりこいつはお笑いの為にやっている訳じゃないんだと察する訳ですわ。けども……そうでなくてもどこか、そのエレベーターの中で、私は奇妙な感覚に陥るのですよ」


 何となく先が読めるのに、それでも客の皆は彼の話に聞き入っていた。


「深い猫背に不衛生な身形で、一階で乗り合わせた筈なのに姿を消して、かと思えば今度は二階からまた乗り込んでくるだなんて真似をしたら誰だって不思議に思うし注目するでしょう。けれどもね……誰もそいつを見やしない。それどころか、まるで皆には……そいつが見えていないように、そもそも存在していないかのように、その何者かを認識する人というのはいなかった」


 一人の若い乙女の客が息を呑み、出かけた悲鳴らしきものを慌てて手で塞ぎとめた。

 漏れ出たのは緩やかな吐息だったが、客の多くは彼女の胸中を察していた。


「こいつはきっと人ならざる者だと理解した私は、どういう目的でエレベーターに乗るのかと疑問を抱いてそいつを見た。何せ気味が悪いのもあるけども目的が不明だし、皆が見ないからこそ注視しておかねば危ないことが起きた時にどうにもこうにも対処がいかないでしょう。ですから私はそいつを見るのだけども、先は一瞬で姿を消したのに、エレベーターに乗り込むと、何故かは不明だけども――私と目が合ったのです。更には口を大きく歪ませて笑いやがった」


 今度こそ悲鳴が複数あがった。男の客ですら驚いて飛びあがった。

 けれども噺は未だ終わる様子がないからと、皆は堪えるようにして霧雨亭に注目する。


「何故に笑うのかと不思議の以前に気味が悪く、また、気持ちが悪かった。急いで視線を逸らすけれども、自然と直感的にそいつが先のように姿を消していないと悟った。視線ですよ、視線……それが突き刺さる程に私には強く感じられた。そうなるとそいつはまだ乗り合わせている訳だから、居心地が悪いし、何にせよ関わり合いになんてなりたくないから必死になって目を閉じるのです。そうして間も無くすると添乗員てんじょういんさんがね、こういうわけですよ――」


 舌で一度、彼は唇をねぶる。そうしてから絶妙な声色で、さらりとこういった。


「〈四階で御座います〉とね」


 皆はその台詞に疑問符を浮かべた。

 何故ならば噺の内容では、未だに上昇の最中であって、最上階に到達する位置には存在しないはずだからだ。


「あれ可笑しいな、と思うでしょう? だってそいつが再度乗り込んできたのは二階であって、私と目があったのもその瞬間で、その間に三階を飛ばすだなんてことがある訳ないんですよ。だからつい、私は不思議に思って目を開く。添乗員さんの言葉が真実であるかを確かめる為にね」


 一瞬、言葉を止めた霧雨亭は、刹那の間を挟むとこういった。


「それが奴の手口だったのです。目を開いたらね、いたのです。目の前にそいつが」


 ある程度予想のついていた人達も、或いは予期していなかった人達も、項の粟立つ感覚と背を走る悪寒とに全身を震わせた。


 それはまだ下げ――オチではない。

 だが声色の沈みの具合も含めて霧雨亭の表情にこそ皆は恐怖を掻き立てられた。


 その瞳には暗黒のみが浮いていた。

 噺の以前のまくらではあんなにも明るい調子で笑顔まで浮かべていたのに、今の彼の顔に表情はなく、瞳に輝きもなく、ただただ無表情だった。

 抑揚すらも失せた声色も相まって、それはとても気味が悪い様子だった。


「それはね、添乗員さんの声真似をして、私の注意を引いたのですよ。ああ、こやつには己が見えている。そうであるならばどうにかしてでもこやつの気を引いて、何とかして目を開かせねばならんと。ではどうすればよいかと、きっと考えあぐねて巡らせた奇策というのが予想の外からの一声だったのです。それが私にとっての〈四階で御座います〉でした。私はあまりの恐怖と突然の接近に堪えかねましたよ。直感で分かるものです。こいつに触れられたら終わりだと。だから形振り構わず、乗り合わせる人々やらも押しのけ、長蛇の列となっている三階で待っていた人々をも掻き分けて、一心不乱のままにデパートから飛び出た。以来ね、私はそこに近付かなくなった。何故にと思いますか? それはね、そんな只ならぬことが起これば改めて確認したくなるものでしょう。真相というのをね。あれは何だったのかと、もしもあれに触れられていたらどうなっていたのかを……でもね、私はやはり逃げて正解だった」


 通常、怪談噺には下げと呼ばれるものはない場合が多い。

 これは人情噺にんじょうばなしでもそうだが、そうした曖昧な幕引きが妙に現実味を帯びるのは言わずもがなだった。


 だが彼の真骨頂は下げにあるとされている。

 稀代の噺家と評された霧雨亭は必ず人々の心に恐怖を植え付けるのが得意だった。


「件のそれをよく知る人物がいたのです。その人物というのは先のデパートの管理人でしてね、何でもあのデパートが出来た当初に管理人のお子さんが物珍しがって頻繁に乗り降りをしていたという。けれども……悲劇が起きた。ある日のこと、その子は保守点検の為にと安全装置の外れたエレベーターに乗り込んでしまったのです。子供が乗り込んだことによってたがの緩んだ昇降機は落下し、内部では子供の無残な姿が――……以来、その子供がデパートのエレベーターに乗り込む現象が度々起こるという。そして目の合う誰彼かを見つけると、その人物に迫っていくそうでね。何せまだ幼い時分だ、遊んで欲しいからこそに迫っていく。それでも逃れようとする人が多いからと、経験を果たし〈知見を得たが為に〉その子供はこういうのですよ」


 それこそが、と枕詞まくらことばのように彼は一度言葉を切った。


「〈都市伝説〉が一つ〈四階で御座います〉。はて恐ろしきは知見を得た〈怪異〉にこそあり」


 下げとして題を口にし、知見から発展した噺の内容に人々はまばらに拍手を贈る。

 その内でやっとのように正気を取り戻すと、更に拍手の音量は増し、ついぞは歓声まで沸いた。


「いやお見事、お見事! 噺の気味悪さったらないねぇ!」

「はあ、怖かった……ねえ、今のお噺といえば、例のあのデパートのことかしらね?」

「そういえ、ばあのデパートで幼い子供が幾度も昇降機に乗り込む様子を見たとか……」

「いや、そいつは小汚い乞食のようだとも聞いたぜ」

「私も他所よそで聞いたことあるよ。まさか〈都市伝説〉ってのは本当にあることなんじゃあ……?」

「ワシぁ〈他のデパートでも似たような噂を聞いた〉ぞ? それも同じ〈都市伝説〉かのう?」


 賑々にぎにぎしく感想を含めて客の大勢は語り合う。

 その最中に高座から退こうとする霧雨亭だったが、そんな折に声をかける人物があった。


「もし、霧雨さん。その見事な口調に恐ろしい内容は心底震える程だったよ。いやぁ参った参った、小水零れたかも……」

「おや、あなたは……」


 それは今や帝都で知らぬ者なしとまで謳われる〈奇妙通り〉の名物、不死衛門だった。


 長躯痩身ちょうしんそうくで知られる彼だったが、その存在感は希薄で、まるで闇の中から滲むように姿を現したかのように思えて、寄席に集う人々は驚愕したり仰天したりと一気に空気が騒がしくなる。

 対して霧雨亭は挙動を止め「予想外の人物が客にいたものだ」と意外のように驚く。


「これはこれは不死身の不死衛門殿ではないですか。よもや私の噺を聞いてくださるとは」

「いやぁ、噂に聞くよい男の寄席ってのに興味が沸いて……にしても噂以上で、こりゃいいもん聞けたなぁ。いい勉強になりましたよ」

「ははは、それはよう御座いました。本日は実によき寄席でありましたな、然らばいつの日か再度お聞きいただけたら――」

「いや、霧雨さん。どうにかもう一つ噺が聞いてみたくなったんだけども……ダメかな?」

「……ははは。いやはやこれは、えーとですなぁ……」


 まさかの内容に霧雨亭は困ったように頭をかいた。

 客の多くも噂の二人が言葉を交わす事態に大喜びだったが、よもやの願いに便乗せんと強く頷く。


 盛り上がる寄席の空気に折角だからと興業主は黒子を走らせた。

 間もなく傍にきた使者から「続けてよし」との言葉を受けて、仕方なしと頷いた霧雨亭は再度高座に腰を下ろす。


「特別ですよ、不死衛門殿。こうなったら次の寄席にも是非お越し頂きたいものですなぁ。後で怒られるのは私なんですから……」

「まぁまぁいいじゃあないですか。許可も降りたようだしね」

「まったく気のよい人ですなぁ。そうしたら……どうです、もしも聞きたい噺があるならそれでも喋りますが、それとも私の思い付きでよいというなら、不死衛門殿の〈肝も冷える〉ようなとびきりな奴を一つ……如何ですかな?」

「ははは、不死身の僕の肝を冷やすとは、実に噺家の語彙と機転には〈舌を巻いちゃう〉なぁ。いやいや面白い、ははは……」

「舌を巻くと即座に返すのだから、あなたも実に頭の回転の早い人ですなぁ。ははは……」


 笑いあう両者だったが、死衛門は顔を上げ、はっきりした口調でいった。


「〈千鳥ヶ淵〉……これ、あなたの作った噺でかなり有名だとか」

「ああ、そうですね……ちまたでは中々に、ええ、まあ、はい……」

「ならそれを聞きたいな。あぁ、それから霧雨さん。実はもう一つ頼みがあってね」

「ん? 何でしょうかね?」


 不死衛門と霧雨亭が見つめあう。


「某女学校で公演した時のような……乙女達の心を支配するかの如き調子で宜しく頼むよ」

「……ははは。ええ、分かりました、不死衛門殿」


 互いの視線は既に理解した者同士のそれだった。

 片や霧雨亭のものは訝りを帯び、片や不死衛門のものは殺意を帯びた視線だった。

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