其の二
いつの世にも〈怪異〉はあるが、日本においてそれを記した最古の読み物といえば〈
平安時代初期に書かれたものだが、人は古い時代から形容し難い、ないし非科学的なものに魔や鬼といった名をつけてきた。
時にそれは異国人であったり素性の知れぬ人物を指すこともあるが、人の性質というものはどうあっても闇を恐れ、理解出来ない内容を忌諱する傾向にある。それを戒めにすることもあれば娯楽にもする。
例えば夏の風物詩に〈怪談〉がある。
これは江戸の時代から続く一つの文化と呼べる。
何故に気味の悪いものを嫌うのにそれを娯楽とするかは単純であり、人は未知を恐れるのにそれを知りたくなったり触れたくなったりもする。これこそが好奇心と呼べるものだった。
英国の諺には〈好奇心は猫をも殺す〉というものがある。
英国における猫の扱いは特殊で、猫には九つの魂があるとされている。
つまり簡単には亡びない存在だとされるが、そんな猫であっても過剰な好奇心に煽られては命を散らしてしまうということだった。
「どう思う、不死衛門」
「どうってのは何を指してのことだい」
先の千鳥ヶ淵における件から一週間程のことだった。
この日、不死衛門は〈切腹ショウ〉を終えると傍で様子を見ていた鶴の嬢に声をかける。
二人の関係というのは腐れ縁だと互いにいっていたが、同時にそこまで頻繁に顔を見せあうものでもないともいっていた。
だがここ最近の二人は、特に鶴の嬢の方から積極的に不死衛門のもとへ赴く様が見受けられる。
喫茶店でアイスクリームを貪る鶴の嬢は突然のように問いかけ、それに対する不死衛門は茶を啜りつつ、果たして今回の会計はどちらが持つのだろうかと考えを巡らせていた。
「先にいうけど今回もあなたの奢りだわよ……うましうましっ」
「すっかり餌付けされた犬猫のそれじゃあないか、鶴の嬢。
「近しい間柄の存在なんてものはあなたくらいなんだもの。それにあなたは稼ぎがよいでしょう、ならば心配せずに安心して食事を楽しめるのだわ」
「それは君の楽しみだろうに……」
「そうでもないわよ。あなた一人じゃどうせ長屋で沢庵を齧って終わる程度でしょう?」
「まるで知った風にいうなぁ」
「事実は?」
「……まぁそうなんだけどさ」
「だからそうも痩せ衰えているのだわ。咳やらも含めて実に不健康だわよ」
「〈それが〉僕だから仕方ないじゃないか」
「……それもそうなんだけどもね」
上機嫌にアイスクリームを頬張る乙女の姿というのもまた可愛らしいく、幾らかの男性は先から鶴の嬢を時折に見たりしている。
店内の様子に不死衛門は呆れつつ、果たして皆がこの乙女の正体を知ればどうなるだろうかと、またもや別の方向に考えがいく。
「んで、先の問いの内容というのは何なんだい」
「んむ? まっへ、いまくひのなかにないようがあうのだわ」
「……まったくもって手前勝手な奴だよなぁ、君も」
これが伝説の〈九尾の狐〉だというから呆れる他にない。
不死衛門は腕を組みつつ唸る。
「んんむ……そうね、端的にいえば異常である、ということだわね」
「異常……? 何がだい?」
「そりゃ無論、ここ最近の帝都の様子だわよ」
「ああ、賑やかしく華々しい、正しく栄華とは即ち大都会東京のことだろうさ」
「阿呆だわね、あなた。察しなさいよ。つまりはあたし達が関与せざるを得ないような〈呪い〉を含む〈怪異〉の異常発生を指しているのだわよ」
「あー……然様で」
童の如くにアイスクリームを食らう乙女が真面目な内容を口にするものだから不死衛門は呆気にとられる。
或いは、そこまでの心配事でもあるのかと少しばかりの
「そうも異常だろうかねぇ、そういった頻発する傾向なんてのは先の大震災からは珍しくないともいえるだろう」
「まぁそうだけども。だとしても先の二つの事件がね、どうにも奇妙に思えない?」
「ふむ……奇妙か」
果たして何を以て奇妙とするのだろうと不死衛門は思う。
元より〈呪い〉や〈怪異〉なんてものは事故にも等しく、それは運のようなものだった。
それが起こってしまえば災難だし、起こりえないのであれば平和でしかなく、偶発的に起こりえたとしても、やはりこれは運だろうと彼は結論する。
「そうであればいいけどね、お分かりの通りにその〈呪い〉も〈怪異〉も生まれの発端というのは人なのだわ」
「そうだね、自然発生する〈呪い〉や〈怪異〉は有り得ないからねぇ……」
事実、それらは謂わば人の念のようなものから生まれるものだし、やはり形容し難い未知に名を付けるのも人類の十八番と呼べる。
分かりきっている内容だったが、不死衛門の抜けたような反応に鶴の嬢は苛立ったような表情だった。
「ところであなた、そういった〈呪い〉や〈怪異〉が最も流行った時代をご存じで?」
「いや……」
「江戸時代よ。まあ〈呪い〉や〈怪異〉そのものが流行った訳ではないんだけどもね」
「ふぅん……君の得意とする時代かぁ」
「あなたには苦手な時代かもね、それこそ知識で知り得る程度かしら」
「まあそうだけど、それで、江戸時代に隆盛したというのは何か理由があるのかい?」
「そうねぇ、これも謂わば自然なことなんだけど……いってしまえば江戸時代というのは平和な世だったのよ」
古い時代に暴れた〈九尾の狐〉を前に笑いそうになった不死衛門はなんとか堪える。
「……そりゃ無論、平和とはいえ幾らかの事件や騒ぎはあったんだけどね」
「
「微かに笑いが零れていたのだわよ」
「ああ、これは失敬……」
「まあそれで、何にせよ徳川の世というのは実際に平和だったし、振り返ってみればある種は完成した社会体制だったのだわ。それの良し悪しは別としてもね」
「倒幕を企て喧嘩を売りつけて、更にはぶちのめした現政府には耳に痛い内容かもね」
「どちらが正しかったのかはまだ判断がつかないけども。兎角よ、幕末等の動乱はさておき、そうも安定した世というのはね、実は人々にとっては退屈だったりもしたのだわ」
平和を退屈とするのは一つの真理とも呼べたが、彼女の言葉に不死衛門は鼻で笑う。
「そうも
「そりゃそうだろうけどさ、そんな安寧を破壊して今現在に至るってんだから、結構、傲慢に思えてしまってね」
「先の件の際にもいったけどね、人の世というのは難しいのよ。人々は皆、意思を持つ生き物だからね。〈何もかも合理性が勝るだなんてことは有り得ない〉のだわ」
「故に人の持つ爆発的な力というのは侮り難く、それこそ今の日本なんて五大国の一つに数えられているんだから、まったくもって凄まじいものだと圧倒されるよ」
「けれどもその爆発力によって人は必要のない娯楽を産み出したのだわ」
「ふむ? 無用な娯楽なんてものがあるのかい?」
それは何だと不死衛門は首を傾げ、鶴の嬢は〈匙を彼へと向ける〉と凛とした声でいう。
「〈怪談〉よ」
「……ああ、それか」
あからさまに嫌な顔をした不死衛門に今度は鶴の嬢が笑った。
「往々の〈呪い〉や〈怪異〉というのは伝説のそれと呼べるわね。故に出自も曖昧だったりするけど、それ故に妙な信憑性や魅力がある」
「例えば君のような〈九尾狐〉なんかもいるんだから意味不明さ。何だい〈
「元より〈瑞獣〉の役割とは神の代行に等しいのだから何も間違っちゃいないわよ」
「でも君等〈九尾狐〉は同時に帝を殺す性質もあるじゃないか」
「それは
「いやあ、そっちが有名過ぎてね」
「一度、
「よし、僕がいいすぎた、済まなかったよ」
「素直に頭を下げる男はよい男なのだわ、不死衛門」
「へいへい……んで、その〈怪談〉がどうかしたのかい」
何となく先から不死衛門は苛立っている様子で、それというのも〈怪談〉が話題に挙がったからだろう。
それを鶴の嬢は理解しているが彼の反応を無視して会話を進める。
「江戸時代から〈怪談〉は流行したのだわ。それこそ戒めの如く人々に注意喚起を求めるものもあったけどね。けれども純粋に恐怖を楽しむ為に産み出された物も数多あるのだわ」
「実際、そちらの方が流行したと思うよ。それこそ時代の
「まあやっぱり、平和な世においては自戒よりも単純に楽しい方が人々には受けたのね」
「何とも安穏としているなぁ」
「けれども仕方がないのだわ。凡そ四百年も武家の時代が続いて日々は戦国乱世の只中。そこからようやっと平和になったのだから、人々が安らぎを求めても頷けるでしょうよ」
「あー……まあ、そうだけどねぇ……」
「まあそんな江戸時代に隆盛を誇った〈怪談〉というのは、今し方あなたがいったように、狂言や歌舞伎、他に噺家……落語なんかで人々の世に浸透したのよ」
「……〈呪い〉や〈怪異〉が意図的に生み出されるというのもまた奇妙な話だよねぇ。それも人間が自らの手でさぁ」
「そう思えるかもだけど、例えば刀や鉄砲なんかも人が生み出したものだし、それらは役割の違った使い方をすれば己が命を失う羽目になる。けれども正しく扱えば己を生かす術になるし、単純に心身を育む素養ともなり得るのだわ」
「娯楽として生まれた物には人々を楽しませる娯楽としての役割があるってことかい?」
「何せ娯楽ですからね。意図的に、それこそ人々を心底に怖がらせて夜も眠れないような〈怪談〉を産み出さんとした歴史の噺家達は見事にその流れを生み出したともいえるわね」
「暗がりは素直に恐れるべきだと思うよ」
「けれどもそこに目を凝らしたくもなるのよ。人の性ね」
「愚かじゃあないかな」
「戦を起こすよりかは健全よ」
「そりゃそうだ……まったく、しかし嫌な話題が挙がったもんだよ。民間娯楽における流行の代表とも呼べるのが〈怪談〉だけどさ、それってのが何だってんだい」
先程、無用な娯楽だといっていた鶴の嬢は否定の立場だった割に肯定的な意見ばかりを口にしている。
酷く矛盾している様子だったが、しかし彼女はここで語気を荒げた。
「そう……健全な娯楽であるのならば、よかったのだわ」
彼女の瞳の中に赤い輝きが浮かぶ。
不死衛門はその変化を見逃すこともなく彼女の言葉に耳を傾けた。
「いつしか目的が大きく変わっていったように思えるのよ」
「ふむ、役割」
「それこそ多くの古い〈怪談〉というのは人の命を奪うことは稀に等しかったのだわ。散々に怖がらせて、ああもう命尽きる……という所で目が覚めるだの闇が去るだのと、そういうオチが当然の帰結だった」
「それが古い人々の考えだったのだろうね。端的にいうならば、何も命を奪うまではしなくてもよい筈だ、ということじゃないのかな」
「ええ、何せ娯楽ですもの。怖がらせるという、実に安直で分かりやすい目的であるのだから、そこで命まで奪うようになってはそもそもの目的が違ってしまうのだわ」
「そうだねえ、それだからこそ〈呪い〉や〈怪異〉の解釈というのが時代によって変わってきてしまう。それらは今でいうと祟りのような扱いだ」
「
「あれもまた哀れな人物なんだけど……まあそれはよいとしてだ。君であっても古い時代の噺家のそれはよしとしても、今の〈怪談〉とやらは受け入れ難いという訳かい?」
「まあね。あたしは〈呪い〉や〈怪異〉とは少々異なる位置にある存在だけれども……やはり性質が違ってしまった今の噺というのは、歪に思えるのだわ」
「歪、か」
「ええ。近代化に伴い、その呼び方もまた変化してきているというのだから、まったくもって人の世の移ろいというのは難しく思えるわよ」
そう口にした彼女の言葉に尚更に不死衛門は顔を顰めた。
次に彼女が口にする単語が予想できたからで、彼は予想が外れることを祈ったが、結局、それが覆ることはなかった。
「曰くは〈都市伝説〉だそうだけどもね……あなたのような化け物を多く産み出し、人を殺すことを目的とする異常者が現代にいるようなのだわ、不死衛門」
赤く輝く鶴の嬢の瞳。その中に映る景色の中には確かに不死衛門の姿がある。
だが、その映りというのは、現実世界の様子とはかけ離れている。
「成程……考えを違えた馬鹿な奴が人々にそれらを面白可笑しく語り、闇に引きずり込もうとしているってのかい、鶴の嬢」
或いはそれを魔や鬼と呼んでもよかったかもしれない。
乙女の瞳に映る不死衛門の姿は、背から無数の
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