三 霧雨亭

其の一



 千鳥ヶ淵での心中騒動は収束した。それの理由というのは件の〈呪いが産み出した怪異〉を鶴の嬢が直接に葬ったからだった。

 その事実は誰に知れることもないが、騒動が終われども悲しみを克服出来る人は少なかった。


 問題の発端とも呼べる某女学校では歳若い少女達が死した人物達をしのび、その日は講堂で全生徒が黙祷を捧げていた。


 すすり泣く声は連鎖するように波及はきゅうし、故人と親しかった人々は改めて死を受け入れると崩れるようにして泣き喚いた。


 愁傷しゅうしょうの様子を窓辺に凭れ掛かりながら眺めているのは真紅の瞳をする鶴の嬢だった。

 乙女の表情には何もない。通常通りで感慨すらもないように見える。


 乙女は永い時を生きる存在でもあるし、そもそも人の世の内で生きていようとも道理の外にある。

 かつ、乙女は多くの時代を生きてきたが故に〈死〉に対する価値観というものが近代の人々の持つそれとは大きく異なる。


〈死〉とは逃れ得ぬものであるし、それが理不尽から齎されるものだとしても、人は必ず死ぬものだと乙女は割り切っている。


 決して情がないという訳ではないし、諦念という訳でもない。

 それが人という存在だし、己自身が人魔を超越する存在であることを深く自覚しているが為に、乙女はどうあっても〈死〉という概念とは程遠い位置にある。


 ただ、真紅の瞳には揺れる波があった。それは感情の様々だった。

 それは死した人物達に抱くものではなく、悲しみに暮れる少女達に対して抱くものだった。


「死した人物達は哀れといえども、無力のままに見過ごしてしまった方も、また哀れなのだわ」


 或いは救えた筈だと自責の念に埋もれる人物もいるかもしれないし、何故に不穏な空気に気がつかなかったのかと後悔に俯く人物もいるだろう。


 それらの、謂わば残された側の心情というのは、死した当人達からすれば無関係だと思えるかもしれないが、最重要なことは、もう、彼女等は死した人物達と意思の疎通がとれないということだった。


 故に悲しんだり泣いたりするしかできない。

 そこから先に、文句を口にしても返答はないし殴ろうにも空を切る音しかしない。


 それが〈死〉であり、幼い少女達はそれをこの時にようやく実感し、故に嗚咽おえつを漏らして顔を覆うしかできなかった。


「護るというのは至極に難しいことなのだわ。殺めることはとても簡単なのにね……」


 過去、乙女は戦乱の時代に多くの人々を救ってきた。

 それをも遡った時代には暴虐の限りを尽くしたとも伝わるが、人を護ることも殺すこともしてきた乙女にとって、両者の開きはあまりにも大きく、こと、守護というのは割に合わないくらいに難関だとも強く実感している。


 結果的に唯一無二とも呼べる〈瑞獣ずいじゅう〉の長である〈狐竜こりゅう〉へ昇華した訳だが、そんな乙女であっても、残された者達の悲しみを前に、ただ眺めているくらいのことしかできない。


〈瑞獣〉とは古代中国から伝わる吉祥きっしょう霊獣れいじゅうを呼ぶ。

 特に四霊しれい四神ししんは広く知られるが、神獣しんじゅうとして〈九尾狐きゅうびこ〉も〈瑞獣〉の内に含まれる。


 往々の〈瑞獣〉が人々に助力するのに対し、〈九尾狐〉は特殊な存在として多くの人々に伝わっていた。

 最大の理由はその性格の内に暗君殺あんくんごろしがあるからだろう。


〈九尾狐〉は王に相応しい人物の傍に現れる。

 だが格に見合わない者の命を奪いもする。


 その気難しい気質からして凶兆きょうちょうの獣とも揶揄やゆされるが、しかし元来は吉兆きっちょうを告げる神獣であることに変わりはない。

 かつ、鶴の嬢は〈竜〉へと昇華した唯一の〈九尾狐〉であり、事実、彼女は万にも及ぶ人々を救った過去がある。


 元より〈稲荷神いなりしん〉であることも含め〈竜〉の名をもかんたる〈狐竜〉とは正しく神の使いに相応しく、神の代行とも呼べる立ち位置でもあった。


 しかし、そんな乙女であっても人々の悲しみを前に口をつぐむしかできなかった。そこに慈悲を持ち寄ったところで当人達の幸福に直結する望みは叶えられないからだ。


 死んだ者達を蘇らせることは禁忌であるし、仮にも〈瑞獣〉の長にして神の代行の役割をも担う乙女に世の理を無視することは不可能だった。


 故に乙女は、せめてもの手向けのように、或いは残された者達を守護するように講堂に踏み入ると、隔絶された領域の内で真紅の瞳を煌めかせたままに少女達を見守っていた。


 そうして祈りの時間が終わり、解散となると少女達は講堂から去っていく。

 先導する教師陣の目元も同じく赤く腫れていて、その痛ましい姿に、悲しみの感情の程度には老いも若きもないのだと乙女は思う。


 人波の流れに乗ったまま、乙女は悲しみの参列に紛れて退散をしようと思っていた。この日の目的は最期の見送りに立ち会うことだけだった。


 既に問題は解決されている。

 だからこそに今後の心配というのはないと乙女は思っていた。


「あの子達も、本当に……何故に死ぬだなんて真似をしてしまったの……」


 ところが乙女の耳が微かな声を捉えた。

 それは退散する人の波の内の、幾らかの女子生徒達の話し声だった。


 恐らくは近しい間柄にあった人物達のようで、乙女は人の波を泳ぎつつ、件のグループへ接近して会話の内容に耳を傾けた。


「あんなにも仲睦まじく、永劫を誓う程に清らかな関係だったのに……」

「ええ、実に突然で、そこまで思い悩むような素振りだってなかったのにね……」

「心の苦しみがあったのなら、相談してくれたら、或いはこんなことには……」


 それは悲しみを思わせるものでもあるが、いぶかりを含むようなものだった。

 どうやら死した生徒の内で、皆が皆、絶望する程に思いつめていた訳ではないようだった。


 それであっても先の〈呪いが産み出した怪異〉は〈心中を含む自死を促す呪い〉なのだから、表面的に負の感情が伺えずとも、少しの取っ掛かりさえあれば闇に飲み込まれるのも仕方のないことだったと鶴の嬢は思う。


 疑問を口にする少女達だったが、突然彼女等は思い当たったような顔をした。


「そう、なんだか〈あの噺〉のような……」


 一人の少女の呟きだった。


 鶴の嬢はその言葉に疑問符を浮かべるが、他の少女達は先の台詞に同調するように頷いた。


「そうよね、何だか似ているのよね。私も思っていたの」

「うん……でも、まさか内容を真似るように心中するだなんて、普通ではないわ」


 鶴の嬢の表情に不可思議な、妙な違和感を思わせるような色合いが浮かんだ。

 眉根まゆねを寄せたままに乙女は更に接近すると、先から合点したように言葉を交わす少女達の会話の内容を逃すまいと〈狐の耳〉をそばだてた。


「ねえ、確かあの噺家はなしかの方がきたのって、先月くらいだったかしら?」

「ええ、そうだったはずよ。先の講談にきた、あの流行りの……」

「……そういえば先月くらいからよね、心中が流行り始めたのって」


 乙女の胸中に、何だか気持ちの悪い、おりのようなものが生まれた。

 それは不快感を増して粘度を伴い全身の末端にまで広がっていく。


 嫌悪感――頭の中に浮かんだ単語だった。

 あまりにも嫌な予感と胸糞の悪い予感とが合致すると、次に耳にした会話にいよいよ乙女は確信を抱く。


「まるで皆、ならうように身を沈めたけど……まさか〈千鳥ヶ淵〉だなんてはなしを真似するだなんて、有り得ないわよね」

「そりゃあ、そうよ。あれは凄く切ない怪談噺かいだんばなしだったけど、そんな、まさか噺を体現するように真似するなんて……」


 乙女の顔から感情が失せる。


 乙女は悟った。

「一連の騒動には焚きつけた腐れ外道がいるのだ」と。

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