二 千鳥ヶ淵
其の一
大正の日本は混沌としていた。
近代化に伴い大衆は政治的思想を抱き、
他にも民衆の政治的な動きは多々見受けられてきたが、そういったものは人々の生活や文化的変革が由来するものと呼べる。
欧米列強に負けるべからず、
「ふんがぁ、ほんげぇ……」
とはいえそんな民衆の運動だとか政治変革だとかにさっぱり興味を示さない人々もいる。
時刻は昼の頃合いだった。
裏長屋の隅の部屋で阿呆のように寝息を立てる男がある。
帝都〈奇妙通り〉の名物として知られる不死衛門だった。
いい歳の頃だろう男が無様にも惰眠を貪る姿というのもまた珍しいが、しかし男は人の世に生きてはいても人の世の常に従う道理はないとしていた。
それというのは言い訳であり、彼は朝にめっぽう弱くて早起きなんてことは天地がひっくり返ってもあり得なかったし、このくらいの時刻まで眠ることは当たり前だった。
「ちょいと不死衛門。ちょっとってば。どうせここにいるんでしょ? ねぇってば」
しかしそれは彼の都合でしかない。
彼がいうところの道理とやらを他者が認める筋合いもまたない。
例え寝入りの時だろうと人の起きる時刻に人が行動するのは当たり前のことであるので、この昼時の来訪者は当然のように不死衛門の住まう部屋の戸を蹴り開けた。
「
呆れ顔でやってきたのは鶴の嬢だった。
この日の姿も洋装だったがやはり帽子はない。
淡い桜色のワンピースが金の髪によく映える。
しかし美しい姿や顔立ちには見合わない暴力主義者でもあり、先程蹴り飛ばした戸を他所に、彼女はどかどかと入ってくると不死衛門の腹部を思い切り踏みつけた。
「おぐえっ! なんだいなんだい、何ごとだい!」
「何ごとだ、じゃないわよ不死衛門。あなたね、春の陽気の獣じゃあるまいし、いい加減に起きたらどうなのよ」
「え、あれ? 何で鶴の嬢が?」
「何でも何もあなたに用事があったから赴いてやったのだわよ。いいからさっさと起きなさいな、お客様なのよあたしは」
「いやいや暴虐の嵐だろう、いてて、げほげほっ……うぅ、なんて最悪な目覚めだ……」
はだけた浴衣姿の不死衛門は眩む頭のまま桶のある場所まで這っていくと、張ってある水で顔を洗い、傍にある手拭いで雑に顔を拭き上げるとそこでようやっと頭が正常に戻った。
「どうかしら、目は覚めたかしら」
「相当にね……ところで君は加減というものを知らないのかい、内臓が複数潰れているよ」
「所詮飾りでしょう、あなたの中身なんぞは。それらはまともに機能していないじゃない」
「いやいやご飯を美味しく食べられなくなるじゃあないか」
「あら、いいことじゃないの。再生のその時を待ち遠しにするとよいのだわ。それこそ
「何たる
「少なかれ
「真なる
毎度のように互いは憎まれ口を叩きあうが、その最中に不死衛門は適当に身なりを整え、兎角として客人であるからと飲み物を用意する。
差し出された茶を一度啜った鶴の嬢はその薄い味と粗末な具合に顔を顰めたが、元より期待はしていなかったので仕方なしと割り切った。
「んで、何の用があってきたんだい。先日の件からまだ一日、二日程度だってのに」
「あら、そうも見たくない顔かしら?」
「珍しいといっているんだよ。そりゃ僕らは腐れ縁と呼べる仲だけど、そこまで顔を合わせていた訳でもないじゃないか」
「まぁ月に一度も会えばよい方だけども。だとしても会いにきたっていいじゃない」
「よもやの遊びにきただとかという訳じゃあるまいね……」
「暇つぶしだとしたら?」
「尚の事気味が悪い。それこそ君はおしゃまさんを自称する程にモガのそれだろう。暇があれば洋服なり何なり買い物に興じるんじゃあないかい」
「よく分かっているじゃないの」
「そりゃ腐れ縁だからね」
「ならばよい予感がしないというのもお分かりだわね?」
「ああ、てっきり先日に洋食を奢ったことで味をしめたかと」
「それも用事の一つだわね」
「まったくもって最悪だよ、君は……」
この乙女といえば実にけしからんと不死衛門は項垂れる。
「ここのところ陽気がよいでしょう? だから景色でも見て歩こうかと思ってね」
「……まさかそれで僕を連れ立とうって?」
「あのね、不死衛門。普通に考えなさいな。あたしのような別嬪の乙女がよ、一人で通りを歩けば破廉恥な輩に言い寄られたり迷惑を寄越されるだの、簡単に想像がつくでしょう?」
「はあ」
「で、あるならばそれの護衛がいるのだわ」
「君の
「そうよ」
「景色を愛でる為に外に出ようと」
「ええ、そうよ」
「そんで団子なんかが食べたいと」
「よく分かっているじゃない」
「ガキかい君は……」
つまりは花より団子だった。
しかし季節の自然を楽しむというのは中々に
よくよく考えても不死衛門は出不精で、日々の糧となる金銭は芸で稼ぐにせよ、他に外での用事はないからと長屋で過ごすことの方が多かった。
狭い室内には彼の趣味だろう読み物が乱雑に積み上げられていて、いつ倒壊するかも分からないそれに囲まれて眠るというのも中々に恐ろしい。
兎角、彼は鶴の嬢の誘いに頷くことにした。
「まぁいいよ、僕も今日はやることがなかったし、折角だから偶には外を歩こうか」
「あらまあ珍しい。よもや
「誰が
「満面の笑みだわよ」
「ほお、これが笑みに見えると?」
「いいからさっさと支度しなさいな。あと懐の方も余分に、いや過多に持ってくるべきよ」
「君は心底に最悪な奴だよ……いやもういいか、兎角として参ろうじゃないか」
どうにもならんと諦念に至り、不死衛門は立ち上がると羽織りを引っ掴み浴衣の上に着る。
そんな調子で当たり前のように出ていこうとするから、これに鶴の嬢が声をかけた。
「いやあの、不死衛門、よもやだけどその寝間着で外を歩こうっていうの?」
「何だい、別にいいじゃないか。どうせ通りを見て歩くといっても自然のある地域なんてのは人も疎らな場所だろう、まさか着飾れとでもいうのかい?」
「あたしの隣を適当な格好で歩くだなんてふざけた真似をするなといっているのよ。あなたね、折角よい着物が多くあるのだから、偶には袖を通した方がよいのだわ」
「ええ……面倒臭いんだけど……」
「いいから着替えなさいっ」
「喧しい女だなぁ、ったく……」
結局、根負けした不死衛門は箪笥から
「それにしても着流しばかりね。袴の姿を見たことがないけども」
「ああ、勘弁してくれ、あんな野暮ったいの……武士じゃあるまいし僕は嫌だよ」
「
「そうだなあ、凄く簡単にいうと窮屈だろう、重ねて着るのは。特に腹が苦しくなる」
「そうも痩せているなら関係ないと思うのだけどね」
「こればかりは感覚の問題さ……よし、帯も巻いた、羽織りも着た。然らば参ろうかい」
先よりは綺麗な格好になった不死衛門に鶴の嬢は満足の笑みを浮かべ、二人は長屋から出ると歩き始める。
この時代になると男女が肩を並べて歩くというのは然程珍しくはない。
それでも距離感やらも含めると、往来の場で言葉を多く交わしたりすることは不埒のようにも思われた。
しかしこの二人に人の世の云々というのはまったく関係がない。
二人は同じ歩幅の同じ速度で帝都の景色を歩いていく。
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