其の四
それの距離は更に近づいていた。
相も変わらず引き摺るのか這うのか判断のつかない不気味な音をしながら、それは間違いなくエレベーターへと迫ってきている。
鮮血と錆に支配された籠の中、不死衛門はあやふやな視界でそれを見た。
「あれか」
それは動いていた。
闇の奥から這いずるように、鮮血に塗れた姿で一心不乱に身体を動かしていた。
顔は大きく陥没し、眼球の一つはなかった。
皮膚は爛れていたり切り裂かれていたりと惨い有様で手足はない。
「次は四階です次は四階です次は四階です次は四階です次は四階です次は四階です次は四階です次は四階です次は四階です次は四階です次は四階です次は四階です次は」
我武者羅に、四肢のない身体を必死でくねらせて前進を続ける肉塊のような物体は、あと少しもすればエレベーターへと到達する距離にまで迫っていた。
二人はその様子を見つめていたが、しかし寸でのところで扉が閉ざされてしまう。
「四階です四階です四階です四階です四階です四階です四階です四階です四階です四階です四階です四階です四階です四階です四階です四階です四階です四階です四階」
それまで大人しく通常のように下降していたエレベーターが、今度は先の比ではない速度で下降を開始した。
全身に降りかかるような重量に鶴の嬢は軽く背を曲げ、不死衛門は堪らずに床に片膝をついてしまう。
「げぇっほげぇっほ……ちょいと鶴の嬢。君、昼は軽い調子でいってくれたけど、これは洒落にならん〈怪異〉じゃないのかい」
「少しばかり見誤ったかしらねぇ、所詮は文明に触れて舞い上がった程度の〈呪い〉だと思っていたのだわ……」
「こりゃ放っておいたらこのデパートで屍の山が出来上がるってもんだよ。厄介な〈怪異〉だ、何せここには逃げ場がない」
苦悶の表情をつくる二人だったが身を襲う重力は突然に途切れた。
今まで急降下していたエレベーターが急停止したからだ。
操作盤の針は四の字を示している。
本来ならばこのデパートの最上階を指すが、この状況での意味合いとは最下層である地下四階を指していた。
古くから四は〈死〉を想起させるが為に忌諱された数字だったが、この建物は四階建てと縁起の悪い形で仕上がってしまった。
或いはその事実がこの〈怪異〉を産み落とした〈呪い〉を招く要因となったのかもしれない。
「では開けゴマってやつかな、何が飛び出るやら――」
既に不死衛門は満身創痍だった。
外傷らしきものはないのに口や鼻、目から血が垂れ流れ咳を繰り返している。
そんな彼は赤く染まった景色の先、惜しむように開かれた扉の先に見た物に言葉を失った。
「四、階で、ございます。おつかれ、様、でした」
扉が開くと同時、その肉塊は不死衛門の眼前に出現した。
それは彼の心臓の上に重なるように身を寄せ、声は彼の耳元で囁かれた。
「不死衛門――」
鶴の嬢が彼の名を呼ぶ。だが彼はそれに応えることが出来なかった。
それを〈怪異〉と呼ぶとして、〈怪異〉と接触すると同時に不死衛門は身体の自由を奪われ、更には全身の穴という穴から血が噴き出る。
「あ、あが、あがががっ」
不死衛門は必死に抵抗しようとするが、しかし身体は彼の意思を受け付けないかのようで、間も無く、彼の呼吸は完全に止まってしまった。
遠のく意識の中、彼の耳に届くのは狂ったように繰り返される言葉だった。
「お疲れ様でしたお疲れ様でしたお疲れ様でしたお疲れ様でしたお疲れ様でしたお疲れ様でしたお疲れ様でしたお疲れ様でしたお疲れ様でしたお疲れ様でしたお疲れ様」
――古くから〈怪異〉というものは時代とともに進化してきたといえる。
例えば江戸の時代よりも以前から妖の存在は当然とされてきた。
天狗だとかは神の如くに扱われもしたし、河童や鎌鼬や、大きな存在といえば
それらは魔や鬼と呼ばれる存在であり、闇の権化というものは人々の思う所の〈死〉の象徴を意味し、それぞれの妖は古今、命を奪う存在とも認識されている。
それというのはつまり〈死〉と呼ばれる現象を
けれども人々は日進月歩に成長を続けてきた。
進化、或いは進歩という言葉の聞こえはいいが、では
古い時代にはなかった電気が生まれ、狂言だとか歌舞伎だとか落語のような風説をもとにする娯楽が生まれ、人々の移動は機関車等の登場によって容易になった。
それまでは闇の中で火を灯し、近しい人々と噂の程度の言葉を交わし、街道を日を跨いで行き来していたのに、夜は明るく、世間は華やいで、居眠りの最中に目的地へ辿り着く。
それらは人々の生み出した発明の数々であり、人々はその恩恵に
暗がりの道を恐れ、顔の見えぬ他者を
魔や鬼と呼ばれてきた往々の恐怖は、通りすがった人物の影だったとか、それこそ〈幽霊の正体見たり枯れ尾花〉というように納得させるだけの素養を多くの人々が持つに至る。
嘆かわしいことではないし、それらはやはり人の世の誇りなのは間違いない。
だが進化や進歩を経る最中に、実態不明として、畏敬を抱いたり信仰していた存在に説明がついてしまうようになってしまった。
誰もが皆、畏敬や信仰を失った訳ではないだろう。
しかし事実としてそれらの度合いというのは減り、今や暗がりの中を歩く際に提灯を持つ人物はいなかった。
人々はそれ程までに未知や不可思議に対して危機感を抱くことをしなくなってしまった。
或いは〈死〉の顕在とされる〈呪い〉や〈怪異〉をも疑うことができるくらいに人々は大きく成長を続けてきた。
「――故に〈怪異〉も人の世にあわせて成長してしまうってんだから嫌になるよ」
だからこそに〈怪異〉も進化していく。
例えば現代において名の知れる〈都市伝説〉と称される〈怪異〉の様々は遭遇した瞬間に死ぬ場合がほとんどであり、ある種はその理不尽的な恐怖こそが人々の好奇心を煽る。
代表格であるメリーさんに始まり八尺様やくねくねと呼ばれるそれらは間違いなく〈死〉のそのものであり、人が〈死〉を恐れず長寿を可能にしたところで「死に迫る、もしくは死が迫れば人は抗いようもなく死ぬ」と
「近代化は確かに素晴らしいものだよ、鶴の嬢。君のいう通りに食事なんかは実に見事な文化だ。人の世の産み出すものというのは侮り難く、その可能性を見続けていたくなる程に、やはり人というのは魅力的だ」
例えばエレベーターにまつわる〈怪異〉というのは多い。
異界に迷い込む入り口だとかが有名だが、誰も乗っていない筈の籠内で勝手に階数ボタンが点滅しただとかと気味の悪い〈怪異〉が目立つ。
それというのもやはり、エレベーターの内部というのが隔絶された空間でもあり〈結界〉の役割を果たすものでもあるからだった。
逃げ場がないことも加味すれば人は
「けれどもお忘れになっちゃいけない。それら
元より戒めを含め〈怪異〉や〈呪い〉という物は人々が生み出してきた。
そうすると帰結する答えとして人の意識には根底に〈死〉を克服出来ないという思いがあることになる。
だが〈死〉は現象でしかない。
それが意思を持ち襲い掛かり、人の手綱をはなれてしまっては災厄に他ならない。
理不尽とは斯くあるべきとも呼べるが戒めとしての意味合いがなくなってしまう。
「地獄の方から迫ってどうする。未だ先の大震災からそう時は経っちゃいない。地獄は十分に死者で溢れかえっているだろうに」
そんな理不尽が形を持ち、意思を持ち、行動を可能にした場合、果たして〈死〉のそのものはどう動くだろうか。
人を襲うかもしれないし地獄をつくりだすかもしれない。
災厄となって病を運んだり戦争のような恐ろしい事態を引き起こすかもしれない。
だが肝心なのは、〈死〉の象徴全てが同じ意思を持っているかどうかだった。
「だったら実に勿体無いじゃあないか。必殺必死というのはこの大正の世では余りある程に無駄じゃあないか。で、あるならば……ご
――大正の時代、帝都に
その男は常に咳を繰り返し鼻水を垂れ流し、顔は常時蒼白で生気の欠片もない。
曰くは不死身と自称し、帝都の〈奇妙通り〉では切腹の芸で日銭を稼ぎ、その日暮らしと
しかし可笑しなことにこの男の出自というのは不明だった。
そもそも後年の記録にその男はさっぱり載っていない。
伝え聞くところによっては先の関東大震災から突然に姿を見せたと噂されているが、それもまた定かではなく、例えば明治の時代や、もっと遡れば江戸どころか安土桃山をも飛び、平安時代にすらそれと思しき存在を示唆する言い伝えがありもする。
また、更に奇妙なことにその男に似た存在が諸外国でも目撃されている。
ヨーロッパからアフリカまで広く認知されており、その正体は謎に包まれていて、いやさ同一の存在ではなく偶々に似たのだろうと結論する人々もいた。
ただ、やはり共通することとして、その男は不死身であり、病身なのか常に咳をして鼻水を垂れていて、生気を感じない印象だという。
「では
果たしてその男の正体とは何なのかと疑問は尽きない。
何故に常に死にかけているのかというのも謎だった。
ただ、男は不死身であるからして、どうあっても死ぬことができないでいる。
それは大正の時代、帝都の某デパートの中でも同じことだった。
直面した〈怪異〉により死んだと思われた男は、先ず、そもそも息をしていないし心臓は機能していなかった。
それは人の形をしているから内蔵しているだけで意味を持たない。
男の意味合いとは〈死〉のその物だった。
男というのは〈そういう風に産み落とされた思念の塊〉だった。
その真実を知る者はいなくとも彼は自分自身の在り方を知るが故に立ち上がった。
男は立ち上がると己に覆い被さる〈怪異〉を鷲掴みにして細い瞳で睨み付ける。
それに〈怪異〉は何の反撃も出来ない。
何せ手足はなく持ち得る能力は必殺必死〈だけ〉だからだ。
故に抵抗の手段はなく〈怪異〉は間近に迫った男を前に目を見開くのみだった。
「いただきます」
男の全身から黒い
その男は人の身形をしているのに人ではなかった。
全身から伸びる黒く細長い
仮にその光景を名付けるならば、野性の獣が如く、食事と呼べたかもしれない。
「相変わらずあなたの食事の様子というのは気味が悪いわねぇ」
その光景を見ているのは鶴の嬢と呼ばれる乙女だった。
今し方目の前で巻き起こっている理解し難い異常現象と直面しても、さも当然というような風体で、どころか手を仰ぎ溢れる臭気に
「それで……それは美味しいのかしら、不死衛門」
間も無くして某デパートに産まれ落ちた恐怖の〈怪異〉は消えてなくなった。
エレベーター内部には先まで広がっていた異次元のような景色もなく、ただ作業着に身を包んだ顔色の悪い大きな男と西洋かぶれの乙女のみがある。
問いに対し男はかぶりを振ると立ち上がり、合間にあいきをしてやれやれと肩を竦めた。
「ダメだねぇ、やっぱ死ねないや」
「これでもあなたの不死はどうにもならんのねぇ。まあ分かりきっていたことだけども」
男の
真実の名は不明とされていて、大正の帝都でよくその姿を確認されていたと一部では伝わっている。
常に危うげな足取りで〈切腹ショウ〉なる妙技で日銭を稼ぎ、時に鶴の嬢と呼ばれる
その正体は謎に包まれていたが、この不死衛門なる男は己の〈死〉を求めて〈呪い〉や〈怪異〉を食べていたと、これまた一部の〈都市伝説〉では語られている。
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