其の三
某デパートで死人が出た。
死者は従業員の一人で早朝のことだったという。
それは開店前の準備時間でのことだった。
お決まりの朝礼になっても件の従業員が姿を見せない。
別に不真面目な人物ではなかったそうで、そもそも幾らかの人々はその人物とその日の朝に顔を合わせている。
では何処へ行ったかと総出で探してみると、件の従業員はエレベーター内で横たわっていた。
外傷はなかった。死因は心臓発作の類と判断されたが、この不審死は伏せられ営業は通常通りに行われた。
伏せられた事実は商売を優先してのことだが、とはいえ皆は気味悪く思う。
例えば昇降の負荷により心臓が圧迫されただとか内臓が損傷したとすれば血反吐くらいは出るし、そもそも常日頃大勢の人々が使用する訳なのでそのような心配事は考え難い。
外傷がないとなれば第三者の関与はないだろうし、自死だったかといえばそのような痕跡もない訳だから、こうなると突然死と判断する他ないが、それにしても「人はそうも簡単に死んでしまうものなのか」と不快を含む
「おや、お鶴さんじゃないか。どうしたんだいこんな夜分に」
「これは守衛殿、こんばんは」
夜遅くに鶴の嬢は某デパートへとやってきた。普段の勤め先でもある。
慣れた足取りで内部を歩いていると顔見知りの守衛と出くわし、互いは簡単な挨拶をした。
「あれ、そっちの方はどなただい?」
挨拶を交わしたところで守衛は彼女の背後に立つ人物を見た。
背の高い痩せた男で顔は何故か蒼白だった。
薄青色の作業服の姿で
手には道具箱らしきものを持っていて、見覚えのない人物に
「ええ、こちら、知り合いの機械技師ですの。ほら、早朝の事故があったでしょう。あの件で社長様よりエレベーターに不備があったのではないかと申されまして。でしたらあたしの知り合いに都合のよい人物がおりますからと、こうして夜分の邪魔がない時間に調べて頂こうと思い至ったのですわ」
「なるほどなぁ。しかし殊勝だねえ、お鶴さんは。確かに例の昇降機側に問題があったかもしれない。そういえば後に点検を業者に頼むと聞いていた気がするなぁ」
「それはあたしの用事でありますわ。伝え忘れておりましたわね、申し訳ございませんわ」
「いやいや大丈夫だよ、何にせよ我々にはまったく理解の及ばない部類だから、技師殿、宜しくお願い致します」
声を掛けられて技師と紹介された男は頭を下げる。
しかし帽子も外さぬとは中々に無礼だったが、顔色からして体調が優れない為だろうと守衛は判断した。
程なくして守衛は去り、その後姿を見つめる技師の男は野暮ったい風に帽子を取ると鶴の嬢を見下ろし、
「見事な
「ふん、ならあなたは
男は不死衛門だった。
「はいはい、それじゃあ案内を宜しくお願いしますよ、鶴の嬢。こうも暗いデパートというのは初だ、下手に動くと触らなくていいものを触ってしまいそうで少しばかり恐ろしい」
「何をいうやら、あの不死衛門が暗がりを恐れるですって? お笑いにもなりゃしないわよ」
「いやいや、別に暗闇なんてのは問題じゃない。端的にいえば僕はこのデパートの構造がさっぱり分からないという訳だよ」
「ああ……つまり道に迷いそうってことね。あなたってやっぱり、どこかしらが欠けているのねぇ」
「欠けていようがいまいが知らぬというのは恐ろしいものだよ。さあほら、ぐだぐだしていないで件のエレベーターに向かおう」
「はいはい……」
大の男が情けないと鶴の嬢は嘆息するが、兎角として先導するようにして彼女は歩き、その後ろを不死衛門がついていく。
夜分のデパートは日中の様子とはかけ離れていて、暗く、無音に支配された内部はまるで死んだ様子だと不死衛門は思った。
「しかし人がいないというだけでこうも様変わりするものかね。まるで墓場のようだよ」
「例えが
「近代化されたとはいえ人さえいなくなれば正しく無機物でしかない訳だ。人の生活の為にと造られた数多の物は、人が関与して初めて息吹きを得るのだねぇ」
「何をそうも先から妙な感心をしているのよ……ほら、そうこうしていると到着したわよ」
ややもして二人は件のエレベーター前に到着した。
人の姿がないとはいえ電気は当然通っている訳なので、呼び出しの操作盤や籠内には明かりが点っている。
背後に続く暗闇と打って変わり、その明るさというのは不思議と魅惑的で、不死衛門は一度振り返って暗がりを確認すると、再度エレベーターを見つめた。
「ふむ……変哲もない、今時のデパートなんかじゃよく見るエレベーターだね」
「外観だのは、そりゃ普通のままだわよ。そこが問題となっている訳でもなし、何をそうも観察しているのよ」
「いやね、本当にこんな普通のエレベーターで〈呪い〉が〈怪異〉を産み出したのかと不思議に思えて。どころか僕は背後にある暗闇の方がよっぽど恐怖だと思うけど」
「あら、そう? あたしの感想はそれの逆だけどね」
「ほう? なんでだい?」
不死衛門が問うと鶴の嬢は彼を見上げて当然なことのように言葉を紡いだ。
「だって〈自然じゃない〉もの、この灯り。まるでそこにこそ拠り所があると思い込ませる
彼女の瞳に赤い輝きが浮かび、それを見つめる不死衛門は静かに笑う。
成程確かにと呟き、では真の恐怖というのはこの灯りに惑わされることにあるのかと納得した。
「その隙をついてきたって訳だ、件の〈怪異〉とやらは」
「いうなれば
「ふむ……一度踏み入れば逃げ場を失う、か。立派に〈呪い〉だね。ある種は〈迷い家〉だ」
「それの発展形かもしれないけど大きな違いがあるわね。〈迷い家〉は突破できるのよ。それは中々の至難だけど必殺必死の〈呪い〉や〈怪異〉という訳じゃない」
「おまけにお土産までくれるものね、〈迷い家〉は」
「ええ、立派に人の為の妖と呼べるわね。それこそは試練だもの」
「ではこれは試練になるかな?」
二人は軽口を叩きつつ仄かな灯りの点る籠内へと踏み入る。
そうすると鶴の嬢が当然のように操作盤の前に立った。
自然な動きに中々どうして様になっていると不死衛門は感心するが、彼女は先の言葉に不敵な笑みを浮かべつつ答えた。
「なるのであれば世の暗がりは全て地獄へと繋がる存在になってしまうわね」
「人に突破は難しいか。難儀なもんだよ」
二人の会話がそこで終わる。突然に籠内の操作盤が動きを見せたからだ。
鶴の嬢は操作盤に手を置いていなかったし操作もしていない。
不死衛門は籠内の中央に突っ立っていただけだ。
つまり、このエレベーターは誰の操作も関与しない状態でひとりでに動いたことになる。
妙に機械的な音が響き、籠内の灯りは橙の色味が増し、浮遊感が二人を包んだ。
「二階に参ります」
不死衛門の耳に言葉が届く。
それは聞き慣れた声――鶴の嬢の声だったが、どうにも様子が違うように思えて彼は鶴の嬢を見た。対して視線に気が付いた彼女は振り返る。
「何故に二階に?」
「さあ?」
先の声は鶴の嬢の物のようだったが、しかし声の発生源は彼女からではなかった。
その声は籠内の全域から染みだすように響いた。
鶴の嬢は参ったように深く息を吐くが、対して不死衛門は愉快そうに笑う。
「君の声、模倣されているようだね」
「勘弁願いたいわよ、情熱的にも程がある……」
「余程君の印象が強かったとみえる。先の被害者も突然に君の声が聞こえてさぞ驚いたことだろうねぇ」
「まさかそれで心の臓が止まっただなんてバカげたオチじゃあないでしょうね……」
「さあ、
二人は感覚からエレベーターが上昇するのではなく下降しているものだと直感した。先の声からアナウンスはなかったが機械的な音は響き続け、それは鳩尾にまで伝わる程の音量だった。
「二階で御座います」
凛と音が鳴り、やはり鶴の嬢の声が生まれる。
果たして二階とは何処だと二人は首を傾げつつ、開いた扉の先を見た。
「お降りの際はお気をつけ下さい」
その先に広がるのは闇だった。
先まで二人が見てきた暗がりに浮かぶデパートの内部とは打って変わり、そこには何も存在しなかった。
ただ、何もないのに伝わってくる物がある。
例えば臭気だった。
それは鉄の香りで、闇の奥からは妙に温い風のような物が吹いてきて、濃い湿度によるものか肌に不快感がやってくる。
また、音がしている。
雨の滴るような音はしかし粘性を思わせ、天と呼べる方向があるかは不明にせよ、それは高い場所から落ちてきて水面に落下するような感じだった。
「これはまた大層だなぁ」
「そうね、さながらに地獄の入り口と呼ぶべきかしら」
「成程、ずばりそれかもしれないねぇ……」
暫く二人が闇の景色を眺めていると奥の方から音がやってくる。
音の正体は不明だ。何せ闇のみが広がるのだから見える訳もなく、灯りは籠内にのみ存在している。
それはしたしたと音を生み落としながら、或いは引き摺るような、或いは這うような風で、滴る鉄の雫の中、間違いなくエレベーターを目指していた。
二人の注目が闇の奥へと向かうが、しかし音が未だ遠いところで扉が閉まり、再度エレベーターが下降を始めた。
「三階に参ります」
再び響く鶴の嬢の声。それは先よりも大きく輪郭のある声で紡がれた。
「ある程度予想を立てるとさ、これ、地下四階が終着点だろうね。四階建てなのもあるけど」
「そうね。先より聞き取りやすく、より耳に近い位置で
「〈死〉が迫るか。元より生物は時には抗えず〈死〉を克服出来る訳でもないのに、それを無理矢理に奪おうってんだから噂の〈呪いが産み出した怪異〉は余程人が憎いのだろうね」
「どうかしら、そうでもしないと人には最早太刀打ちできないと思ったのかもしれないわよ」
「面白いことをいうじゃないか、鶴の嬢。〈怪異〉の側こそが追い込まれてるってのかい?」
「じゃなきゃこうもならないでしょうよ」
ほら、と促された不死衛門は下降を止め、鈍く開いた扉から外の景色を見る。
「三階で御座います。お降りの際はお気を付けください」
相変わらずそこには闇が広がっているが、臭気が先よりも更に濃くなり、これは明確に鮮血のニオイだと理解出来てしまう程だった。
粘性を伴って滴る雫の音も大きく、迫ったようにも聞こえてきて、不死衛門は軽く身を乗り出してそれらをよくよく観察した。
「あんまり見ない方がいいわよ」
彼女の忠告とほぼ同時のことだった。
突然に不死衛門の視界が霞み、眼球に痛みが生まれた。
そうすると指先に濡れた感触がして、何事かと思いそれを見た。
「へえ……本当に容赦がないのだねぇ」
それは彼の瞳から溢れていた血だった。
今になって彼は自分の目や鼻や口から血を零していることに気が付き、その事実を理解すると適当に作業着で拭い、改めて自分の手を見る。
「伊達な姿になったじゃない。立派に〈呪い〉を喰らってるわねぇ、不死衛門」
「こりゃ予想外だねぇ……げぇっほげほっ。おうぇっ……」
血反吐を垂らしつつ彼は何げなく天を見上げた。
「ありゃ……いつからこうも内部は錆びていたかな……」
それは浸食されたような景色だった。
煌びやかな内装はいつの間にか錆に覆われ、橙の色を強く放っていた灯りは真紅の色合いに変化していた。
床を見れば彼の血反吐とはまた別に鮮血が這いずったような跡で汚れていて、次いで四方の壁を見ると血の手形のようなものが同じように
「不死衛門。この音、聞こえる?」
「ん……そうだね、先より近い」
壁に
その言葉に顔をあげた彼は先程注視していた闇の先から響く音に意識を向けた。
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