一 四階で御座います

其の一


 大正の帝都は変革の時期だった。

 多くの人でごった返し大衆は文化に湧いた。

 着る物も洋装ようそうが普及しデパートが乱立し、銀座では令嬢れいじょう令息れいそくがアイスクリームに舌鼓を打つ。


 時代は娯楽に溢れていた。

 音楽に読み物に食事に煙草と、多くの人々がそれぞれを手に取り趣味嗜好を共有し、または拡散した時代でもあった。


「さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい、怪奇とは正しくこの我よ! 我を見逃しちゃあ帝都に赴いた意味もない!」


 とある通りには人の垣根が出来ていた。

 大道芸だとか見世物が流行った〈奇妙通り〉と呼ばれる場所で、明治の頃から邏卒らそつ――警察――までもが眉をひそめ素通りするこの通りには奇々怪々ききかいかい珍妙奇天烈ちんみょうきてれつの様々が各国から集まった。


 時代の闇の見本市でもあった。

 語るもはばかられるような悪辣あくらつの限りだったとも伝わるが、それも大正の時代になると治安の見直しの為か闇の市や奇怪な見世物は数も減る。


 それでも未だ〈奇妙通り〉と呼ばれるのは、無論のこと先の名残も由来するが、大衆が求める普通では得られない刺激だとか、凡そ自身の能力では成し得ない奇跡や、或いは術だとか芸がこの場では暗黙の下に許されているからだった。


刮目かつもくされたし、刮目されたし! 我をば見給え! 我こそは死なずの男、不死身の不死衛門とは我のことでありますぞ!」


 長身痩躯ちょうしんそうくの男がある。どうやら芸人のようだったが、彼の周囲は賑々にぎにぎしく人で溢れ、路上で死装束を纏う男に皆は注目していた。

 男の顔は青褪めていて体調不良の為か鼻水を垂れ、小さく咳を繰り返している。


「おいおい兄ちゃん、大丈夫なのかい!」

「今にも死にそうじゃねえのさ! そんなんでよもやの割腹かっぷくだなんて出来るのかい?」

「なんだったらオイラが代わりに腹をしちゃるど!」

「ちょいとあんたら、黙ってやりなよ! そうもいっちゃ悪いだろうに!」


 傍にある立札には〈死なずの男の切腹ショウ〉と書いてある。

 妙に達筆なのは他所に、兎角として皆は信じ難い奇跡を見ようと期待に胸を膨らませていた。


 しかし当の本人といえば勇ましい言葉だとか装いに対して今にも死にそうな風体で「果たしてこの様子で芸を成し遂げられるのか」と期待は不安に変わる。


「まあまあ、そうもいいなさんな皆様方! そりゃこの不死衛門は不健康のその物で、とても腹を切るだけの余力などありゃせんと思うでしょうがな、しかしそうも未熟な芸人じゃあない! さぁさこちらの御刀をばご覧あれ!」


 男、不死衛門は手元にあった短刀を手に取り、鞘から勢いよく引き抜いた。

 その刃の異様さには誰もが息を呑み「何たる妖しき輝きだろうか」と目を見張る。


「これこそは天下の徳川が恐れた妖刀村正が短刀! 曰くは家康公の身にかかった不幸の全ては村正が由来するという、つまりこの村正こそは我のような恥も知らぬ下賤が如き輩を斬るに相応しいのであります!」


 口上を叫びつつ合間に入る咳を聞いて人々は顔をしかめる。

 大それた業物は別にしても、やはり勢いだけの詐欺じみた芸になる結末しか予想できなかった。


 例えばあの村正なる妖刀とやらは突き刺さると同時に刃が引っ込み、仕込まれた血糊が派手に吹き出すのだろうと結論した。


 または、そもそもはナマクラであり、男が如何に刃を突き立てようとも意味を成すこともなく、オチとしては切れない刃物では割腹も儘ならぬといった下らない程度だろうとも思った。


 自称村正の放つ妖しい輝きばかりは疑いようがなかったが、不死衛門という男の胡散臭さが何もかもを台無しにしていた。


「なあ不死衛門とやら、その短刀触らしちゃくんねーかい? 刃ぁついてんのか?」

「仕掛けもあるかもだしな、誰かしらに確認さしてくれよ、なぁ」


 いぶかしむ人々の冷やかしの言葉だったが、対して不死衛門は困り顔で頬をかいた。


「そりゃなりませんよ旦那方、何せこれは妖刀でありますが故、もし間違ってこの刃が旦那方を斬り殺しちゃ堪ったもんじゃあない!」

「おーおー、逃げの手もちゃんと用意してる辺りが立派だよ、アンちゃん」

「呆れが礼にくるわいな。いいさ、どうせ大したオチにゃならんのだろう、然らばその無様を見届けてやろうか」


 そのやり取りを見て大衆は笑う。

 お題目は切腹とあれば自然と緊張感があったが、それが緩和すると不死衛門も頭をかいて笑った。


「ではでは、いざ見られませい皆々様! 我の不死の様をばとっくりとぉ!」


 彼は躊躇もせず勢いに任せたように刃を突き立てた。

 それは水に満たされた革袋に切っ先の鋭い刃が突き刺さったような音で、人々の鼻腔びこうに押し入ってきたのは鉄の香りだった。


 複数の悲鳴が上がる。

 皆の注目する先に妖刀村正を腹部に突き刺す不死衛門の姿がある。


「やりやがった!」

「なんちゅー阿呆な真似を!」

「いやいや、ありゃ嘘っぱちさね。見ねい、顔を。あれがこれから死ぬ人間の表情かね」

「おっかさぁ! あのアンちゃん本当にやったよ!」

「こりゃ大変だわ、急いで警察に……!」


〈奇妙通り〉に騒ぎが生まれる。

 誰が見ても彼の腹部には間違いなく刃が突き刺さっていて、当の本人は刃を震える手で握りしめたままで、目は耐え難い苦痛により見開かれ血走っていた。


 腹部と口から鮮血が垂れる。

 着込んだ死装束が不死衛門の震えにより皺を作り、その様々を見て人々は「本物の割腹とはこの様子をいうのだ」と本能で理解した。


 いよいよ騒ぎが大きくなり、女子供が慌てて駆けていこうとすると、そんな丁度のタイミングにくぐもった笑い声が響いた。


「ふーっふっふっふ……そうも騒ぎなさんな、皆様方……」


 笑い声と共に漏れ出すのは先まで皆が聞いていた不死衛門の声だった。

 仰天のままに皆は彼に注目し、今も未だ腹に短刀を突き刺したままの彼に駆け寄ると、彼の青褪めた顔には満開の笑みが浮かんでいた。


「これぞ我が不死足る妙……! 如何に妖刀村正といえどこの不死衛門には必殺必死ひっさつひっしの〈呪い〉すらも効かんのです!」


 不死衛門は立ち上がり、突き刺さったままの刃を誇示するかのように見せびらかす。

 溢れる血の香りも、先に響いた刺突しとつの音も、全てが真実に思えるのに、しかし皆は彼が生存しているが故に先の土壇場は芸や術であると理解した。


 そうなると自然と安堵の息が漏れて、あの並々ならぬ臨場感と、正しく土壇場とはくありと思わせた不死衛門の尋常ならざる気迫にこそ皆は感嘆し、大きな喝采が生まれた。


「いやお見事、お見事! すげえもんを見せてもらったぜ、不死衛門!」

「その血の色合いなんざ本物にしか見えないのに、いやぁたまげた!」

「えー、何で生きてるの? 不思議だわ、凄い芸人さんだわねぇ……」

「流石は〈奇妙通り〉の不死衛門さんだね、いや何度見ても圧倒されるよ」


 彼、不死衛門はこの芸で人気を博した。

 曰くは〈奇妙通り〉の名物とまで呼ばれていた。


 その日、初めて彼を見た人々は倫理の外にある刺激を強く感じ、或いは彼を以前から知る人々もまた、へその奥がうねる火炎のような刺激に満たされた。


 大喝采の中、寄越される小銭を受け取りつつ、この日の興業は大盛況のままに終わった。


「毎度よくやるわね、あなたも」

「あれ、鶴の嬢……」


 暫く熱狂は続いたが半刻も過ぎれば人の波も失せ、不死衛門は今日の稼ぎを簡単に計算する。

 そうしていると馴染みの声がして、彼は相変わらず青褪めた顔のままに見上げると、やはりそこには見知った顔があった。


「珍しいね、君が〈奇妙通り〉にくるだなんて」

「少しばかり暇があったから散歩というやつよ。そうしていたら馴染みの男が毎度のように阿呆な芸で儲けているから、これはよしとたかりにきたってのよさ」

「ああ、乞食かい……」

「失敬な、こぉんな別嬪なレディを乞食扱いするだなんて」

「別嬪? 奇怪のそのものだろうに。今日も今日とて派手な洋装だなぁ、なんだいそりゃ」


 西洋文化が浸透する帝都とはいえ染髪せんぱつする人物というのは珍しく、鶴の嬢の金色の髪といえば正に黄金を溶かしたような美しさと気品がある。


 緩く束ねられた御髪おぐしもまた妖艶で、何よりとして漆黒のワンピースに真紅のショール、更に底の高い編上靴へんじょうかまで履きこむと、いよいよ西洋かぶれの見本のようだった。


「おしゃまと呼んで欲しいわね。これこそモガってやつなのだわ」

「だったら帽子をせずにモガは名乗れんだろう、君はいつも一つどこかしらが欠けているなぁ……まぁその肩掛けばかりはいい趣味だけど」

「あら、未だ和装に拘る性格の割に見る目はあるのね」

「そりゃね、好きだからこそ服に拘るのがおしゃまって奴さ」


 死装束の姿から不死衛門は浴衣に羽織りという格好に変わっていた。

 羽織り紐もなく、雪駄は履けども足袋はなく、何とも浪々ろうろうの風体だと鶴の嬢は思う。


襦袢じゅばんくらい下に着ればいいでしょうに。夜も更ければ寒くなるわよ」

「今は午後の温かな陽気だろう、そこまで着込む必要もないよ」

「あなたもどこかしら欠けているわねぇ……まあいいわ。それで、今日の儲けは?」

「本気でたかりにきたのかい……」

「まあいいじゃないの、こんな別嬪に奢るというのも男冥利に尽きるというものでしょ?」

「なんとも阿呆臭い台詞もあったもんじゃないね……いいさ、それで、何が食べたいんだい」

「そうねぇ、喫茶店でお茶にアイスクリームも魅力的だけど、どうにも空腹なのだわ」

「んじゃ洋食屋にでも行こうか。そうだなぁ、〈カレー〉……あぁいや、〈ライスカレー〉にするかい? それとも最近流行りのオムライスとかよいんじゃないかい」

「珍しく素敵な提案ね。そうね、それじゃオムライスでいいわ」

「なんとも偉そうに。世の婦女子の皆々様方に教えを乞うといいよ」

「あら、三つ指突くだの後ろを歩けだの、淑やかにしろって? それこそ阿呆のザマだわよ。風を切って歩くぐらいが丁度いいのよ、モガってのはね」

「流石は時代の最先端って? はいはい、んじゃ参りましょうかね……」


 喧々けんけんと憎まれ口を叩きあいつつ不死衛門と鶴の嬢は帝都の街を歩く。


 一見して珍妙な組み合わせだった。

 片や一間一尺に迫る大男の隣には西洋人形のような乙女がある。

 二人の背の差は頭が三つも四つも入るだろうに、それでも歩幅は同じだった。


「しかし臭いわね」

「あん? 何がだい?」

「血の臭気よ」

「いやいや、それが僕の芸であるからして致し方ないだろうに」

「あなたの身体をいっているのではないわよ。そっちよ、そっち」

「そっちってーと……ああ、こいつかい」


 歩きながら不死衛門は懐を漁る。

 手に持っていたのは芸の際に使用していた妖刀村正なる短刀だった。

 寄越された鶴の嬢は当たり前のように抜こうとするが、それを不死衛門が制する。


「勘弁してくれ、流石に往来で抜くのは洒落にならないよ」

「別にこれを振り回そうって訳じゃないわよ。何よ一々、神経質な男だわね」

「いや普通の感性を持ってくれるかい。ただでさえ君と歩くと注目されるのに、そんな最中に刃を解き放とうだなんて沙汰の外だろう」

「ふん、実に面倒臭い奴だわね。往々の人々もよ。何を以て凶器とするのやら……それこそ日本人の魂でしょう、それを持つことの何が可笑しいのやら」

「そもそも先の時代には廃刀令があったろう。今時に剣をいている人物なんて数少ないし即座に捕まっているよ、普通はね」

「阿呆らしい……」


 世知辛い世だと鶴の嬢は呟く。

 対して不死衛門は肩を竦めたが、そんなやり取りの最中に二人は目的の洋食屋に到着した。

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