何故、不死衛門は〈死〉を求めるのか
タチバナ シズカ
開幕
プロローグ
「同物同治というやつかしらね、あなたのそれは」
「どうぶつどうち?」
乙女は窓辺から夜の月を見上げていた。
深い夜空に浮かぶ輝きに目を細めつつ、桃色の唇で言葉を紡ぐ。
「
「ふーん……げぇっほげほっ」
強く眩い月光が乙女の顔を照らす。
長い金色の髪は束ねられている。
着飾るのは闇に同化するような漆黒のブラウスとスカートで、大正の時代には珍しい姿だった。
乙女は夜の闇に金髪を靡かせて、咳と呻きのする背後へと振り返った。
「けれども考えは答えではないのよ。当たり前だけどね。例えば心の臓に病があったとして、では鳥や豚や牛の臓腑を食べれば治るかといえば、そりゃ答えは否よね」
「一つの哲学ってことかな」
「まあそんなところかしら。哲学であり、生きる術かしらね。信仰に等しいものなのかも」
「ふぅん……げほっ、ごほごほっ……うぅん、しかし不味い……ああ、不味い不味い……」
男がある。乙女の見つめる先、暗がりの部屋の中、蹲って咳と呻きを繰り返し、何かを口に入れては
乙女の
それは室内を覆う噎せ返る程の異臭をはらう為だったが意味はなく、
「まあつまり、普通に考えてのお話しだわよ。例えば嗜好や習慣としてそういったものを喰らうというのは分かるのだわ。一応の道理も理解できるしね。ところで
「ナマス? ああ、分かるよ。和え物だよね」
「否、否。それとは違う、清の古い時代に食されたとかっていう珍味よ」
「珍味かい? それってのは……」
「人の細切れよ。薄切りともいえるかしらね」
「……なんとも食欲の失せる話しだなぁ。おげぇっ」
「いや吐きながらいわないで、いいからちゃんと食べる。んでお聞きなさいな」
粘性を伴う音が男の
異臭が尚更酷くなると乙女は窓を開け放ち外の空気に触れた。
季節は不明だったが夜の空気は凛と冴えていて、賑やかな帝都も丑三つ時となると人の声もなく、寂しく灯りが点在する程度だった。
「所謂は
「それってのは噂の程度だろう?」
「まあね。でも人食の歴史ってのは偉人も名が載る程、根強い関係があるのよ。しかも事細かく調理法やらも残されているの。つまりね、人は人を食べるのよ。それって共食いなんだけど、野生動物とは違って人類は同じ人類を食べるにせよ食材の扱いと考えるのだわ」
「食材ってねぇ、君……げほぉっ」
「何せ
「よし分かった。取りあえずだ、君という奴はだ、友人が食事をしている最中でも無遠慮に、しかも無神経に気持ちの悪い話しをする最悪な奴だという訳だね」
「いやいや、あのねぇ、この状況こそは正しくそれその物なのよ――
部屋の中央に蹲り、何かを貪る男は顔を上げた。
男の顔も手足も、身に纏う衣服も鮮血に染まっていた。
その姿と男の手の中にある塊を見つめながら、乙女は呆れたままの表情で身を屈め、男の顔を真っ直ぐに見つめる。
「それ、美味しい?」
「いーや、まったくもって糞不味い。妙にぬるぬるしているし、何より臭気が最悪だよ。しかしよくもまぁこんなのが人の世に平然と存在するもんだと感心してしまうよねぇ」
「
「お互い様じゃあないかな」
「どうだかね、少なくともあたしに悪食の
「悪食……しかしまあ仕方のないことだよ」
「そうかしらね。短絡的な、それこそ野生の動物が如き
蹲り何かしらを貪る男の腕の中には何かがある。
その何かというのはきっと、普通の存在ではなかった。
それはそもそも食材のような扱いでもなく、更に掘り下げるのならば人の世にあってよい存在でもなかった。
けれども、人の世にあってはならない筈なのに、部分部分には確かな造形があった。
或いは、それは人の身体でいうところの腕だった。脚だった。
頭蓋があり、
溢れる臭気は血の気を帯びていて、噎せる程の悪臭に乙女はうんざりした顔だった。
そんな、元は人の造形をしていた肉塊を男は喰らっていた。
滴る血や組織液を啜り、臓腑を頬張り、肉に噛り付く。
その度に男は顔を顰め、嘔吐くのに、必死になって内容を口に含み飲み込んでいた。
「でもね、やっぱりダメだなぁ……げぷぅっ、御馳走様。結局……僕は不死衛門のままかぁ」
「今夜もダメだったわね。まあ期待もしていなかったけど」
「しかし君も物好きだよね。悪食だの獣だのと蔑んでおきながら楽しんでいるだろう?」
「何を?」
「僕を」
「何せ腐れ縁だもの」
「まあそうかもだけど……」
「或いは、そう……或いはよ、不死衛門」
「ん? 何だい?」
全身を真っ赤に染め上げたまま男は立ち上がる。
高い背丈で二メートルに迫る長身だった。
しかし異様な様子といえば
体調不良によるものか鼻水を垂らし咳を繰り返している。
深い猫背で乙女を見下ろし、細い瞳で乙女と見つめあっていた。
「あたしは見てみたいのよ。不死衛門が不死衛門じゃなくなるその時をね」
「……それもまた腐れ縁が故かい?」
「かもね。何せお互い、普通じゃないもの」
「ああ、まあ、そうだね……しかしねえ、君――
「何よ」
さて、乙女の手の内には刃物があった。短刀だった。
刃は鮮血に塗れていて、乙女の顔や身体も同じく真っ赤に染まり上がっていた。
その様子にこそ不死衛門と呼ばれた男は呆れ返り、蔑みを帯びた声でこういった。
「何もこうも酷く斬り殺すことはないだろうに……殺意が強すぎやしないかい」
「いやだって仕方ないじゃないのよ、あたしは悪くないのだわ。今し方あなたが喰い散らかしたその糞が悪くってね」
「そりゃ今更君の悪癖をどうこういったところで遅いけどね。だからといってそれを処理する側からすればだ、何も臓腑まで膾が如くに細切れにされちゃあ食べ辛いったらないよ」
「うるっさいわねえ、いいじゃないのよ、別に」
「よかぁないよ、まったく……」
男と女は血塗れのままに隣り合って鮮血に染まった部屋を背にする。
程なくして二人の影は消え去り、部屋の中央には
しかし月の光が増し、その輝きが室内を照らし、肉塊をも照らすと、室内からは血の痕跡すらも、残骸すらもが姿を消した。
ただただ異臭のみが漂い、満月の夜の狂気は人知れずに幕を下ろした。
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