第8話 思い出したくもない

 クラウスとの結婚をした理由には、リーケル卿とのこともあった。


(結婚すれば、オルローブ家との人間と縁が切れるかもしれない。リーケル卿とも……)


 さすがにルーチェが既婚者ともなれば、あの呼び出しや嫌な噂を広めるだなんてこと、してこないだろうと思ったのに。



「……というわけで、私はこの女に、縁談を潰されたのです」


 ルーチェの目の前で、リーケル卿はクラウスに向かって話し続けていた。そのほとんどは、事実を誇張した作り話だった。恥をかかされたから、姉にはもう求婚できないとリーケル卿は嘆き続けている。


 紅茶のカップを置いたクラウスが、ため息を吐いてから口を開いた。


「ルーチェ、この男は親しい友人ではない、ということで合っているね」

「おい、だからこの女は」


「私はいま、妻と話をしている。邪魔をしないでもらおうか」


 普段ルーチェと話をしている時のような、甘く優しいクラウスの顔はなかった。冷たいと感じる印象そのままに、リーケル卿を睨みつけている。

 圧倒されたリーケル卿がわずかにたじろぐと、クラウスはルーチェの方を向いた。その顔はいつもの優しいもので、あまりの変わりようにルーチェは驚いてしまう。


「それでルーチェ、彼は友人ではないのだね」

「……え、ええ」

「どういった経緯で知り合った、聞いてもよいかい?」

「……それは」

「おい、今話したばか……ひっ」

 口を挟んできたリーケル卿の襟首をつかむと、クラウスは強引に近くの椅子へと座らせた。

「邪魔をするなと、言っただろう。もっとわかりやすく言おうか? ……

「……っ」

「ルーチェ、あなたの口から話してもらっても?」

「あの、私の姉のカサンドラに結婚の申し込みをした方です」

「なるほど、それなのにどうして、こんなふうに絡んでくるんだい?」

「それは……」

 ルーチェはどうすべきか迷った。本当のことを話して、クラウスは信じてくれるのだろうか。ルーチェを嘘吐きだと、恥知らずの娘だと言わないだろうか。


(どうせ、誰かに話したって。の話など信じてもらえないもの)


 父はルーチェが悪いと言い募るばかりで、どうして誤解が生じたのかを究明しようともしなかった。

 家族の誰もが、ルーチェのことを馬鹿な娘だと詰った。勘違いも甚だしいと。


 けれどもクラウスは、ルーチェにその顛末を尋ねたのだ。


 もし信じてもらえなかったら、クラウスに嘲笑されたりしたらどうしようと、ルーチェは不安になる。


 いっそリーケル卿の言っている通りだと言って、我慢した方がよいのではという考えが、頭を掠めた。そっちの方が、声を出すよりもはるかに傷付かない気がしたのだ。


(いいえ、そんなことないわ。人から気に入られようと我慢しても、好きになんてなってもらえなかったもの)


 家族の誰からも気に掛けてもらえない。その事実を思い出して、ルーチェの胸は痛んだ。この胸の痛みが増えたって、大したことではないとルーチェは思い込もうとした。



「あなたが聡明な人だというのは、きちんと理解している。だから、リーケル卿の求婚を勘違いしたとは思えない。オルローブ伯爵に、求婚を受けたのは本当に自分なのか尋ねたのでは?」



 クラウスに促されるようにして、ルーチェは話し始めた。求婚があった時、確かに喜びで舞い上がったけれど、不安もあった。


「……ええ、そうよ。父に、本当に私なのかって聞いたわ。そしたら父は、教会のバザーが開かれた時に、子供の世話をしていた娘を指名したと教えられたの」


 クラウスは教会のバザーと聞いて、相変わらず優しいんだなと呟いた。ルーチェはただ、姉のボランティア活動に付き合わされただけだった。


(そんな目で見ないでほしいわ。私は、優しくもなんともないのに)


 居た堪れなくなったルーチェは、クラウスから目を逸らしながら話を続けた。

「バザーには姉も参加していたから、間違いじゃないかしらって。でも相手は、緑色のドレスを着ていた娘だというから間違いないって、父が興奮気味に話していて」


 あとで聞いた話だが、父はリーケル卿から事業に資金提供するという話を持ちかけられていたそうだ。父は娘の相手について、間違いがないように確認するよりも、事業の方に夢中だったようだ。


「お姉さんはその日、緑色のドレスは着ていなかった?」

「ええ、赤いドレスを着ていたわ。……でも、バザーの催し物に参加して、黄色に近い明るい緑色の外套を羽織って子供達と踊ったの」


(姉さんは派手なことが好きだから)


「相変わらずのだな」


 クラウスの言葉に、ルーチェは驚いだ。まるで姉の性格を見知っているかのようだ。でもそういえば、出会った時からクラウスは、ルーチェの姉も妹のことも知っていると言っていた。

 だから絶対に、間違えたりしないと。


(……本当に、私を姉や妹と間違えていないのかしら)


 クラウスの言葉に信憑性が増したような気がした。



「リーケル卿は、その時にお姉さんを見かけたのだな。名前は聞かなかったのか?」



 不意に話を向けられて、リーケル卿は驚いた様子で口籠もっていた。クラウスは呆れた様子で、聞けなかったのかと吐き捨てる。


「これではっきりしたな。ルーチェは何も悪くはない。あなたが勝手に勘違いをして、確認を怠っただけではないか。確かに、オルローブ伯爵も悪いかもしれないが。これは不幸な事件であって、ルーチェ一人が責められることではない」


 そんなこと初めて言われたと、ルーチェは驚いた。家族の誰もが、ルーチェが悪いのだと責めたのだから。



「これ以上、私の妻を侮辱して付き纏うのはやめてもらいたい」



「……妻? まさか、この女と結婚したのか!?」

 椅子から立ち上がったリーケル卿が、ルーチェを指差した。が、その指先を、クラウスが握り潰すかのように掴んだ。

「いっ……、うぅ」

「人の妻をこの女呼ばわりした上に、こんな失礼な態度を取るのが、この国のマナーなのか?」

 ルーチェに向ける顔とはまったく違う。眼光鋭くリーケル卿を睨みつけているクラウスは、そのまま指を反対方向へとへし折りかねない勢いだった。

「く、クラウス」

「ああ、ごめんねルーチェ。もうひとつ聞いていいかな。この男とは、顔合わせの時に一度会っただけかい?」

 クラウスの問いに、ルーチェはどう答えるべきか迷った。けれども、ここまで話したのなら、全て言ってしまった方がよいだろう。


「……姉への求婚を邪魔をしたのだから謝罪しろと呼び出されることがあって、何度か会ったわ」

「おい、嘘をつくな! 私は呼び出しなどしていない。お前が私に縋っているんだろう……!」

「そんなこと、あり得ないわ!!」

 リーケル卿の言葉を、とうとう我慢ができなくなったルーチェは遮った。今までは、父に我慢をしなさいと言われて、ルーチェは大人しく従ってきた。


(それが家族のためになるからって。……言うことを聞いていれば、家族は私のことを愛してくれるかもって思ったのよ)


 でもいまは違う。

 クラウスはルーチェの言葉を聞き、そして信じてくれた。ならもう、黙って耐えるだけでは駄目だ。だってここでルーチェがリーケル卿の話を肯定したら、クラウスが笑い者にされてしまう。


 ルーチェが反論するとは思っていなかったらしい。リーケル卿は苛立った様子で立ちあがろうとした。



「なるほど」


 クラウスの静かな声が響く。ルーチェが視線を向けると、クラウスは目細めて笑顔を浮かべている。


「……クラウス?」


「ああ、よかった。つまりコイツは、あなたに絡んできた鬱陶しいってことだ」

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