第3話 境界線を試されるレッスン

翌朝、キャロラインはスタジオに向かう前に、カフェで熱いコーヒーを啜っていた。外の通りでは忙しなく人々が行き交い、冬の冷たい空気がガラス越しに感じられる。


しかし、彼女の視線は虚空を彷徨っていた。


「踊りに魂を込めろ……彼はそう言った。でも、どうやって?」


コーヒーカップを持つ指先が震えているのに気づいた。震えているのは寒さのせいだけではない。ルカが近づいたときのあの感覚、彼の言葉が自分の内側に残した熱。それが未だに彼女の心と体を支配していた。


彼の手が肩に触れたときの感覚、腰を支えたときの圧力。その全てが鮮明すぎて、彼女の頭を離れない。自分がこれほどまでに揺さぶられることに、キャロラインは戸惑いを隠せなかった。


「彼はただの振付師。私は踊ることに集中すべきなのに……」

そう自分に言い聞かせても、彼女の思考はまるで迷路に迷い込んだようだった。


スタジオに到着して間もなく、キャロラインはルカからのメッセージを受け取った。

「今すぐ私のオフィスに来てほしい。」


メッセージは短く、簡潔だったが、その内容は彼女の胸をざわつかせた。なぜ呼び出されたのか、何を話すつもりなのか――そのすべてが彼女の心を混乱させた。


スタジオ棟の3階にあるルカのオフィスは、廊下の端に位置していた。木製の重厚な扉の前に立つと、心臓の鼓動がますます大きくなる。


ノックする手が震えた。返事があり、彼女がドアを開けると、ルカがデスクに座り、何か書類を読み込んでいるのが見えた。


「キャロライン、入れ。」

彼の声はいつも通り低く、穏やかだったが、何か秘められた意図が感じられる。


オフィスの中は広く、壁には様々なバレエ公演のポスターが飾られていた。窓から差し込む光が彼のデスクを照らし、ルカのシャツの襟元が微かに開いているのが目に入った。


「何か問題でも?」キャロラインは緊張を隠しながら尋ねた。


ルカは書類を机に置き、彼女をまっすぐ見つめた。

「君の踊りに対して、もう少し踏み込んだ指導が必要だと感じた。特別に、個別指導を提案したい。」


その言葉に、キャロラインは驚きと戸惑いを隠せなかった。彼女の中で喜びと不安が同時に湧き上がる。


「個別指導……ですか?」


「そうだ。君には特別な何かがある。それを引き出すためには、もっと深く君自身を知る必要がある。」

彼の声には、彼女を見透かすような確信があった。


彼が立ち上がり、キャロラインに近づくと、彼女は息を呑んだ。彼の存在感が圧倒的だった。


「どうだ?やる気はあるか?」

彼の視線が彼女を捕らえ、逃げ場を失わせる。


「……はい。」キャロラインは小さく答えた。


その日の午後、二人だけのスタジオで個別指導が始まった。


スタジオには静寂が漂い、音楽はまだ流されていない。ルカは彼女のすぐそばに立ち、動きを指示する。彼の指導は驚くほど厳密で、細かい部分まで徹底的に修正を加えていく。


「体の重心をもっと感じろ。ほら、ここだ。」

彼の手が彼女の腹部に触れ、その動きを軽く誘導する。触れる力はごくわずかだが、その感覚はキャロラインの意識を完全に支配した。


彼女は動きに集中しようとするが、彼の声が耳元で響くたび、体が熱を帯びる。

「動きを滑らかに。自分を信じて、全てを解放しろ。」


彼の言葉の裏に何か別の意味があるのではないかと感じつつも、彼女は指示に従い続けた。そしてその瞬間、彼が彼女の背中に手を添え、さらに深い感覚を引き出すように導く。


彼の手が滑らかに動くたび、キャロラインの中で何かが崩れ落ち、同時に新しい感覚が芽生えた。

「これが踊ることの意味……?」


二人のレッスンが佳境に入ったその時、遠くから微かな物音が聞こえた。


キャロラインが振り返ると、スタジオの外に人影が見えた気がした。誰かが見ていたのだろうか?


「気にするな。」ルカが軽く笑いながら言った。

しかし彼の声には、わずかな警戒心が混じっていた。


その日の夜、キャロラインはシャワーを浴びながら、スタジオでの出来事を反芻していた。湯気が浴室を満たし、熱い水が肌を滑るたび、彼の手の感触が脳裏に蘇る。


「なぜ、あんなにも彼に引き込まれるのだろう……」


ルカとの距離が近づくたび、自分の中にある新しい感情が芽生え、それが危険な香りを纏っていることを感じていた。


シャワーを終え、鏡に映る自分の裸の姿を見つめる。肌に残る熱が彼のものなのか、それとも自分自身のものなのか、もう分からなかった。


「私は……どうなるの?」

呟いたその声は、湿った空間に溶けていった。

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