第2話 禁断のステップ
スタジオの朝は、いつも特別な静けさに包まれていた。まだ日が昇りきらない時間帯に訪れるこの場所は、昼間の喧騒とはまるで別の空間のようだ。ガラス窓から差し込む柔らかな朝の光が、床の木目を金色に染めている。
キャロラインはその空間に一人立ち、ゆっくりとトウシューズを履いた。スタジオの冷たい空気が肌に心地よく触れるたび、彼女は自分の呼吸を意識する。昨日のルカの言葉がまだ頭を離れなかった。
「君には炎がある。その炎を恐れるな。」
「炎……?」彼女は小さく呟きながら、鏡の前に立った。その言葉の意味を完全に理解しているわけではなかったが、胸の奥に奇妙な熱がくすぶっているのを感じた。
ポジションを取って動きを始める。足を引き上げ、腕を優雅に伸ばすたび、昨日よりも体が軽くなった気がした。しかし同時に、あのとき彼の指先が腰や肩に触れた感覚が蘇る。あの熱、そしてあの視線。
「ダメ、集中しなくちゃ……」
彼女は自分を叱咤しながら動きを続けた。しかし、胸の鼓動が徐々に速くなるのを抑えることはできなかった。
音楽が止まり、スタジオの扉が再び開いた。その音はキャロラインの心臓を一瞬で締めつけた。振り返ると、ルカがそこに立っていた。黒いシャツに深いグレーのパンツというシンプルな服装だったが、彼の姿は異様なほどスタジオの空間に溶け込んでいるように見えた。
「早いな。」
彼の声は低く、しっとりとした響きがあり、まるで彼の言葉そのものが肌を撫でていくようだった。
キャロラインは咄嗟に微笑み、「昨日のアドバイスを試したくて……」と答えた。しかし、その声にはどこか自分でも気づいていない緊張感が含まれていた。
ルカは微笑を浮かべながらスタジオに入ると、彼女の目をじっと見つめた。その目は単なる指導者のものではなく、どこか彼女自身を試すかのような深さがあった。
「見せてくれ、昨日の成果を。」
その言葉にキャロラインは大きく息を吸い、動きを再現し始めた。しかし、彼の視線を意識するたびに、動きがぎこちなくなりそうになる。
「止まれ。」彼の声が冷たく響いた。
彼女はハッとして動きを止めると、ルカがゆっくりと近づいてきた。
ルカは彼女の肩に手を置き、静かに言った。「君の動きは悪くない。でも、まだ自分を解放していない。」
彼の手は驚くほど軽やかだったが、その指先からは不思議な力を感じた。彼の手が彼女の肩を通り、背中のラインをなぞるたび、キャロラインは息を詰めるしかなかった。
「もっとだ。君自身を出さなければ、観客に響かない。」
彼はそう言いながら、彼女の腰に手を回し、ほんの少しだけ引き上げる動作を指示した。
キャロラインの体は自分の意志とは関係なく反応し、動きが流れるように自然になった。それを見たルカは満足げに微笑みながら、さらに彼女の手を取り、踊りの動作を導いていった。
「感じるか?」
彼の声が低く囁かれるたび、キャロラインの体はまるで彼の言葉に支配されているようだった。
二人が音楽に合わせて踊り始めた瞬間、キャロラインはまるで自分が新しい世界に足を踏み入れたかのように感じた。ルカの体の動きが彼女を導き、彼の手が触れるたびに、そこから熱が広がっていく。
「踊りはこんなにも生々しいものだったの?」
彼の手が彼女の背中を滑り、彼女の顔が彼の胸元に触れそうになる。その瞬間、彼はふいに立ち止まり、彼女の顔を間近で見つめた。
「キャロライン、踊りは身体だけじゃない。魂を込めろ。」
彼の言葉に、キャロラインは胸の奥で何かが弾ける感覚を覚えた。
スタジオの空気が最高潮に達したその時、扉が突然開いた。
「まあ、熱心ね。」
クララの冷ややかな声が響く。彼女はスタジオの入口で腕を組み、皮肉たっぷりの笑みを浮かべていた。
キャロラインは慌ててルカから離れたが、クララの視線はすでに二人の間に何かがあることを確信しているようだった。
「主役の指導には特別な熱意が必要なのね。」
クララの言葉には、明らかな嫉妬と挑発が込められていた。
ルカは表情を崩さず、「クララ、時間を間違えたのか?」と冷たく返す。
「いいえ。ただ少し早く来ただけ。練習熱心なのは良いことだと思ったのよ。」
クララはその言葉を残して去っていったが、その背中には計算高い冷酷さが漂っていた。
その夜、キャロラインはベッドで眠れずにいた。クララの言葉とあの視線が頭をよぎり、同時にルカの手が触れた感覚が体中に残っているような気がしてならなかった。
ベッドの上でシーツを握りしめるたび、彼の低い声が耳元で囁くのを思い出す。彼の指が触れたときの熱、踊りの中で感じた不思議な一体感。
「私は何をしているの?」
キャロラインは星空を見上げながら呟いた。しかし、その問いに答えられるものはどこにもいなかった。
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