1話③

一成が去ってから、ふと教室にかけられている時計を眺める。

あいつと喋っていたら30分ほど時間が経って、気がつけば教室にはほとんど人が残っていなかった。

窓際で後ろの角の席に座っている玲奈と話していた女の子達もちょうど今帰ったところだった。

オレは教室を見渡す。どうやら残っているのはオレと玲奈だけだった。

いつものように窓の外を眺めていた玲奈が、オレの視線に気付いたのかこちらの方を振り向いた。

玲奈と視線が合う。

じっとこちらを見つめる玲奈。

美人な玲奈は、目も大きい。

こうやって対面すると改めてよくわかる。

遠くから眺めているより、目の前の玲奈はずっと綺麗に思えた。

近距離のほうが精神的に受けるダメージがよりデカい気がする。

おそらくきっと、幼少期には何度も今以上に近い距離で直視したであろう瞳。

その目力に圧倒されたのか、蛇に睨まれた蛙のようになってしまう。

でもその目は冷めているわけでもオレを責めるわけでもなく、大きな瞳でただ見つめるだけだった。

ピクッと玲奈の肩が揺れた気がする。

何か言わないと気まずくて仕方がないと思った。

時間にすればたった数秒の間だったが、なんとかしてこの気まずい沈黙を打ち崩したかった。

「あ、あの・・・。そ、卒業おめでとう・・・藤島・・・」

一成などの友達に「よう」って気軽に挨拶する感じで軽く手を挙げた。

「うん、ありがとう。御上くんも、おめでとう」

「おう」

そういえば疎遠になってから、いつの間にか下の名前じゃなくて苗字で呼ばれるようになったんだっけか。

思い出すとちょっと悲しい気持ちになってきた。

だ、ダメだ。

コミュ障のオレでは、ここからどうやって会話を繋げれば良いかわかんねぇ。

一成とか男友達と喋るのだったら別に問題ないのだが、普段喋らない女子、しかも学校で一番美人の藤島玲奈と話すなんてオレにとっては全く慣れてないイベントであった。

女子に話しかけられるのも話しかけるのもさほど難しいことではないが(一成ほど軽いノリで対応できるわけでもないが)、玲奈だけは別枠なのかもしれない。

緊張してるが故の武者震いみたいに身体が小刻みに震えてる気さえしてきた。

玲奈は机の上で教科書類をトントンと整理しながらカバンにしまっている。

机の中にしまいっぱなしにしていた教科書を持って帰るための準備だろう。

このままではカバンを閉じて、席を立って玲奈が帰ってしまう。

なんとかしてそれを防ぎたい、あるいはできるだけ遅らせたい。

いつの間にかそう考えるようになっていた。

「あ、あのさ・・・」

拙い言葉でしどろもどろに、無理矢理にでも話を続けようとした矢先、それを遮るように玲奈の方から話が切り出された。

「ねぇ、御上くんはどうだった?」

「へっ・・・?」

「この3年間の高校生活、御上くんは楽しかった?」


玲奈の背景から見える窓の外の空が、夕焼け色に染まっているのに気づいた。

随分と長いこと、この教室に留まっていたようだ。

夕焼けの逆光が玲奈の長髪の隙間から輝いている。

その光に照らされた玲奈にある種の神々しささえ感じてしまった、それぐらい美しかったように思う。

プロ驚き屋さんのように大袈裟な表現だけれど、まるで教室で最後まで残っていたオレへの神様からのプレゼントにさえ思えた。

長いストレートの黒髪。日本人らしいというか、大和撫子的な美しさ。

まつ毛の長い大きな瞳。丸すぎず、かといってキツすぎない目元。

整った綺麗な眉毛。

全体的には可愛い系というより綺麗系・美人系と表現したほうが適切な気がする。

薄目でナチュラルなメイク、色白の肌。

そのままの状態でモニターの向こう側で輝けると思わせるような美貌。

っていうかテレビとかネットで見る芸能人より圧倒的にカワイイ!キレイ!

幼馴染(自称)であるオレの贔屓目すぎる?いや、そんなことはない(反語)。

玲奈の持つ本来の美しさに加えて、自然が生んだ奇跡の夕焼け(逆光)が重なって奇跡的な画角になっていた。

今すぐにスマホで写真を撮りたい衝動に駆られたが、そんな提案は不自然すぎるし、できるわけもなく。

こんなとき、オレの悪友・一成だったら「玲奈ちゃん、今外の景色がめっちゃ綺麗だから俺と一緒に写真撮ってくんない?」って軽いノリで一緒にツーショットを撮れてしまうんだろうなと想像した。

あいつのことをキモオタだなんだといつも小馬鹿にしていたくせに、当のオレは全然行動力なんかない現実に愕然とする。

とはいえ最後まで教室に残っていた、今この瞬間この世界でオレだけが見られる絶景だったのは間違いなくて。

せめて精一杯肉眼に焼き付けようと思った。


「えっと・・・あの・・・」

その深い色の瞳にオレが映っているのを感じながら、威圧されたわけでもないのにたじろいてしまう。

玲奈からの質問は答えるのが難しいものでもなんでもない。

楽しかったって肯定的に答えてから適当に話を膨らませていけば簡単に会話を続けられるはずだったんだ。

でもオレはこんな時に限って緊張しすぎたのか、一成と話していたときに妄想した、玲奈に母性があるかどうかを想像してしまう。

「康祐」「康祐くん」

下の名前で呼ばれるのと同時に、なぜか玲奈の若妻姿を想像してしまう。

美人で、若くて、白いエプロンを着て・・・。

白いエプロン・・・裸エプロン・・・?

妄想が低レベルすぎる、我ながら情けない。

裸エプロンなんてAVかエロ漫画の世界だろうが。

一成がオレのことを気持ち悪いと言っていたのもなんら間違っていなかった。

朝起きたら、目覚めたてにぴったりの、刺激が強すぎることもない優しく鼻腔に伝わってくる味噌汁の香り。

それ以前に、起こしてくれるのはスマホの無機質なアラームなんかじゃなく、小鳥の囀りのような、天使のようにとろけるように甘い声で。

起きてすぐに触れるのは冷たいスマホのガラスではなく、人の温もりに満ち溢れた玲奈の手のひら。

重い瞼を開けた隙間から見える、細く華奢な指先。

玲奈の体温を直に感じながら、何度も体をゆすられて目覚める。

その幸福な時間が永遠に終わらないで欲しいと望むような、そんな幸せな目覚めの朝。

「・・・御上くん?」

玲奈は、悶々といやらしい妄想を続けるオレの顔を覗き込み、首を傾げた。

昔はこうちゃんって呼ばれてたはずなのにな、いつから苗字で呼ばれる他人行儀になってしまったのだろう。

「ふふっ、御上くん顔真っ赤」

「はは、ははは・・・」

玲奈は口元を隠しながらくすくすと微笑む。

小さい頃からそうだった、玲奈はいつだって上品に笑う。

こんな些細なことからも玲奈らしさを感じる。

容姿が大人びても、そういう人としての根本的な部分に共通点を見つけられることが嬉しかった。


オレと玲奈だけの二人きりの静かな教室。

二人の笑い声だけがする閉じた空間。

オレたちを邪魔する存在は何一つない。

「もちろん、楽しかったよ。勉強が大変な時も結構あったし、文化祭や体育祭の準備でめちゃくちゃ忙しい時もあったけど・・・今となっては全部いい思い出だ」

高校3年間の思い出について聞かれて答えているのに、脳内では玲奈と過ごした幼少期からの思い出ばかりが回想されてしまっている。

玲奈に言ったように、高校生活は嫌なこともあったけど楽しかった。

それは確かなことで、本心だった。

「それに・・・オレは家に帰っても基本一人だったし。でも学校だったら、一成や友達が周りにいてくれて。寂しくなかったんだ」

話しているうちに、この学校で過ごした3年間に、そしてその間共に過ごした級友達に対して、無意識のうちに名残惜しい気持ちがあったのもわかった。

でもそれ以上に、やっぱり俺は玲奈に対して未練があったのだ。

オレにとって玲奈とそれ以外の人だと扱いがまるで違うのだと本能で思い知らされた。

中学以降、こいつとほとんど話さなくなったのに。

遠くからこいつが一人で窓の外を眺めたり、ぼうっとしている一瞬のカオだったりを今も鮮明に思い出せるぐらいに記憶に焼きついてしまっているのだ。

授業中にふと見える、シャーペンを握って、手元の教科書に視線を落とす玲奈の姿。

体育のバレーボールの時間、ネットで仕切られた女子生徒側のコートで、汗を流してジャンプする玲奈。

他の生徒の姿は全然思い出せないのに(一成など一部の中の良かった奴らは除く)、玲奈の姿だけは今でもよく覚えてしまっているのだ。

一成にどれだけ茶化されても、それに対して無関心を装って好意を否定しても。

結局のところ、どこまでいっても玲奈に未練タラタラなのである。


「私も御上くんと同じ。すごく楽しい3年間だった」

玲奈は控えめに落ち着いた表情でにっこりと微笑んだ。

もしかしたら玲奈も、卒業式という非日常的なイベントの空気に多少は酔って、浮かれているのかもしれないと思った。

少なくともオレの目に映る玲奈は、普段よりもずっとテンションが高そうに思った。

それは周りの連中から見れば些細な違いなのかもしれないけど。

声の弾み方・高さ、笑う頻度の多さ、いつも不意に見せる憂鬱な一瞬のカオは姿を見せず終始明るい感じの表情をしていた。

母親のいなかったオレと同じように孤独だと思っていた玲奈。

両親のいなかったこいつは、きっと自分と同じような陰を抱えているのだろうと思っていた。

でもひょっとすると、玲奈は両親がいなくても学校の友人たちに囲まれて、十分幸せに満ち足りていたのではないだろうか。

オレだけが気づいていると思っていたアンニュイな表情というのも、この笑顔を見た今となっては勘違いだった気がしてきた。

オレが自分の都合のいいように考えすぎていたのかもしれないな。

「そういえば私たち、小学校の頃からずっと同じ学校だよね」

「!」

覚えていたのか、と驚いてしまった。

「小学校も中学校も高校も一緒だなんて、そんなの私たちぐらいなんじゃないかな」

「そう・・・なのか?」

反応が気になって思わずトボけてしまうオレ。

「少なくとも私は御上くん以外知らないから」

まるで今日1日だけでこれまで呼ばれるべきはずだったオレの名前の回数を呼ばれていると錯覚するぐらい、玲奈の唇から「御上くん」の嵐が吹き荒れる。

耳が心地いい・・・。

こんな嵐なら毎日でも吹き荒れてほしいぜ、と思うばかりである。


「なんだか、御上くんとこんなに話したの初めてかも」

「そうかもしれないな」

初めて、ということはこいつはもう幼少期の頃のことは覚えていないのかもしれないな。

覚えているのは3つとも学校が同じだった男子生徒がいたって上部の知識だけで。

思い出を大切に持ち続けていたのはオレだけってか、切ない話ではあるがしょうがない。

子供の頃のように、今こんなに近くにいるのに。

あの頃と違って、二人の間には隔たりがあるように思ってしまう。

俺たちの距離はいつからこんなに遠くなってしまったのだろうか。

改めてその現実に打ちのめされそうになってしまう。

5年か、6年ぶりぐらいの二人きりの時間。

すごく幸せな気持ちになっていたのに、今ではもう胸が苦しくて仕方がない。

思えば、オレはずっと玲奈のことが好きだったのだ。

一成の言ったとおりだった。

いつから玲奈を好きだったか?

明確に異性として意識し出したのは小学校の保健室での出来事だったように思う。

顔がいいのも魅力ではあるけれど、結局はあの優しさに触れたのが大きかったのだろう。

母親のいないオレが初めて感じたようなあの慈しみが。

あるいは、だんだん綺麗になっていく玲奈にいつの間にか見惚れていたのかもしれないし、保育園の頃から既に好きだったのかもしれない。

こんな当たり前の気持ちを自覚するのに、ずいぶん道草を食って遠回りしてしまったように思う。

握っている手のひらがじんわりと汗ばんできているのがわかった。

ゴクリと唾を飲み込む。

他の誰でもない、オレの本能が耳元で囁いていた。


告白するなら今しかないんじゃないか?


誰にも邪魔されず、玲奈と二人きりで話せるのはこれが最後なんじゃないか?

告るなら今しかない。ちょうどいい節目のタイミングだ。

玲奈がどんな進路を進むのかお前は知らないんだろう。

だったら尚更、今ここで想いを伝えるべきだ。

見た感じ向こうも卒業式っていう一大イベント・非日常の後でちょっと浮かれているように見える。

もしかしたら脈がそこまで無くても場の雰囲気で、流れでOKしてくれるかもしれないじゃないか。

やるなら今しかねぇ、やるなら今しかねぇ。

オレに明日なんかない。

脳内でさまざまなワード、フレーズがこだました。

告白したいという衝動的な気持ちに駆られ、右足を小さく半歩踏み出す。

喉元まで言葉が出かったように思ったそのとき、こめかみに1滴の汗が伝ったのがわかった。

それがきっかけで、冷静になって考えてみるべきだと思考にブレーキがかかる。

口だけのチキンなオレは、今ここで告白して関係が崩れてしまったら2度と会えない気がしていた。

二人きりで話せるのはこれが最後?

まさか。喫茶店やレストランに呼び出せばいくらでもチャンスはあるだろう。

関係が崩れてさえいなければ、一成の言ったようにまだこれからの人生で会えるタイミングはいくらでもあるはずだ。

コミュ強の一成を通して連絡先だって簡単に教えてもらえるだろう。

そんなふうに逃げの選択肢ばかり考えてしまう。

あれだけ小馬鹿にしておいて、肝心な部分では一成に頼り切っている自分が本当に情けない。

もちろんいつまでも動かなければ本当に誰かに取られてしまうかもしれないが、いくら独立志向の強い玲奈だって、卒業してすぐに結婚するなんてことはありえないだろう。

むしろ独立志向が強いのだったら、いつまでも独り身でいるかもしれない。

そうだ、玲奈は賢いからステレオタイプの男女観で考えたりしないだろう。

オレの知っている頃の玲奈のままであれば、誰かに養ってもらうのではなく、自分で稼いで一人で生きていく道を選ぶのではないか。

オレはだんだんと自分の思い通りというか、自分に都合のいいふうに考えていた。

さも最もらしい屁理屈をこねくり回して、勇気を踏み出して目の前の玲奈に自分の想いを伝えるのを先送りにするための理由が欲しかったのだろう。

だからいつまで経ってもオレはダメなままなのだ。

幼少期の頃からずっと、ヘタレのままなのである。


「・・・もしかしたら、御上くんとは近いうちにまた会うかもね」

「えっ?」

「それじゃあ、また」

「お、おう」

玲奈が別れ際に言った「また」は単なる社交辞令だと思った。

実際には会いたいとか全く思ってない。

今生の別れにも関わらず、あたかも会う意思がありますみたいに匂わせる無意味な社交辞令だと。

始まることもなかったオレの初恋。

ただ遠くから憧れの人を見ていただけの片想い。

今まで望めば何度だって話す機会はあったはずなのに。

幼い頃はまるで自分が彼女の全てを知っているかのように思っていたのに、その実態はというと、日に日に美しい女性に成長していく光景を遠くから眺めていただけだった。

オレは最後まで当事者になる選択をしなかった臆病者だ。

あばよ、もう2度と会うことはないであろう藤島玲奈。

さようなら、オレの初恋。

このときはまさか、この後本当に会うことがあるなんて思いもしなかった。


玲奈が去って、教室にはポツンと俺一人だけが残された。


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