序章『狂騒邂逅鉄道』

レンリという少女


 地平線の彼方にまで広がる青々とした麦畑。

 春の日差しの下、瑞々しい麦畑の隙間を貫くようにして、真っ黒い鉄のカタマリが西の方角に向けて走っていました。この大陸中央の国々を結ぶ大陸横断鉄道グランニュート号の車列です。


 巨大な魔法装置である車両は全十二両。先頭の機関部が大地から魔力を吸い上げて動力に変換し、後部の車両を牽引する仕組みです。車両の構成は先頭から機関車両、一等客車、食堂車、二等客車が三両、三等客車も三両、貨物車両の順番で並んでいます。


 ちなみに客車の等級についてですが、まず一等客車は鍵付き家具付きの個室。二等は簡易ベッド付き、三等はイスのみとなっていて、当然の事ながら等級が高いほどいいお値段がします。


 各国の共同プロジェクトとして始まった鉄道事業も、もちろん最初のうちは不安視する声が少なくありませんでした。

 ですが、今のところ大きな事故やトラブルもなく、利益も利用者数も右肩上がり。一度に二百人以上もの人員を輸送できる鉄道は、運営開始からわずか六年という短期間で、新時代の足として定着しつつありました。







 ◆◆◆







 そんなグランニュート号の一等客車。

 その個室に備え付けられたソファの上で、一人の少女が目を覚ましました。



「…………んぁ?」



 少女は、そんな間の抜けた声を出し、なんともだるそうに呻きながら上半身を起こしました。

 もう昼近い時間なのですが、まだまだ寝足りないと言いたげな様子です。



「……ここ、どこ?」



 少女の名はレンリ。年齢は十代の半ば頃。

 磨いた鋼のような色合いの髪は肩下で切り揃えられ、よく見るとなかなか整った顔立ちをしているのですが、ぼさぼさの寝癖と目の下のクマが見事に台無しにしています。

 床に開いた本が落ちているのを見るに、ソファで読書をしていたらついつい夜更かしをしてしまい、そのままベッドに移ることなく眠ってしまったというところでしょう。



「あ、そういえば家じゃないんだった」



 寝起きで頭が回っていないレンリはキョロキョロと室内を見渡し、硝子窓の外を流れていく麦畑も見て、ようやくここが自宅ではない事を思い出しました。

 軽く頭を振ってソファから立ち上がって、大きく伸びを一つ。

 すると頭の中にかかっていた靄も晴れ、だんだんと思考が冴えてきたようです。



 ぐう。


 レンリのお腹が潰れたカエルみたいな音を立てて鳴きました。

 頭が回り始めたせいで、うっかり空腹感まで思い出してしまったようです。


 実家を離れ、初めての一人旅。

 目的地に到着するまで二度寝を決め込んでも誰も文句は言いませんが、朝食を食べそびれた空腹感はどうにも耐えがたい。

 あるいは手元に食べ物があれば、お腹に詰め込んでから二度寝する手もあったかもしれませんが、事前に買い込んできたお菓子や弁当類は全て食べ尽くしていました。食べ物の包装やゴミが室内の屑カゴに溢れんばかりに詰め込まれています。

 最後に飲食をしてからもう半日以上。そして、こうした空腹感は一度意識するとますます強くなっていくものです。



「よし、ごはんにしよう」



 二度寝の誘惑と空腹感を秤にかけて、今回は後者が勝ったようです。

 早速、部屋を出て隣の食堂車に向かおうとして、



「おっと、このままじゃマズいか」



 ソファで長時間横になったせいで着ていた服はシワだらけ、髪は寝癖でボサボサです。もっとも、寝癖に関しては毎朝の事なので、ソファはあまり関係ありませんが。


 レンリは旅行鞄を漁って愛用の櫛とタオルを取り出すと、部屋の隅にある洗面台の蛇口を捻ります。すると火傷しない程度に温かい温水が勢いよく出てきました。

 この列車の全車両には銅管パイプが通っていて、機関部の廃熱で温めたお湯を暖房の熱源として利用する仕組みになっています。その上、その温水は乗客なら誰でも利用できるのです。基本は共用ですが、一等客車の個室ともなれば、こうして一部屋ごとに専用の洗面台が設けられています。


 レンリはまず温水で顔を洗い、ついでに個室なのをいいことに下着姿になって濡らしたタオルで身体を拭き、それから頑固な髪と格闘してどうにか勝利を収め、ようやく人前に出られる格好になりました。


 本日のレンリの服装はシャツとズボン、その上に革のジャケットという組み合わせ。

 まるで男装のような格好ですが、別に彼女にそういう趣味があるわけではありません。

 単にちょっとした思い入れがあるのと、動きやすい格好を比較的好んでいるというだけで、荷物の中にはいかにも女の子らしいデザインのスカートなども入っています。


 念の為の護身用に魔法を使うための短杖をジャケット裏のポケットに差し、同様に魔法の道具である銀色の指輪を右手の中指に一つ。あとは財布を持ったら準備は完了です。

 荷物の中には鞘に収まった長剣などもあるのですが、食事に行く為だけにわざわざ剣帯を巻くのが面倒だったようで今回は省略していました。



「ああ、お腹すいた」



 幸いにも、一等客車のすぐ後ろ隣が食堂車。この距離ならば、空腹のあまり途中でお湯の銅管パイプを齧る心配はなさそうです。お腹を空かせたレンリは部屋を出ると、少しばかり早歩きで食堂車へと向かいました。









 ◆◆◆







 大陸横断鉄道の食堂車は味が良いので評判です。

 一等客車と二等客車の間に挟まれている食堂車は、客席から調理しているところが見えるオープンキッチンスタイル。

 料理のレシピは美食の本場と名高い迷宮都市の有名店が監修している上に、料理人たちは一流のレストランや王侯貴族の厨房で腕を磨いた者も少なくありません。


 仕入れは少なくとも一日一回、駅に停車する度に行うので食材は常に新鮮そのもの。

 更に幾つもの地方を横断する為に、その時々の食材の種類によって頻繁にメニューの内容が更新され、乗客は車窓からの景色を楽しみながら、気軽に各地の名物を味わうことができるのです。昨今では食事だけを目当てに鉄道を利用する趣味人もいるとかいないとか。




「まったく、いい時代になったものだね」


 しかし、レンリは言葉とは裏腹に落胆した様子で溜め息を吐きました。

 現在はちょうどお昼時。

 当然ながら、お腹が空くのは彼女だけではありません。

 乗客という乗客が一気に食堂車に押しかけ、順番待ちの満席状態になっていたのです。頑固な寝癖と格闘していた時間が敗因でした。


 この食堂車は大勢が入れるように車両自体が他より広めの造りになっているのですが、それでも一度に乗客全員が座れるほどではありません。何人もの給仕が飛び回るように皿を運んでいますが、この混雑ではしばらく待つことになりそうです。


 仕方なしに列の最後尾に並んだレンリは、壁に掛けられたメニュー表に目をやりました。

 食堂車のメニューは朝昼晩でメニューが入れ替わり、乗客は二つか三つ用意された候補の中から食べたい物を選ぶ方式です。もちろん、胃袋に余裕があるのなら全種類食べたって構いません。



「ええと、昼のメニューは『特製ローストポークと山盛りマッシュポテト』と『サーモンの揚げ物のサンドイッチと皮付きフライドポテト』か……むむ」



 レンリは腕組みをして真剣に悩み始めました。

 食事中のテーブルを遠目に見ると、どちらの料理もとても美味しそうに見えます。

 昨夜はよく煮込まれたビーフシチューと仔牛のカツレツを二皿ずつ食べたのですが、王都の有名な料理店にも劣らぬ味でした。

 デザートのレモンチーズケーキなど、思わず一人で一ホール丸ごと食べてしまったほど。

 今日の昼食にだって大いに期待できます。


 こんがり焼かれたローストポークの香ばしさは離れていても容赦なく鼻腔をくすぐってきますし、あえてメニュー名に『特製』と付けているのも意味深です。

 かかっている茶色いソースの正体は見た目では分かりませんが、これも大いに好奇心を刺激されますし、肉の脂とソースが染みたポテトも実に美味しそうです。


 しかし、もう一方のサーモンサンドにも興味を引かれます。

 粗引きのパン粉の衣を付けたサーモンはキツネ色に揚げられ、たっぷりの野菜と一緒に小さめのバゲットに挟まれています。

 味付けは酸味がありながらも濃厚なタルタルソース。

 魚のフライとタルタルソースの相性の良さに関しては、あえて言うまでもありません。



 レンリは難しい顔をしながら大いに悩みました。

 更に悩みました。

 更に更に悩みました。

 悩んで悩んで悩み抜いて、やっと結論を出しました。



「よし、両方食べよう!」



 身も蓋もない結論でした。

 彼女は特別大柄というわけではありませんが、これで随分な健啖家なのです。

 二人前や三人前くらいの量ならば問題なく平らげてしまう事でしょう。




「お客様!」



 その時、まさかレンリが注文を決め終わるのを待っていたはずはないでしょうが、ブカブカの制服を着た赤毛の少年給仕がタイミングよく彼女に声をかけてきました。十五歳のレンリよりも二つか三つは幼く見えます。



「他のお客様との相席でよければ今すぐお席にご案内できますけど、いかがなさいますか?」



 レンリの前には五人組の家族客が並んでいますが、どうやら彼らは全員が一緒に座れる席が空くまで待つ事にしたようです。それで一人で待っている彼女に声をかけたのでしょう。



「もちろん、かまわないとも!」



 お腹を空かせたレンリは、少年が思わず怯むほどの勢いで首を縦に振りました。



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