大砂漠

プロローグ

 アルカンレーブ王国の北西に広がる大森林。人間の住む世界との境界があいまいなこの土地では、種類も数も豊富な魔獣が生息している。

 中でも『銀狼』は比較的ポピュラーな魔獣で、犬に近い見た目をしており、平均的な個体でも男性より大きな体高を持つ。単体での討伐は難しくないが、知性が高く群れで狩りを行う。美しい銀色の毛皮には鉄の剣を弾くだけの強度があり、足はコヨーテよりも速い。

 当時わずか3歳程度の子どもが、短時間とはそんな魔獣から逃げおおせたのは幸運だった……と言えるのかもしれない。


 私は、馬車の荷台で、野菜や果物の箱の間に座って半べそをかいていた。自分の意志で荷台に乗ったのではなかった。いつも母や私につらくあたる女性が、知らない男たちに命じて私を母から引き離した。幌の出口が閉じられるとともに、地面に両手をついて泣いている母の姿は見えなくなった。

 細い月が浮かぶ空の下、ガタンゴトン不快な振動とともに馬車は進む。破れた幌の隙間から、木立の影が不気味な縞模様を描く様を為すすべもなく見ていると、やがて馬車は止まり、男がひとり乗り込んできた。強く腕を引っ張られたが、出ては行けないと本能が警告していたので全力で抗う。男はひどく焦っているようで、私を叩いた。

 その時だ。馬のいななきが聞こえ、馬車が大きく揺れる。男は外に放り出された。

 二匹の銀狼が、男に食らいついた。鋭い歯をむき出しにして唸り、互いに獲物を引きちぎろうとしている。馭者ぎょしゃ台の方を見た。馬の姿が消えていて、代わりに草むらが大きく揺れ動いていた。

 前門の狼後門の狼だったが、後門を選択した私は荷台から降りて森の中へ走った。銀狼たちがひとりの人間と一頭の馬に夢中になっていた時間に、大きな木の根元に潜り込むことができた。でも安心できる状況ではない。母は助けに来られないだろうし、彼女が来ないなら誰も来ないことは明白だった。

 夜の闇の中から、何か恐ろしいものが迫ってくる。ガサガサと草を踏み荒らす音がする。穴の外に通じる切れ目には、こんな時にも美しい満天の星空。そこへぬっと伸びてきた、二つの尖った耳と二つの光る目。の中に重く響く唸り声。

 私はガタガタ震える体をきつく抱きしめ、目と耳を閉じて、その瞬間を覚悟した。


 ――次に、私の知覚を刺激したのは、意外にあたたかな触感だった。例えるなら、全身をお湯に包まれているような。

 耐え難い苦痛とか鉄さびのニオイとか。さっきまで私の隣にいたはずのあの感覚はどこへ行ったのだろう。

 驚いた私が目を開くと、目の前にひとりの人間が立っていた。心細い月明かりの中でも明るく輝く銀色の髪はこれまで見たことのない美しいので、物珍しさに私は手を伸ばし軽く引っ張ってみる。

 その人間は、おもしろくなさそうな口調で言った。

「よさぬか、禿げる」

「……?」

「はぁ。拾ってしまった。どうしてくれよう」

 銀色の髪を左右の手で交互に引っ張っていると、「フォアスピネ様! どちらにいらっしゃいますか!」などと複数の人間が叫んでいるのが聞こえてきた。


 その後、私は女神の代理人と呼ばれる聖教皇フォアスピネのもとで暮らすこととなり、私は新たに、銀色の髪と、蒼色の片目と、名前を授かった。

「私の十一番目の弟子よ。お前のことは、ウヌ・キオラスと呼ぶとしよう」


 時々考える。

 あのまま夜の森で獣のエサとなるのが、私の本当の運命だったのかもしれないと――。

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