祝福

プロローグ

 もう14年ほど前になるだろうか。

 まだほんの子どもだった頃、俺は母上に連れられて王宮にやって来た。

 そこには普段あまり顔を合わせない父上が住んでいて、母上は王妃になったと聞いた。


 大人たちの事情はよく分からなかったが、環境が大きく変わったことに俺は戸惑っていた。住むところや周囲の人間関係だけではなく、どうやら自分の置かれた立場も変化したようだ。大人たちが恭しく頭を下げるようになったし、でもそういうフリをしながら悪意を持って近づいてくる者も大勢いた。


 そして何より面白くなかったのは、兄という存在が出来たことだ。

 彼は、俺とは母親が違うのだという。なのに、王宮に来たその日から、兄も母上の息子のひとりということになった。有体に言って、母親を奪われたような気持ちになったのだ。またこの兄という人が可愛げのない性格で、「授業があるから」とか「読書をしなくてはいけないから」と言って、一緒に遊んでくれたこともない。


 そんなある日。

 母上とともに王宮の庭でピクニックを楽しんでいた俺は、そこに兄が現れたことに不満を抱いた。母上は「兄弟たちの距離がもっと縮まれば良いのだけど」と乳母にこぼしていたが、春の日差しに抱かれた色とりどりの花が咲き誇る庭園で、分厚い本を読んでいる彼とは仲良くできる気がしなかった。みずみずしい芝生の上を駆け回るとか、母上のために花冠を作るとか、ほかにやることはいくらでもあるだろうに。


「アルフェリム、オライアス。昼食にしましょう」

 明らかに機嫌が悪くなった俺に構うことなく、母上はバスケットを手に子どもたちを呼んだ。悔しいことに、その時腹がぐぅと鳴ったので、俺はおとなしく母上のもとへ行き、毛氈もうせんの端っこに座る。

 バスケットの中から出てきたのはサンドイッチ。でも俺はパンに挟まれた具材を見て、ウっと言葉に詰まった。

(あ、トマトだ……)

 ぐしゃっとした触感と、ほのかな酸味が苦手な食材だった。

 でも、トマトが苦手だなんて、子どもっぽいと思われそうで言えない。

 見れば、兄も同じサンドイッチを渡されていた。

(そうだ、ひょっとすると彼もトマトが嫌いかもしれないぞ)

 そんな願いもむなしく、あろうことか兄は「ありがとうございます、母上」と言って、サンドイッチをかじったのだ。


 俺はとても腹が立った。

 俺が苦手なサンドイッチを食べることが出来る彼に。俺の母上を「母上」と呼んだ彼に。


 ――ペイッ。


 怒りに任せて、俺は手に持っていたサンドイッチを芝生の上に投げ捨てた。

「まぁ、坊ちゃん!」

 乳母が声を上げた。でも彼女が俺を叱るのはいつものことだったので、俺はそっぽを向いて話を聞こうとしなかった。


 だがその時。そんな俺を𠮟りつけた人物が、もうひとりいた。

 兄だ。


「なんてことをするんだ、アルフェリム。たしかに私たちが命じれば食べ物はすぐに出てくるかもしれない。でもそれは、料理を作ってくれる人、食材を作ってくれる人、それを届けてくれる人がいるからだ。彼らの中には満足に食べられない者もいる。お前のやったことは、王族として決してやってはいけないことだ」

 ガツン、と。

 頭を殴られたような衝撃があった。


 彼の蒼天の瞳には、嘘偽りのがなかった。

 母上によく見られたいとか、いつも生意気な弟に説教してやろうだとか、そういう不純な気持ちはひとつも混じっていなかった。

 彼が話したのは真実のみ。食べ物を粗末にしたことに怒り、また心から弟の将来を案じたために出た言葉だった。


 俺の持つ『真実の瞳』は、いつもその人の為人ひととなりを映す。誰もが、何かしらの不純を抱えて生きていることを、俺は知っている。

 こんなにも透明な心を持つ人に出会ったのは、初めてだ。


 何も言えないでいる俺に、母上が言った。

「人間は過ちを犯す生き物です。まして、あなたはまだ幼い。たくさんの過ちを経験するでしょう。今あなたのやったことが、王族として、人として正しいことだったのか。よく考えなさい」


 顔がほてるほど恥ずかしかった。

 年上だといっても、兄がまだ「子ども」と呼ばれる年齢の域を出ないことは知っていた。それなのに、この差は一体なんだ。

 

 その日から、兄は「尊敬する人」の最上位になった。

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