女神の泉

 中央神殿の中に、『女神の泉』と呼ばれる場所がある。

 棚田のようにいくつかの面を持つ広大な泉で、中央に立つ女神像が担ぐ水瓶と、一番高い場所にある最も小さな泉からは、滾々こんこんと清潔な水が流れ出ている。女神の背後には動物たちの像があり、彼らは女神とともにこの地に降り立った精霊を表していると言い伝えられる。


 この『女神の泉』は、高位貴族なら誰しも一度は訪れた経験がある。生後数か月の間に聖教皇フォアスピネによって洗礼の儀が行われるが、その際に使われる聖水とは、水瓶から流れ落ちる水のことだ。この水を桶に組んで、赤ん坊を沐浴させる。水が清らかなままならばその家門の真の子どもであるが、水が濁ると出自に偽りがあるとされる。また、王族が沐浴する際には、水面が黄金の輝きを放つ。

 泉の水は神殿の水路を通って町へと下り、これが不凍の水であるため、公国は冬でも過ごしやすい気温を保っている。


 アルフェリムも赤子のときにここへ来た。敬虔な女神の使徒とは言い難いので、それ以来訪れてはいないが。

 慌ただしく神殿関係者が往来する中、泉の水は穏やかな青さを保っている。ちろちろと流れる水、乾いた風にあおられてカサカサ音を立てる木々、その木々から飛び立つ鳥――いろいろな音がするというのに、やけに静かに感じる空間だった。


 外側の泉の縁に腰かけ、ぼんやりと頬杖をつくアルフェリム。

 風が金色の髪をさらって乱していくが、それすらも絵になる青年だ。晴れた日の空のように明るい蒼天の瞳には、今、憂いの雲が漂う。


 聖教皇の言動に引っ掛かりを覚えたアルフェリムは、記憶の糸をたぐることにした。

 外界の音や気配を意識から追い出して、自分の内側の深く深くに潜っていく。

 手足が丸く短く、起き上がることも出来ず、泣くことと食べることと眠ることしか出来なかったあの頃――そう、アルフェリムは、赤子の時の記憶を持っている。珍しいことのようで、周囲に同じ記憶を持つ者はおらず、異端視されることを恐れて次第に口に出すことはなくなった。

 しかし、それで記憶が泡のように消えてなくなるわけではない。

 洗礼の儀のために、この泉を訪れたその日のことを思い起こす。


 今日のように晴れた冬の日。風の強い日だった。

 ふわふわの豪華なおくるみに包まれた赤子は、安全な母親の腕から、見知らぬ人間の腕に抱かれて、火がついたように泣く。だが周囲の大人たちは静けさを保つ。赤子を託された長い銀髪の男性は、たっぷりと水の入った白い桶の中に赤子を入れ、額に一滴、水滴を落とした。その瞬間、水面から黄金の光がほとばしり、人々から感嘆のため息が漏れる。

 赤子はその腕に抱かれながら、白いベールの向こう側にある素顔を確かに見た。

 透き通るような白い肌と、荒れ狂うエネルギーを凍らせたかのような、不思議な輝きを秘めた蒼い瞳。

 アルフェリムがいることに気付いた彼は、微かに笑ったように見えた――。


「うわっ」

 頭上から何かが落下し、それを浴びたアルフェリムは驚いて立ち上がる。

 一羽の白い小鳥が、泉の縁に舞い降りた。上機嫌に尾羽をフリフリ動かす。くちばしと足は、深い青色だ。

 手で髪に触れると――やられた。この鳥は、恐れ多くも王子の頭上に落とし物をしたのだ。

「やれやれ。王族不敬罪で、丸焼きにしてしまうぞ」

 アルフェリムは、ハンカチで髪を清めながら小鳥に言った。当然、返事を期待してのことではなかったのだが。

「やってみるがいい、人間の王の子よ。どうせ滅びるなら、風雨に朽ちるより、激しい炎に包まれて燃え尽きる方が私好みだ」

 揶揄するように見つめる小鳥の眼差しは、あの日の聖教皇フォアスピネによく似ている。


 アルフェリムが口をきけないでいる間に、小鳥は飛び去った。

 

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