せっけん
本間文子
せっけん
お盆に合わせて、遼平が雇われ店長をしているバーも3連休に入った。とはいえ、同業者で全日を休養に当てる人などまずいない。たいてい初日は、常連客との信頼関係を深める“特別営業”に充てるものだ。遼平も一昨日は、数人の常連客とその家族や恋人たちとバーベキューをした。常連客たちは「プライベートで一緒に出かけるほど、自分は特別な客」であると満足していたようだし、「この店は自分が支えている」という気持ちから休み明けも通ってくれるだろう。
2日目は、半年前から同棲している祥子と、洗濯や掃除をしているうちに矢のごとく過ぎた。遼平がようやく一人の時間を持つことができたのは、墓参りのため祥子が帰郷した3日目の朝だ。
祥子を見送ると妙に目が冴えたので、遼平はそのままパソコンをサコッシュに入れると自転車で多摩川に向かった。何年もろくに日に当たらない生活をしているので、せっかくだから外で店のSNSでも更新しよう。
地面から一段低くなっている辺りに、まだ人けがなく水に足を浸しながら文章を書ける場所を見つけた。コンクリートの硬さを味わいながら意気揚々とパソコンを開く。しかし、いつになってもデスクトップ画面は暗いままだ。屋外にいるせいで見えづらいだけかもしれないが、思うように使えない道具が次第に疎ましくなる。はじめは舌打ちを繰り返しながら何度か再起動を試みたが、数分も経つと飽きてしまった。遼平は膝からパソコンを下ろすと、ぼんやりと遠くを眺めた。
水の流れる音や小鳥のさえずりを、こんなにのどかな気分で聞いたのはいつ以来だろう。草野球の声がするほうを見ると、対岸で白いユニフォームの少年たちが、並んで自転車を引いている。
「今日も暑くなるだろうに」
ふと遼平の背後から、ランニングを着た20歳そこそこの青年がかけ下りてきた。スイカを抱えている。遼平が振り返ると、岸で見ている数人の仲間がバーベキュー用のコンロを運んでいる。青年は抱えていたスイカを水に浸そうとして、手を滑らせた。
その時、サブリと大きな波が立ち、しぶきが遼平にかかった。
「すみません!」
青年を追いかけてきた仲間が、青年を小突いた。遼平はパソコンの無事を確認してから笑顔で片手を挙げた。彼らはスイカが流されないように固定し終えてから、改めてこちらに頭を下げると、小走りで仲間を追って行った。
徐々に日が高くなるにつれ、小鳥の声はしなくなった。川のせせらぎに耳を傾けながら遼平がひとつ、伸びをして寝転がると、青々とした草が視界の端を縁取り、雲ひとつない空に吸い込まれそうになる。目を閉じると、まぶたの裏が赤い。
どのくらいそうしていたのだろう。右ふくらはぎをチクリと刺されて、ふと我に返った。いつの間にか眠っていたようで、身体は弛緩したまま目も明かない。
水面付近に小さな羽虫の群れでもいたのだろう。
頭の片隅で思うか思わないかのうち、再び眠っていた。痛みはほとんどなく、眉毛を抜くよりも軽かった。
だから、油断したのだ。
あまりの暑さに目覚めたときにはすでに喉がカラカラだった。SNSを書くどころの騒ぎではなく、自動販売機よりも先に目にとまった定食屋に駆け込んだ。セルフサービスの冷水をコップに3杯一気に飲み干してから、冷やし中華を食べた。
何事もなくマンションに帰り、その日は結局一人でサブスクリプションの映画を見ながらビールを飲んですごした。昼過ぎから出始めた風がまだ吹き続けていて、日の輪郭がやわらかくなっても、バルコニーで日よけのタープをはためかせている。
遼平が足を掻いたとき、ちょうど午後5時を知らせる鐘が鳴った。この街では鐘がメロディを奏でる。遼平が通っていた小学校の、下校時間を知らせる音にもそうだった。
ここから後の記憶がない。
意識が戻ったのは深夜1時。高熱が出ていて、ひどく寒気がする。例の感染症だろうか。いや、慣れないことをしたせいで風邪を引いただけだろう。
ベッドに沈んだまま、スマートフォンで対処法を調べた。お盆の真っ最中で、しかも深夜だ。たとえかかりつけ医があっても当然閉っている。朦朧としながらも、発熱相談センターの電話番号を調べ当てることができたが、24時間つながるという専用ダイヤルにかけてみると通話中だった。
滝のように汗が吹き出し続け、全身の震えも止まらない。死ぬほど水が飲みたいのに、起き上がることもままならない。祥子が留守にしている時に限って、なんという巡り合わせだろう。
ようやく立ち上がることができた。何度も転びそうになりながらキッチンまでたどり着き、冷蔵庫の扉を開くと麦茶のペットボトルを取り出す。普段より重く、片手で持ち上げることが困難に感じられる。遼平は注ぎ口に直接口を着けると、喉を鳴らして飲み干した。生き返るようでもあり、地中深く引きずり込まれていくようでもある。
そのままベッドに戻ればよかったのに、解熱剤を飲もうとしたのが良くなかった。解熱剤のボトルと間違えて、苛性ソーダ(強アルカリ)に素手で触れてしまった。それどころか、もう少しで飲み込んでしまうところだった。左手のひらと指に刺すような衝撃が走り、咄嗟に遼平は指を舐めてしまった。
劇薬である苛性ソーダが一般家庭にあるのは珍しいかもしれない。遼平の実家でも見ることなく育ったので、すっかり自宅にあるのを忘れていた。まさか常備薬がしまってある引き出しに紛れているなんて。昨日キッチンを片づけていたのは祥子だから、きっと誤ったのだ。
舌打ちをしようとして、指先と口の中が痺れた。蛇口をひねって水を勢いよく手にあてたとき、強い違和感が不穏な実を結んだ。
この苛性ソーダは、半年前まで3カ月ほど同棲したユイが、趣味のせっけん作りに使っていたものだ。
「一滴目に入っただけで失明するかもしれないほどの劇薬だから、取扱いには注意してね」と、遼平は再三注意されていた。そして本人も取扱う際にはゴム手袋をはめ、目にはゴーグルを着けていた。てっきり持って出て行ったものと思っていたが、こんなふうにむき出しのまま放置してあるなんて。
化学やけどを負っていないほうの手を使って、うがいを繰り返す。一向に引かない痛みの中で、心臓が激しく打ち続ける。
祥子との付き合いに本腰を入れ始めた時、まだこの部屋でユイと同棲していた。同棲を解消しようと言ったことから別れ話に発展し、取り乱したユイと派手にモメたが、遼平が祥子の部屋に転がり込んでいるうちに結局ユイは部屋を出て行った。鍵を交換した直後、入れ違いに祥子が越して来ると、彼女は徹底的に部屋を掃除していた。調味料の小さなボトル1本まで捨てて、ユイの痕跡を消したはずだ。
――苛性ソーダがこの部屋にあるはずがない。
気づいたときには、もう手に穴が空いていた。途方に暮れながらも水道水で洗い続けている。一方で、右ふくらはぎに強いかゆみが走る。見ると右脚は紫色に腫れあがり、血管が黄緑色に浮いていた。
何だこれ? 一体どうなってるんだ。
鼓動が高鳴り、血管がどんどん膨張していく。痛みとかゆみの強さがそのまま恐怖に変わった。悶えている遼平の隣りに、ふと、どこか懐かしい人の気配がした。顔を上げると、長い髪に覆われた顔は逆光でよく見えなかったが、確かにユイだった。
(了)
せっけん 本間文子 @ayala_teya
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