18:悪魔王を封印しました

 翌日の昼下がり。


「ここです」

 緊張した面持ちのアンネッタ様が白い繊手で示したのは、王宮の奥深くに隠された重厚な扉だった。

 取っ手のない扉の前に立っているだけで、チリチリと肌が焼かれるような不快感がある。

 この先に悪魔王を封じた結晶があるのは間違いない。


「ご覧の通り、この扉には取っ手がありません。この扉を開くことができるのは《聖紋》を持つ者だけ。それも、一定以上の神聖力がなければ反応しません。リーリエ様ならば開けられるはずです。扉に手を押し当ててみてください」

 私は恐る恐る、右手を扉に押し当てた。

 すると、呼応するように扉の表面に大きな銀色の《聖紋》が浮かび上がり、自動的に扉が開いた。

 一体どういう仕組みなのだろう。心底不思議だった。


「さすがリーリエ様ですわ。お兄様には開けられませんでしたのよ」

 透き通るようなアイスブルーの目を細めたのもつかの間。

 すぐにアンネッタ様は表情を引き締め、扉の中へと入っていった。


 私は唾を飲み込み、揺れる蜂蜜色の長い髪を追った。

 螺旋階段を上り、その先にあった扉に手のひらを押し当てて封印を解除。


 ――そこには、常人が決して踏み入れてはならない禁忌の場所があった。


 天井の高い石造りの部屋。

 その中央に、巨大な赤い結晶が鎮座していた。


 その表面はどす黒く変色し、禍々しい模様がまるで心臓の鼓動のように浮かんでは消えている。


 目を凝らせば、赤黒い結晶にはいくつもいくつも金色の糸が巻きついているのが見える。

 この光り輝く黄金の糸こそ、歴代の聖女たちがこれまで積み重ねてきた祈りだと、直感的に悟った。


「恐ろしいでしょう」

 アンネッタ様が静かに声を発した。

 鈴の音のような声には、微かに震えが混じっていた。


「この結晶を見るたび、身が竦みます。けれど、ここで祈りを捧げることが聖女として生まれたわたくしの務め。悪魔王に生まれ育った美しい国を蹂躙されたくはありませんからね。わたくしが倒れてしまったせいで、封印も緩んでしまっているはず。ただいま急ぎ封印をかけ直しますので、どうぞ、そこで見ていてください」

 アンネッタ様は結晶の前に跪き、目を閉じて手を組んだ。

 その全身が淡い光に包まれ始める。

 清らかな彼女の存在そのものが、この部屋に漂う邪気をほんの少しだけ和らげているように見えた。


「レムリア様。どうか、わたくしに力をお与えください。わたくしが愛するイリスフレーナの平和を――この世界に生きるすべての人々をお守りください」

 アンネッタ様の澄んだ声が、石造りの部屋に響き渡る。

 彼女から解き放たれた黄金の光が結晶に触れたとき、地の底から響くような声がした。


《お前の祈りなど無駄だ……女神の封印はやがて崩れ、我が復活する時が来る……》


 ――これが、悪魔王の声?

 完全に封印されているというなら、外部の者に声を届ける力があるのはおかしい。

 長い時を経て、女神の封印が解けつつあるのだ。


 冷や汗が頬を流れる。

 それでも、アンネッタ様は祈りを止めなかった。


「わたくしは負けません。女神の意志と力を継ぐ聖女が世界を混乱に陥れた悪しき存在に屈することなどありません。あなたの封印が解ける日など来ませんよ――永遠に!」

 アンネッタ様は力強く吼えた。

 結晶を包む黄金の光がさらに強くなり、悪魔王の耳障りな声を結晶の中へと押し戻す。

 部屋の隅で立ったままその様子を見ていた私は、無言で両手を握り締めた。


 ――お疲れでしょうから、見ているだけで良いと言われたけれど。

 昨日たっぷり睡眠を取ったおかげで、体調は整った。

 起きたとき、私はアンネッタ様ご本人はもちろん、国王夫妻やミラさんたちから口々にお礼を言われた。

 廊下を歩くだけで使用人や貴族たちに頭を下げられた。


「アンネッタ王女を救ってくださり、誠にありがとうございました」

「よくぞイリスフレーナに来てくださった。リーリエ様はこの国の光となることでしょう」

「ぜひ一度、私の領地にもいらしてください。歓迎いたします」

「悪魔を祓い、王女を救ったリーリエ様の功績を詩にして広めようと思います!」

 誰もが大げさなまでの感謝の言葉を投げかけた。

 あなたこそ本物の聖女だと、素晴らしいと、王宮中の人たちが私を讃えてくれた。


 ――ただ見ているだけでは聖女として失格だ!


 私は意を決して、アンネッタ様の傍に跪いた。


「リーリエ様。昨日倒れたばかりなのに、無理をしてはいけません」

 アンネッタ様は戸惑ったような顔を向けてきた。


 そもそも私がここにいるのは、ラザード様やアンネッタ様の意思ではない。

 私自身が、悪魔王が封じられた結晶が見たいと我儘を言ったせいだ。


 ラザード様は悪魔を祓えるほどの力を持つ大聖女の価値を十分に理解しながら、それでも私の体調を気遣い、ゆっくり休むように言ってくれた。

 倒れるまでこき使われたルミナスとは大違いだ。

 だからこそ、私はこの国の人たちのために役に立ちたいと思う。


「アンネッタ様も昨日目覚めたばかりで立派に務めを果たしておられるのです。ただ見ているだけなどできません。どうか私にも祈らせてください」

「……わかりました。大聖女の力添えをいただけるなど、願ってもないことです。どうかよろしくお願い致します」

「はい」

 私は目を閉じ、両手を組んだ。

 今日の体調は万全。元気溌剌。


 ――だから、ありったけの神聖力を結晶にぶつける!!


 瞬間、昨日聞いた悪魔の断末魔のような叫びが私の脳髄を揺さぶった。


「!!」

 アンネッタ様は反射的な動きで両耳を押さえ、身を縮めた。

 私の神聖力は結晶の中にいる悪魔王にもしっかり届いたようだ。


 ――よし、効いてる!


 手応えを感じた私は、その勢いのまま神聖力を立て続けに放つ。

 三度目の攻撃を加えた頃には、悪魔王の悲鳴は聞こえなくなっていた。

 悲鳴を上げる元気を失ったのかもしれない。


「……す、凄い……」

 耳を押さえていた手を下ろし、アンネッタ様は呆然としたように呟いた。

 悪魔王が弱っている間に、私は結晶に絡みついている金色の糸に触れた。


 物理的に指で触れたわけではない。ただ、意識として触れた。

 一つ一つの糸をしっかりと撚り合わせ、束ね、さらに編み込んでいく。

 芸術品のように細かく編み上げた糸で、私は結晶を硬く硬く縛り付けた。


 ――さあ、どうかしら?

 実験結果を確認する科学者のような気分で目を開けると、結晶の表面から黒さが消えていた。

 蠢いていた禍々しい模様も、もうどこにもない。

 ただ、紅に煌めく巨大な結晶がそこにあるだけだった。


「……な……なんということでしょう。あれほど強かった悪魔王の気配を感じなくなりました。恐らくこれは、レムリア様が悪魔王を封印したときと同じ状態です。レムリア様は赤い水晶に悪魔王を封印したと文献に書いてあったのです……きっと、もう私の祈りは必要ありません……聖女の祈りが必要になるのは、少なくとも、あと百年は先ではないでしょうか……」

 アンネッタ様は愕然としている。


「それは何よりです。私がレムリア様に匹敵するほどの強固な封印を成し遂げられたのは、死してなお悪魔王を封じようとする歴代の聖女たちの祈りがあったからです。私はただ、彼女たちの想いを、祈りを束ねただけ。この国に生きた聖女の皆さまは国を愛し、愛される素晴らしいお方だったのでしょうね。アンネッタ様を見ればわかります。私は他国から来た人間ですが、この国の平和が長く続くことを切に祈ります」

 微笑むと、アンネッタ様はくしゃっと顔を歪め、感極まった様子で抱きついてきた。


「女神様ー!!!」

「私は女神ではありませんよ!?」

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