17:たとえこの先何があっても
誰かが繰り返し自分を呼んでいる。
切羽詰まったような、悲痛な声で。
――この人にこんな声を出させてはいけない。早く、早く起きなくては。
気持ちは焦るのに、瞼が鉛のように重い。身体が動かない。
「リーリエ! 頼む、しっかりしてくれ!」
その声には必死さが滲んでいた。
頬に触れる温かな手の感触が、疲労困憊した身体を動かす活力をくれた。
「……フィル、ディス、様?」
か細い声で言うと、息を吞む気配がした。
「そうだ、おれだ。わかるか? 目を開けてくれ」
切実な呼び掛けに応えるべく、私は目を開けた。
視界に映し出されたのは、泣き出しそうな顔で私を覗き込むフィルディス様と、彼の周囲にいる精霊たち。
彼らの背景にあるのはアンネッタ様の部屋だ。
前後の記憶は曖昧だけど、悪魔を祓ったことだけは覚えている。
どうやら私はその後、倒れてしまったらしい。
いまはいつなのか。アンネッタ様はどうなったのか――疑問ばかりが増えていく。
「……アンネッタ様は?」
とりあえず、一番気になる質問をフィルディス様にぶつけた。
「大丈夫だ。眠っているだけで、呪いは解けたと精霊が保証してくれた」
フィルディス様は寝台のほうを見た。
つられて見たけれど、床にいる私の位置からではアンネッタ様の顔がよく見えない。
立って確認できるほどの体力は残っておらず、私は息を吐いた。
『リーリエ、大丈夫?』
『大丈夫ー?』
精霊たちが心配そうに問いかけてくる。
この部屋にいても誰一人狂っていないということは、本当に呪いは解けたらしい。
念のため、私は意識を集中してみた。
……邪気は感じない。この部屋のどこにも。
「……良かった……」
心の底からほっとした。
でも、フィルディス様は渋い顔。
「どうされたんですか?」
「呪いが解けたのは良かったが、リーリエは半日以上も部屋にこもってたんだぞ。いまは翌朝の午前九時過ぎだ。さっき鐘が鳴ったからな」
「えっ。そんなに――」
「半日以上もの間、おれがどんな気分でいたかわかるか? 部屋に踏み込んだとき、床に倒れたリーリエを見て、どんな気持ちになったかわかるか?」
責めるような台詞だが、フィルディス様の声は震えていた。
きっと、彼は一睡もせずに私が部屋から出てくるのを待ち続けていてくれたのだろう。
「……すみません。こんなに時間がかかったのは私も予想外でした。ご心配をおかけしました」
私は手を伸ばし、フィルディス様の頬に触れた。
驚いたように目を大きくしたフィルディス様を見つめて、悪戯っぽく微笑む。
「でも、これでおあいこですね。ソネットで倒れたフィルディス様を見たときの私の気持ちが、少しはわかったのではありませんか?」
「……ああ。よくわかった。もう二度とごめんだ。心臓が潰れるかと思った。とにかく、リーリエが無事で良かった」
フィルディス様は私の手を取り、手の甲に口づけをした。
胸がどきりと跳ねる。
「頼むから、これからも無事でいてくれ。リーリエがいなくなったら、おれは生きていけない」
フィルディス様の声は真剣そのものだった。
その瞳には迷いも冗談も一切なく、ただ純粋な想いだけが宿っている。
「……努力します」
心臓がうるさくて、声が裏返りそうになるのを必死に抑えながら、それだけを搾り出すのが精いっぱいだった。
「努力だけじゃ駄目だ。絶対に死なないと約束してくれ」
「それは……難しいですね。人間、いつ死ぬかなんてわからないんですから――」
「なら、リーリエが死んだらおれも後を追う」
「それは駄目ですよ。そんなことを言われたら、何が何でも死ぬわけにはいかなくなります」
「だから言ってるんだよ」
フィルディス様の青い瞳は、まっすぐに私を捕えている。
――どうしてそんなにまっすぐでいられるの?
――どうしてそこまで、私に執着するの?……
フィルディス様のひたむきな愛を、ときに眩しく感じる。
けれど、嫌ではない。
彼のまっすぐな眼差しを嫌だと思ったことは、一度もないのだ。
「……わかりました。死にません。お約束します」
腹を括ってそう言うと、フィルディス様は満足そうに笑った。
これで良し、話はついたと思っているのかもしれないけれど、甘い。
「けれど、私もそっくりそのまま同じ言葉をお返ししますからね」
釘を刺すべく、私は顔をフィルディス様に近づけた。
「……おれが死んだらリーリエも後を追うってことか? いや、それは――」
「自分は良くて私は駄目とか言うのは無しですからね? そんな勝手は許しません」
顔を青ざめさせたフィルディス様の言葉を遮って、にっこり笑う。
「…………」
フィルディス様は眉間に皺を作り、たっぷり十秒は沈黙した後、根負けしたように息を吐いた。
「……わかった。お互い死なないように頑張ろう」
フィルディス様は私の手をしっかりと握った。
「はい。頑張りましょう」
私は微笑んでその手を握り返した。
彼の手の温もりが、心の奥深くまで染み込んでいく。
――たとえこの先何があろうと、この人のために、私は石にかじりついてでも生き延びなければならない。
そんな思いが胸の中に芽生えた瞬間だった。
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