16:私は負けない
一国の王女の住まいに相応しく、アンネッタ様の部屋は煌びやかな装飾で彩られていた。
高い天井から吊られた水晶のシャンデリア。金糸で縫われたカーテン。薔薇のレリーフが見事なドレッサー。
真っ白な壁には格調高い宗教画と、磨き抜かれた大きな鏡。
陶製の花台には色とりどりの花が生けられ、かぐわしい香りを漂わせていた。
しかし、この豪奢な部屋には押し潰されそうなほど重苦しい空気が漂っている。
その発信源は、大きな天蓋付きの寝台に横たわるアンネッタ様だ。
アンネッタ様は繊細なガラス細工のような美少女だった。
額に輝く銀色の《聖紋》。
緩やかに波打つ蜂蜜色の髪。影を作るほどに長い睫毛。
ミラさんの話では、アンネッタ様の瞳は父親譲りのアイスブルーだというが、いまは閉じられたままだ。
仰向けに横たわり、組んだ手を腹の上に置いた彼女の白い肌には赤黒い茨のような、禍々しい紋様が蛇のように這いずり回っている。
この赤黒い茨のような紋様は《悪魔の呪い》だ。
話には聞いたことがあるけれど、実際にこうして見たのは初めてだった。
――これほどまでとは……。
私は息苦しさを覚えて胸を押さえた。
アンネッタ様の近くに立っているだけで、頭が割れそうに痛む。
内臓を掻き乱されているかのような、耐え難い不快感。
少しでも気を緩めれば、胃の中のものが逆流しそうだった。
アンネッタ様の身体からは邪気と同時に、微弱な神聖力を感じた。
呪いに侵され、意識もないのに、彼女はいまも祈っているのだ。
この国に生きる人々のために、決して悪魔王を世に放つまいと祈りを捧げ続けている。
――まだ十四歳を迎えたばかりだというのに、なんという精神力なのだろう。
尊敬の念を覚えつつ、私は呪いの源を探るべく意識を集中させた。
呪いはまるで蜘蛛の糸のように複雑に絡み合い、王女の周囲に広がっている。
そして、ある一点――ドレッサーから、異様に濃密な邪気を感じ取った。
「これは……」
「どうしたのだ?」
ラザード様の声がしたため、私は振り返った。
廊下に続く控えの間には金髪碧眼のラザード国王陛下と、銀髪紫眼のシルヴィア王妃を筆頭に、たくさんの人間がいる。
人が入り切らず、廊下にまで溢れているような状態だった。
国王夫妻の隣には炎のような赤い髪と金色の目を持つ美青年が立っている。
彼はルーク・シェイテ・イリスフレーナ。
アンネッタ様の三つ年上の兄で、この国の王太子だ。
驚いたことに、彼の額には水色の《聖紋》があった。
ただし、彼の神聖力はアンネッタ様に比べて微々たるもの。
アンネッタ様にかかる呪いには全く太刀打ちできず、彼の《聖紋》はほとんど飾りでしかないらしい。
ルーク様の近くにフィルディス様とエミリオ様がいた。
『精霊眼』をかけた二人は心配そうな面持ちで私を見ている。
その後ろには騎士や侍女たちが控えており、さらに彼らの周囲にはたくさんの精霊たちが集まっていた。
皆が部屋に入ってこないのは、私が来るなと言ったからだ。
ただの人間がアンネッタ様に近づけば呪いにあてられてしまう。
精霊たちは正気を失い、邪霊に落ちてしまう危険性があった。
『入っちゃダメ?』
『ダメ?』
――駄目よ。来ないで。
入りたいと騒ぐ精霊たちを
「アンネッタ様を蝕んでいるのは悪魔王本人ではありません。恐らくは悪魔王の配下でしょう」
私は人差し指を伸ばし、呪いの波動が最も強い場所――ドレッサーを指さした。
そこには、精緻な細工が施されたオルゴールが置かれていた。
一見するとただの美しい工芸品にしか見えない。
でも、私の目にはアンネッタ様の身体に憑いているものと同じ、赤黒い茨のような、禍々しい紋様が見えていた。
「あのオルゴールには悪魔が憑いています。あれが呪いの根源です」
断言すると、控えの間で待機している全員が息を飲んだ。
「何ですって……!?」
シルヴィア様は手を口元に当て、ラザード様は険しい顔でオルゴールを睨んだ。
「その悪魔を祓うことは可能なのか?」
「はい」
ラザード様の問いに、私は力強く頷いた。
たとえハッタリだろうと、聖女は人々に安心感を与える希望でなければならない。
フィルディス様やエミリオ様も見ているのだ。
「無理かもしれません」なんて情けないことは、口が裂けても言えない。
「時間をください。アンネッタ様を蝕む呪いの力は強大です。慎重に、確実に解かなければなりません」
ラザード様は深く息をつき、絞り出すような声で言った。
「頼む……」
短いその言葉には、国王としてではなく、一人の父としての切実な祈りと懇願が込められていた。
「お任せください。しばらく私を一人にしてください。たとえ何があろうと部屋に入ってこないでください」
「わかった。出るぞ、皆」
ラザード様たちは退室したけれど、フィルディス様とエミリオ様はその場から動かなかった。
「……頑張って。としか言えないのが歯がゆいね」
エミリオ様は何ともいえない表情で苦笑した。
「おれは部屋の外にいるから。何かあったらすぐに呼んでくれ」
「はい。頼りにしています」
微笑むと、フィルディス様は頷いた。
「ほら、行くぞお前たち。駄々をこねるな。リーリエを困らせるだけだ」
フィルディス様は渋る精霊たちを引き連れて部屋を出た。
扉が閉まる音。
これで私は意識のないアンネッタ様と二人きりになった。
――さあ、ここからが勝負。
オルゴールを見据えて深呼吸する。
両手を組み、神聖力を解き放つ。
まっすぐに放たれた金色の光はオルゴールにぶつかり、弾けた。
その瞬間、堪らぬとばかりにオルゴールに憑いていた悪魔が悲鳴を上げた。
オルゴールから赤黒い靄のようなものが噴き上がり、空中で固まっていく。
やがて形を成したそれは、ダニと蜘蛛を足して割ったような、不気味な姿をしていた。
悪魔は全身から邪気をまき散らしている。
やはりこの悪魔がアンネッタ様を蝕む呪いの根源だ。
私は続けて神聖力を放ち、悪魔を空中で拘束した。
対抗するように、悪魔は凶悪な邪気を放った。
「っ……ぐ……!」
まるで血の気を吸い取られるような――否、魂そのものが削られていくような感覚。
とても立っていられず、私は絨毯に座り込んで身体を丸めた。
それでも悪魔の拘束が解けなかったのは、ひとえに気力によるものだ。
悪魔を野放しにしてしまっては、また悲劇が繰り返されてしまう。
「う、うぅ……」
見えない大きな手で握り潰されているかのように、胸が苦しい。
呼吸をしようとしても空気が喉を通らない。
必死に息を吸おうともがくたび、悪寒が全身を駆け巡った。
皮膚が――痒い。痛い。爪を立てて掻きむしりたい衝動に駆られる。
無数の虫が這い回っているかのような不快感に、吐き気がこみ上げてくる。
冷や汗が噴き出し、全身をべったりと覆っている。
それなのに、体温は容赦なく上がり続けている気がする。
焼けるように熱いのに、骨の芯まで凍えるような寒さ――相反する感覚が身体を引き裂いていくようだ。
悍ましい邪気が私を侵し、五感を奪っていく。
まるで底なし沼に引きずり込まれていくように、意識が闇の底へと沈み込んでいく。
霞む視界の中で、アンネッタ様は寝台に横たわったまま動かない。
私は彼女を助けるためにここに来たのに。
お任せください、なんて大見得を切っておいて、結局、助けられないのか。
私では力不足だったのか。
私もアンネッタ様のようになってしまうのか。
私は――私は……。
――大丈夫。リーリエならできるよ。
フィルディス様の言葉が蘇り、私はカッと目を開けた。
「……私はっ……負けない……!」
負けて堪るものか、という強烈な意思が腹の底から湧き上がってくる。
ラザード様とシルヴィア様は私に礼を尽くし、「どうかアンネッタを頼む」と頭を下げた。
ラザード様たちだけではない。
皆が私に期待している。
私は期待に応えたい。
そのためには、呑気に倒れてなどいられない……!!
苦痛にあえぎながらも、私は手をついて上体を起こした。
そして、震える手をもう一度組み直し、全身全霊で神聖力を放った。
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