07:大聖女の奇跡

「フィルディス様!!」

 私は悲鳴を上げ、エミリオ様は繋いでいた手を離して急停止した。

 突然手を離された私は、たたらを踏んで止まった。

 身体ごと振り返れば、エミリオ様は金髪を風になびかせ、遊歩道の手すりの上に立って海面に目を凝らしている。


 私も手すりを掴んで身を乗り出した。

 少しの異常も見逃すまいと、食い入るように海を眺める。


 でも、クラーケンはフィルディス様たちを捕まえてよほど深く潜ってしまったのか、海の上からでは何もわからない。

 フィルディス様たちは大丈夫なのか。焦燥ばかりが胸を焼いた。


 左手に見える崩壊した桟橋から人が次々と海に飛び込んでいく。

 勇気ある人々は己の危険を顧みず、二人を捜索してくれるようだ。

 彼らがフィルディス様たちを見つけてくれれば良いのだけれど……どうか、どうか、無事でいて。


「あっ!!」

 祈っていたそのとき、遠く離れた海面に赤い頭が現れた。


「桟橋に連れて行く!! リーリエも来て!!」

「わかりました!!」

 私の返答を聞き終わるよりも早く、エミリオ様は手すりの上から飛び降りた。

 風の魔法を纏った彼は滑るように宙を飛び、赤髪の女性を捕まえて桟橋に運んだ。


 私は走りながら、前方と右手に広がる海を交互に見た。

 赤髪の女性が浮上した辺りにフィルディス様が現れないかと思ったけれど、海は沈黙したままだ。

 フィルディス様が海に落ちて既に五分は経過している。

 もし水中でクラーケンと戦ったとしたら、ただ潜水するより遥かに早く酸素を消費しているはず……。


 不安を振り払うべく、私はただ前だけを見据えて駆けた。


 息を切らして辿り着いた桟橋は大部分が消失していた。

 桟橋の残骸が辺りの海面を力なく漂っている。


 崩壊した桟橋の前の陸地には多くの人が集まっていた。

 赤髪の女性は座り込んだ状態で布にくるまれ、介抱されていた。

 疲労困憊しているようだけど、きちんと会話に応じていることからして、彼女はもう大丈夫だ。


 会話の最中、赤髪の女性は潤んだ目で前方にある桟橋を見た。

 何故そんなに悲しそうな顔をしているのだろう。

 不思議に思いながら視線を追って、桟橋に横たわるフィルディス様の姿を見つけた。


「!!」

 私は弾かれたように駆け出した。

 人々の隙間を縫って走り、フィルディス様の元に向かう。

 捜索にあたってくれた人たちらしく、フィルディス様を囲むように立つ五人の男女は全員ずぶ濡れだった。

 フィルディス様の傍には見知らぬ男性とエミリオ様がいた。

 他の人たちと同じように、エミリオ様は無言で俯き、フィルディス様の顔を眺めている。


「…………?」

 嫌な予感が膨れ上がる。

 何故フィルディス様は仰向けに倒れたきり動かないのだろう。

 何故みんな暗い顔で押し黙っているのだろう。


 まるで――私はその先に浮かんだ言葉を消去した。

 それは絶対にあってはならない、考えたくもない言葉だったから。


「ああ……あんたもこいつの知り合いか」

 フィルディス様の傍にいた男性が立ち上がり、横に退いて場所を譲ってくれた。


「……。リーリエ。残念だけど……」

 エミリオ様が俯いたまま、涙声で言った。

 残念とは何のことなのか。知りたくない。聞きたくない。


 私は男性と入れ替わるようにして、エミリオ様の向かい側に跪いた。

 フィルディス様の顔面は青を通り越して白かった。生気がまるで感じられない。


 海に落ちた拍子に桟橋の残骸で傷つけたのか、彼の左腕には酷い裂傷があった。

 右肩には穴が開いている。穴は背中まで貫通しているようだった。


「…………」

 何なのだろうこれは。

 悪い夢でも見ているのだろうか。

 だって、ついさっきまでは笑っていたのに。

 一緒に美味しい海鮮料理を食べようとしていたのに。


 私は何かに操られているような気分で、フィルディス様の胸に自分の耳を押し当てた。

 心臓の鼓動が……聞こえない。


「――――っ」

 現実という名の鉄槌に頭を殴打された。

 私は無我夢中で上体を起こし、フィルディス様の胸の上に両手を重ねた。

 肘を伸ばしたまま体重をかけ、繰り返し強く圧迫する。


 ――レムリア様、どうかフィルディス様をお助けください。セレイエの園に導かれるには早すぎます。どうか私の元に彼をお返しください。


 必死で圧迫しながら祈っても、フィルディス様は無反応。


 ――泣く暇があったら動け!! 心肺蘇生は一秒が勝負だ!!

 折れそうな自分を叱咤してフィルディス様の鼻をつまむ。

 口を大きく開けてフィルディス様の口を覆い、息を吹きかける。

 初めて触れたフィルディス様の唇は氷のように冷たかった。


 フィルディス様が死ぬなど、一生会えなくなるなど、嫌だ。

 絶対に、絶対に嫌だ。


 ――嫌だ、嫌だ、嫌だ!!


 意思が炸裂する。

 それは魂のこもった、強烈な『否』の言葉。

 額が燃え上がりそうなほど熱くなり、私を中心として凄まじい風が沸き起こった。


「!!?」

 この場の誰もが仰天している。

 真っ白だった私の髪は銀色に輝き、神秘的な虹色の光を纏い始めた。


 ――不意に。


『リーリエ、困ってる?』

 耳元で、声。


『困ってるみたいだねー』

『困ってるなら、あたしたちが助けてあげようか?』

『うん。みんなで助けてあげよう』

 声は一つだけではない。そこかしこから聞こえた。


 はっとして顔を上げれば、数えきれないほどの精霊たちが私を取り巻いていた。

 頭に花を乗せた人型の精霊、トカゲの姿をした精霊、水の玉のような形の精霊。

 黄金の光を纏った精霊たちの姿は多種多様だ。


 視界を埋め尽くすほどの黄金の光の中心で、私は目を瞬いた。

 一体どこからこんな数の精霊たちが集まってきたのだろう。

 まさか、全員ルミナスからついてきたとでもいうのだろうか?


『私もリーリエ好きだから助けるー!』

『そうだね、助けなくっちゃねー』

 無数の精霊たちが、異口同音に『助ける』と囁いている。


「…………」

 今度こそ涙が溢れたけれど、私は手の甲で目元を拭った。

 感動に浸っている余裕はない。

 精霊たちとの再会を喜ぶのも、フィルディス様が助かった後で良い。


 ――ええ、お願い。どうか私を助けて。あなたたちの力を貸して。フィルディス様は私の大切な人なの。絶対に失いたくない人なの。


 精霊たちに懇願しながら、私はもう一度フィルディス様の唇を自分の唇で塞ぎ、息を吹き込んだ。


『フィルディス、起きろー!! リーリエが泣いてるぞー!!』

『リーリエを泣かせちゃダメなんだよー』

『そうだ、起きろー!!』

『おっきろー!!』

 耳元で鳴り響く『起きろ』の大合唱。


 そして。


「――げほっ」

 フィルディス様の身体が跳ねた。


「!!!」

 私は目を見開き、重ねていた唇を離した。


「フィル!?」

 エミリオ様が身を乗り出して名前を呼ぶ。

 フィルディス様は苦しそうに咳き込んだ後、私を認識したらしく目を見張った。


「それ……」

 フィルディス様は私の額を見て唖然としている。

 鏡を見なくてもわかる。私の額には金色の《聖紋》が浮かび上がっている。


 しかし、そんなことはどうでも良い。


「身体の調子はどうですか!? 違和感は!? 痛いところはないですか!?」

 覆い被さるようにして、フィルディス様の顔を覗き込む。


『ないですかー?』

『かー?』

 精霊たちも私の真似をしてフィルディス様に近づき、大勢で取り巻いた。


「い、いや、どこも痛くない」

 互いの睫毛が触れそうなほどの超至近距離に、フィルディス様は動揺しきった様子で答えた。

 さっきまで真っ白だった顔がほんのり赤い。


「至って元気だ。ほら、この通り」

 フィルディス様は手をついて上体を起こした。

 左腕の裂傷も、右肩に空いていた穴も、もうどこにもない。

 見る限り、完全回復していた。


「すげえ。起きた」

「俺はいま奇跡を見たぞ」

「私も。これが聖女様の力か……」

 近くにいた男女の呟きを聞いて、フィルディス様は申し訳なさそうに私を見た。


「……もしかしておれ、死にかけてた?」

「死んでたんだよ馬鹿っ!!」

 エミリオ様がフィルディス様の肩をべしっと叩いて怒鳴った。

 エメラルドグリーンの瞳には涙が浮かんでいる。


『フィルディス起きたー!!』

『起きたー!!』

 精霊たちが飛び回ったり、手と手を取り合って踊ったりと大はしゃぎする中。

 私はフィルディス様を力いっぱい抱きしめて号泣した。

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