06：港町での大事件
蒼穹を二羽のかもめが飛ぶ。
港に停泊した客船は着飾った人々を吐き出し、桟橋ではおこぼれを求めて集まった猫や鳥に漁師が魚の切れ端を投げている。
海沿いの遊歩道には等間隔に並べられたベンチがあった。
いずれのベンチも埋まっている。
みんな楽しそうにお喋りしながら、家族や恋人たちと平和なひと時を満喫していた。
「わあ……凄い。これが海なんですね。初めて見ました」
私は遊歩道の手すりを掴み、軽く身を乗り出した。
目の前には底知れぬ深い青色を湛えた海が広がっている。
ここはハスタ大陸の西端にある港町ソネット。
辻馬車を乗り継ぎ、ときにはエミリオ様の魔法で空を飛ぶこと一週間。
私たちはのんびりと旅を楽しみながら、西の大陸との玄関口に辿り着いたのだった。
「おれも初めて見たよ。海は吹く風が陸とは違うんだな。喉に絡みつくような……粘っこいような……不思議な感じがする」
フィルディス様は眩しそうに目を細め、宝石のように輝く海を眺めている。
「風もそうだけど、匂いも独特だよね。これが潮の香りってやつか。知識としては知っていたけど、体感するのは初めてだ」
和気藹々と話していたそのとき、正午を報せる鐘が鳴り響いた。
たちまち、全員の顔つきが変わる。
鐘が鳴ったらお昼を食べに行こうと事前に話していたのだ。
「鐘も鳴ったことだし、お喋りはこれくらいにして昼食にしようか。せっかく港町にいるんだから、魚料理を楽しまなきゃ損だよね」
「異論はない。魚市場まで戻ろう。さっき前を通ったときに『海鮮食堂』という魅力的な文字を見た」
エミリオ様は意味深に笑い、フィルディス様は真顔で左手にある大きな施設を指さした。
「まあ、なんて素晴らしい提案なのでしょう。魚市場に併設された食堂なら、水揚げされたばかりの新鮮な魚が堪能できますね。魚の煮付け。魚介のスープ。唐揚げ。塩焼きに蒸し焼き……ああ、どれも捨てがたい……」
私は胸の前で両手を合わせ、まだ見ぬ海の幸を思い浮かべてウットリした。
ルミナス神聖王国は内陸国なので、食卓にのぼるのは川か湖で採れた魚だけ。
たまに海の魚を食べる機会があっても、塩漬けされたものか干物ばかり。
よって、私たちはソネットに来ることを楽しみにしていたのだ。
ソネットに来た目的は乗船だけれど、いまばかりは『海の幸を心行くまで堪能すること』が全員の最優先事項。
期待に胸を膨らませつつ、私たちは魚市場目指して歩き出した。
「――ぎゃあああああ！！？」
十歩も歩かないうちに、前方から野太い悲鳴が聞こえた。
尋常ではない悲鳴だった。日常生活の中であんな叫びを聞くことはまずない。
よほどの非常事態が起きていると察し、私たちは瞬時に表情を引き締めて悲鳴の主を探した。
「あそこ！」
エミリオ様が指さしたのは海に突き出ている木製の桟橋。
桟橋にはついさっき着いたばかりと思われる小舟があり、小舟の前に四人の若い男女がいた。内訳は男性が二人、女性が二人。
男女が硬直して見つめる先は海面だった。
桟橋のすぐ近くの海面から、白い何かが飛び出している。
丸太のように太い『それ』には丸い突起状の器官がたくさんついていて、ぐねぐねと不気味に蠢きながら桟橋の上を這った。
――あれは何？ 海洋生物の一種？ それとも、魔物？
考える暇もなく、フィルディス様が飛び出した。
私とエミリオ様を置き去りにして、あっという間にその背中が小さくなる。
「大変だ！！」
「クラーケンだ！！ クラーケンが出たぞ！！」
現場を目撃した人々が悲鳴じみた声で叫び、平和な港町は大混乱に陥った。
海とは逆方向に逃げる者が大半だったが、正義感あるいは野次馬根性丸出しで桟橋に向かう者もいた。
「リーリエは避難して！」
フィルディス様の後を追って走り出しながらエミリオ様が叫んだ。
「いいえ、私も行きます！」
私にはもう何の力もないけれど、一人だけ逃げることなどできるはずもない。
「リーリエに何あったらぼくがフィルに殺されるっていうのに……あーもう、仕方ない。絶対にぼくの傍を離れないでよ！」
「はい！」
エミリオ様は走る速度を落として私の手を掴み、私を引っ張ってくれた。
見れば、桟橋にいた人々はほとんどが避難を完了していた。
しかし、一人だけ、小舟の前で蹲っている赤髪青眼の女性がいた。
予期せぬ怪物の登場で腰が抜けてしまったらしい。
一緒にいた三人は彼女を置いて逃げたのかしら。
私がそう思ったのと同時、クラーケンが彼女の足に巻きついた。
赤髪の女性は引きずり倒され、海へと引っ張られた。
死を目前にして生存本能が働いたらしく、赤髪の女性は必死の形相で桟橋のへりにしがみついた。
それはあまりにもささやかな抵抗だっただろう。
ほんの数秒、海に落ちるまでの時間を稼いだだけにしか過ぎない。
――だが、そのささやかな抵抗が赤髪の女性の生死を分けた。
瞬きした次の瞬間、白刃が閃いた。
間一髪で駆けつけたフィルディス様は剣の一振りでクラーケンを切断した。
海に沈んでいくクラーケンを無視して、フィルディス様は桟橋から身を乗り出し、腰まで海に浸かった赤髪の女性を引き上げた。
桟橋に座り込んだ女性にフィルディス様が屈んで何か言った。
赤髪の女性は安心したように笑ったものの、すぐにその顔を引き攣らせた。
水しぶきを上げて、海中から新たなクラーケンが現れたのだ。
しかも四体――いや、フィルディス様の背後にもう一体！
完全に死角だったにも関わらず、フィルディス様はまるで背中に目でもついているかのような動きをした。
電の速さで剣を振るって四体のクラーケンを瞬殺し、振り向きざまもう一体のクラーケンを両断する。
直後、豪快な水しぶきと共に海中から白い怪物が現れた。
大きい。見えている上体部分だけでも五メートルはある。
半分透き通った、ぬらぬらと光る白い体表。
膨らんだ頭に黒光りする不気味な眼球。海中から突き出した三本の足。
その姿を見て悟る。
私たちが見ていたのはクラーケンの『本体』ではなく『足』の部分だったのだ。
巨大なクラーケンの体当たりを受け、桟橋は呆気なく崩壊した。
崩壊に巻き込まれたフィルディス様は庇うように赤髪の女性を抱きしめ、彼女諸共海に落ちた。
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