03:精霊という存在
一面の緑が目の前に広がっていた。
左手には山々の稜線が、右手にはちょっとした森がある。
緑を貫くようにして走るのは石畳が敷き詰められた大街道。
ハスタ大陸の物流の大動脈と言える大街道の先には立派な門がある。
あれはこの辺りの交通を取り仕切るビオラード関所だと、フィルディス様が教えてくれた。
ビオラード関所を通過すれば大陸の東部地区、関所を避けて左の山道を進めば西部地区に入ることになる。
「ぼくが戻るまでどこに行きたいか考えといてね。ハスタ大陸を出て海を渡るっていうもありだよ。どこへ行くのもリーリエの自由だ。ぼくたちはリーリエについていくだけだからさ」
エミリオ様はそう言った後、再び長距離転移魔法を使って姿を消した。
あまりにも急な旅立ちだったため、いったん自分の家に戻って荷物をまとめてくるそうだ。
エミリオ様は国一番の魔法の使い手。
いざとなれば姿や足音を消す魔法が使えるため、仮に兵士が家の前を見張っていようと捕まる心配はないだろう。
たとえ大勢の兵士に囲まれようと、彼は魔法の一発で蹴散らすことができる。
そんなわけで、私は特にエミリオ様を心配することなく、フィルディス様と他愛ない会話をしながら草原を散策していた。
季節は春。
長い冬を耐え抜いた草花が、そこかしこで花を咲かせている。
特にルピナスの花畑は見事だった。
紫色の花穂を蒼穹に向かってまっすぐ伸ばすその姿は、この一週間、立て続けに悲しい出来事が起こって折れかけた私の心を励ましてくれているようにも思えた。
フィルディス様がついさっき起きたばかりの決定的な出来事――追放の一件に触れないのも私への配慮だろう。
気遣いがありがたい。おかげで私は笑うこともできた。
「あ。エンジュソウだわ。ライネもある」
野に咲く草花の中に薬草を見つけて足を止める。
「エンジュソウ?」
「はい。これです」
屈んでエンジュソウとライネを摘み取り、立ち上がってフィルディス様に見せる。
「乾燥させたこの葉を煎じて飲むと、風邪によく効くんですよ。エンジュソウには止血作用もあります。手元に薬がないときは揉み潰した汁を塗ると怪我が早く治ります。こっちの草はライネという薬草です。腹痛、頭痛、発熱などに効きます」
「へえ。リーリエは物知りだな」
「全て精霊たちが教えてくれたことなんです。《聖紋》を失った私はもう精霊たちと交信することはできませんが、彼らとの思い出や、彼らが教えてくれた知識はいまもこの胸に残っています。彼らと語り合い、笑い合った、あの奇跡のような三年間は、生涯忘れることはないでしょう」
レムリア教会の教えによると、遠い昔、この世界は呪いをまき散らす強大な悪魔王によって滅びかけていた。
多くの神々が旅立つ中、ただ一人、慈愛の女神レムリアだけがこの世界を見捨てなかった。
レムリアは己の力の大半を使って悪魔王を封じた後、残った力を『精霊』という形で世界に解き放ち、長い眠りについた。
精霊は魔力の塊であり、女神レムリアの愛と祝福の証。
精霊に愛された国は大いに栄える。
逆に、精霊がいなくなれば衰えると言われている。
精霊たちは黄金の光を放つ小さな粒子として自然発生する。
ただの光の粒子だった精霊たちは月日と共に成長して自我を持ち、やがてそれぞれ形を成す。
精霊たちと交信できるのはレムリアと同じ《聖紋》を持つ聖女だけ。
エミリオ様のような魔法使いは大気を漂う光の粒子を『魔素』と認識し、魔素を消費することで魔法を使っている。
聖女だった頃、私は『光の粒子の状態とはいえ、同胞が魔素として人間に消費されても気にならないのか?』と精霊に尋ねたことがある。
有形精霊ならともかく、自我のない光の粒子の状態の精霊なら気にならないというのが精霊たちの答えだった。
――私たち精霊は女神の慈愛によって生まれた女神の恵み。
動植物の糧となるために生まれてきたのだから、糧となることを否定することは存在理由の否定に繋がってしまう。
ただし、成長して自我を持った後は話が違う。
自我を持てば人間と同じように、相手に対する好悪や愛憎といった感情も生まれる。
感謝もなく、一方的に命じて使役しようとする人間は嫌いだ。
でも、リーリエのことは好きだと、これからもずっと一緒に居たいと、精霊たちは口を揃えてそう言ってくれた。
涙が出るほど嬉しかった。私も精霊たちと共に居たいと思った。
――でも、夢の時間は一週間前に終わりを告げた。
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