第3話(完) 祝いの日
Dec 23, 09:45|(EST)
翌朝、昌彦は臨床試験を依頼している
何か緊急事態だろうか。電話では伝えられないようなこと。何だ。まさか、患者さんに重篤な有害事象でも発生したのか。あるいは、まさか、まさか、日本の家族に何かあったのか。
顔から血の気が引くのを感じながら、昌彦は車を走らせた。気は急くが、事故でも起こしては大変だ。未だに右側通行には違和感がある。深呼吸を繰り返して何とか気を落ち着かせる。速度を上げ過ぎないように、周囲に気をつけて事務所のあるビルへと向かう。駐車場に車を停め、玄関へ、エレベーターホールへと走る。上に行ったばかりのエレベーターを待つのももどかしく階段を駆け上がる。自分のオフィスに寄って椅子の上にブリーフケースを投げ出し、コートを脱ぎ捨て、ボスの部屋に向かう。
廊下ですれ違った仕事仲間の挨拶にも短く言葉を返すだけで、半ば走るように急ぐ。ボスの部屋の扉にたどり着いてトントントンと大急ぎでノックをする。「どうぞ」と返事を待つのももどかしく、駆け込むように中に入ると、前室でボスの秘書のスーザンが笑っていた。
「ハイ、マサ」
「ハイ、スーザン。ボスはいる?」
「もちろん。お待ちかねよ」
「御機嫌はどう?」
「自分で確かめた方がいいと思うわ。どうぞ入って」
スーザンは笑顔のままだ。その笑みを見て少し落ち着いたが、有能な秘書殿は自分の態度で上司の気分を漏らすようなことはしない。緊張を緩めてはならない。
「ありがとう」
そう返事をして執務室のドアの前に立ち一度大きく深呼吸をしてから、軽く握った拳でドアを四回叩く。ゆっくり丁寧にノックしようと思ったが、どうしてもアップテンポになってしまう。
「入れ」
「失礼します」
部屋に入ってドアを閉め、ボスの
驚いたことに、アレックスはそこに座っていなかった。自分の大きなデスクの前に相手を真っ直ぐに立たせるのがいつものボスのやり方なのだが、昌彦がドアを開けた時には既に立ち上がり、デスクを回って大股で近付いてきていた。
除隊してから随分と立つ今でもトレーニングを欠かさない高い背の逞しい体、余分な脂肪の無い引き締まった顔は口を厳しく閉じ、武骨な黒縁の眼鏡のレンズの下では落ち窪んだ眼の中で青い瞳が光っている。
これは余程の事があったに違いない。
すぐ目の前に立ったボスの口から出てきたのは、思いもかけない言葉だった。
「マサ、独立デー
「委員会から? 打ち切りですか?」
まさか、死亡例でも出てしまったのか。昌彦の目の前が昏くなっていく。
これまで十何年も共に苦労を重ねてきた研究チーム、臨床チームのメンバーの、日本に残してきた家族の、そして救えなかった我が子の顔が浮かんでは消えていく。
もう、おしまいだ。
昌彦がそう覚悟した時、すぐ目の前に立ったアレックスの顔が崩れ、右手を勢いよく突き出してきた。つられて出した昌彦の右手を力強く握り、その上に左手を重ねた。
「ああ、そうだ! 新規患者組み入れの中止と実薬群の投与継続、対照群の患者さんの実薬への切り替えだ!」
「それは、つまり」
「大成功だ! 現時点で奏効率70%、悪化例は無し、明確な有効性が確認されて、早期終了か勧告された。現データでの
アレックスの言葉と痛いほどに握られた手の強い力との意味を理解するのに何秒かが掛かった。そしてそれが分かった時に、幼くして亡くなった美音と、その亡骸を抱き締めながらむせび泣く妻の姿が再び目の前に蘇った。
試験成功の喜びより先に湧き上がったのは、あの時と同じ哀しみだった。目頭を熱くしたものがたちまち目から溢れて零れ落ちていくのを止められない。ごめんよ。この薬があの時にあれば助けられたのに。間に合わなかった。間に合わせられなかった。
気が付くと、両肩の上に、アレックスの逞しい手が乗せられていた。力強く引き寄せられ、抱き締められ、背中を叩かれる。
「マサ、君をチームに戻すために会社の方針を変更したCEOの英断が実ったんだ。亡くなった娘さんのことは本当に気の毒に思う。辛かっただろう。だが、君は挫けずにやりぬいた。これから君は多くの子供たちを救うんだ。娘さんは、きっと、君のことを誇りに思っている。他の御家族もそうだろう。そしてもちろん私もだ。よくやった、マサ」
「……ありがとうございます」
昌彦が何とか礼の言葉を絞り出したところで、アレックスはやっと
デスクに戻り、大きな椅子に音を立てて座る。昌彦は自然に足を動かし、いつものようにその前に立った。
「さて、これで我々のやるべきことが全く変わった。早期承認取得に向けて、これからは
「はい」
昌彦が真剣な顔で頷くと、ボスは「だが、その前にひとつ面倒な事ができた」と言ってにやりと笑った。
「面倒な事、ですか?」
「ああ。TOKYOのCEOにメールで知らせたら、直接説明をして欲しいと即座に返信が来た。日本は夜中だろうに、彼も御苦労なことだ。生憎、私は共同開発相手のお偉方やキーオピニオンリーダーの先生方との打ち合わせで手一杯になる。というわけで、TOKYOは君に任せる」
「了解です。すぐにテレカンファレンスの予定を組みます」
「テレカン? 何を言っているんだ。彼らがそんなもどかしいもので満足するはずがないじゃないか。F-to-Fに決まっているだろう」
「
「ああ。TOKYOは任せる、と言ったろう? 今すぐに飛んでくれ。スーザンに最速の
「いや、それについては今さら
「言ってくれるじゃないか。まあいい、急いでくれ。ホームに戻るんだ、体一つで十分だろう。ああ、ラップトップは忘れるなよ」
「わかりました」
「明日の夕方には着くからその足で本社に行くんだ。会議室のセッティングは向こうが引き受けてくれた。
「もちろんです」
「君は
「はい、そうします」
「何か質問はあるか? 無ければ、すぐに出発してくれ。美人の奥さん、可愛い娘さん、息子さんによろしくな」
「はい、では」
「うむ」
どこか夢の中のようなふわふわした足取りで昌彦が執務室から前室に戻ると、スーザンは今度は職業用ではない満面の笑顔で迎えてくれた。
「マサ、JFKを12:40の便が取れています。eチケットはもうメールで送ってあります」
「わかった。すぐに確認する」
「御家族へのおみやげも忘れずに。アスターチョコレートなら、空港にも売店がありますよ」
「スーザン、何から何まで、ありがとう」
「どういたしまして。マサ、おめでとうございます」
「ありがとう」
片手をあげて軽く振って、昌彦は部屋を軽やかな靴音と共に出て行った。扉が閉まったかと思うとまた開き、顔だけをのぞかせる。
「スーザン、メリークリスマス!」
「ありがとう、あなたも、ご家族と良いクリスマスを」
再び扉が閉まり、廊下を急ぐリズミカルな靴の音が響いて小さくなって消えていく。まるでプレゼントを配り終わって先を急ぐサンタクロースの橇の鈴のようね、とスーザンはくすりと笑いをこぼしてコンピュータに向き直り、仕事を再開した。
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From: 昌彦
Title: 明日帰る
「仕事の状況が変わって、急遽帰国することになりました。明日の夕方、本社に行ってから帰ります。本社を出る前に電話します。」
From: 直美
Title: Re: 明日帰る
「了解。子供達には内緒にしておくから、驚かせてあげて下さい。」
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12月24日 19:00(JST)
「ねえ、お母さん、今年のクリスマスケーキ、随分と大きくない?」
「ええ、二人とも去年より大きくなったから、大きいサイズにしたのよ」
「三人で食べきれないんじゃない?」
「大丈夫だよ、僕が沢山食べるから。いらないなら、お姉ちゃんの分も食べてあげるよ」
「そんなこと言ってないでしょ!」
「ねえ、お母さん、お料理は? まだなの? 僕、手伝うよ。良い子だから」
「今頃点数を稼いでも、手遅れだよ。サンタさんはもうプレゼントをあげる子を決めちゃってるよ」
「お姉ちゃん、うるさい! そんなんじゃないもん」
「あやしいもんね」
「ほらほら、口喧嘩しないの。ごめんね、お母さん、ちょっと失敗しちゃったからもう少し待っててくれる? 今日は少し夜更かししてもいいから、遊びながら待っててちょうだいね」
「わかった。陽翔、お母さんの邪魔にならないようにあっちで遊ぼう」
「うん! お父さんも一緒にいればいいのにね。四人で遊べればいいのに。僕、今度お父さんに言ってやろう。早く帰ってこないから一緒に遊べないし、ごちそうも食べられないんだよ、って」
「あらまあ。とにかく、もう少し待っててね」
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12月24日 20:00(JST)
本社での会議は、幸いなことに一時間ほどで終わった。昌彦が羽田空港からタクシーをとばして会社につくと、ビルの入り口で待ち構えていた研究所長に手を引かれるようにして会議室に連れ込まれた。そこにはCEOや研究開発本部長を始め、研究開発結果へのアクセス権がある首脳陣が全員既に待ち構えていた。室内に入るや否や一斉に笑顔で拍手を浴びせかけられ、昌彦は思わず後退ってしまった。
試験結果のプレゼンテーション後に
自宅の最寄り駅で電車から降りると、同じように帰宅を急ぐ人の群れが周囲に溢れた。帰り道のどこかで買い物をしたのだろう、緑と赤のクリスマスカラーの紙袋を手から提げている人も多い。
改札口を出ると、駅ビルの入り口ではクリスマスケーキの箱を積んで、売り子がガラガラになった声を張り上げていた。BGMにクリスマスソングを大音量で響かせている。その曲が変わり、静かな歌声で、耳慣れない、しかしどこか懐かしい歌詞が流れてきた。
幾年もの昔、雪の夜
全ての人の罪、背負わんと
清らなる神の御子生まれたり
悲しみにくれる民に言いたもう
民人よ、嘆くなかれ
我つねに共にあらん
ああそうだ、あの子が歌っていたんだ。あの冬の日、あの広場で。美音を失い、二人が別れるはずのあの時に、あの不思議な少女が。
あの子のお蔭で、僕たちはやり直せた。そして風花が生まれ、陽翔が生まれた。美音もいつも僕達の中にいる。
あの子も幸せでいるだろうか。そうであって欲しい。きっと、きっと幸せであるように。
立ち止まって耳を傾け、また歩き出す。駅前のロータリーでバスに乗り、家の近くのバス停で降りた時にも、まだその歌は耳の中で響いていた。
いつしか
またこの年も早や逝かんとす
喜びはひと時のことなれど
悲しみも
祝いの日共にせん
イルミネーションが輝く表通りから、街灯と家々の窓に光が灯る横道へと歩く。おりから降って来た花びらのような雪の中を、家へと急ぐ。
大切な家族の所へと急ぐ。
苦しみ悲しみは神に任せ
喜び楽しみを共にせん
今一度手を繋ぎ
明日の日を共にせん
心より待ちわびし
祝いの日共にせん
たどり着いた我が家の前に立ち、チャイムを鳴らす。
「あら、誰かしら。風花、陽翔、インターホンで見てくれる?」
「はーい」「はーい」
心より待ちわびし
祝いの日共にせん
祝いの日 花時雨 @hanashigure
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