第2話 写真

12月23日15:45(JST)


「ただいま」


 家の扉を開けて、少女が声を掛ける。奥の方から、「おかえりなさい」「風花姉ちゃん、おかえりー」と返事が聞こえた。

 脱いだ靴を靴箱に片付けていると、仕事部屋から母親が出てきた。


「風花、おかえりなさい。今日は何か変わったことはあった?」

「ううん、別に」

「そう。体操着は洗面所に出しておいてね。手を洗ったら、リビングのテーブルの上におやつを出してあるから。ミルクは自分で温めてくれる?」

「わかった。お母さんはまだ仕事?」

「ええ。これから会議があるから、5時までそっとしておいてくれるかしら」

「うん」

「おやつを食べ終えたら、宿題をきちんとしてね」

「わかってる」

「もし陽翔はるとが宿題にてこずっていたら、悪いけど、見てあげてくれる?」

「いいよ。お仕事頑張ってね」

「ありがとう。じゃあ」


 風花は仕事部屋に戻る母親に手を振ると、洗面所に向かった。手提げ袋から体操着を引っ張り出して洗濯かごに入れ、手洗いとうがいを済ませると自分の部屋に入る。ランドセルを置き、お気に入りの裏起毛のスウェットの上下に着替えてからその上に白いタートルネックのセーターを被って台所に行った。

 冷蔵庫から牛乳のパックを出し、食器棚から自分用のマグを取って注ぐ。父親がアメリカに出向する前に作った、みんなの写真が入った家族でお揃いのマグだ。そこに自分用の印として、六弁の雪の結晶の絵のシールを貼って使っている。

 電子レンジで温め終わり、取り出して台所と繋がっているリビングに行くと、弟の陽翔はるとがいた。ちょうどおやつのスイートポテトを食べ終わったところのようで、太陽のシールが付いた自分のマグのミルクを一口飲むと、姉に向いた。気づかないのか気にしないのか、口の周りに白い輪がついたままの顔がいかにも幼い。


「風花姉ちゃん、サンタさんに何をお願いした?」


 姉の同級生たちと違って、低学年の弟にはサンタクロースの存在を疑う様子は微塵もない。

 風花はリビングテーブルの、弟の隣の自分の席の前にマグを置きながら答えた。


「まだ考えているところ。口の周りにミルクが付いてるよ」

「ふーん。僕はねえ、戦隊ロボ! 新しく登場した、カッコいいやつなんだ」


 言いながら服の袖で顔を拭こうとする。風花は慌ててその手を掴むと、テーブルの上のティッシュケースから一枚を急いで取り、弟の顔を拭いてやった。


「服を汚したら、お母さんの仕事が増えちゃうでしょ。良い子にしてないと、サンタさんは来てくれないよ」

「そっか」


 無邪気に、口を開けて「あはは」と笑った後に「ありがと」と言ってから、陽翔はつけ加えた。


「風花姉ちゃんは良い子だから、楽勝にプレゼントをもらえるね」

「そんなことないよ」


 自分の言葉が姉の胸に突き刺さったことを知らずに、弟はミルクの残りに取り掛かった。


「(私なんか、今朝、酷いことを言ったのに。お父さんにもサンタさんにも)」


 風花が心の中でつぶやいて目を逸らすと、テレビの横に置いてある写真立てが目に入った。その前には、自分の前にあるのと同じスイートポテトが供えてある。その横のミルクのマグは、音符のシール付きだ。

 風花は立ち上がってその前に行くと、写真の赤ちゃんに向かって手を合わせ、心の中で話し掛けた。


「(美音お姉ちゃんは、一度もクリスマスプレゼントをもらえなかったんだよね)」


 風花は父親がアメリカに行く前に言い聞かされたことを思い起こした。


 写真の中の小さな姉が、生まれつきの病気で早くに亡くなったこと、お父さんはその病気を治す薬を作るために、アメリカに行くこと。あちらこちらのお医者さんに会ってその薬を試してもらうようにお願いしなければならないので、なかなか帰ってこられないだろうこと。しばらくの間、会える回数が減るけど、毎週一回は必ずお母さんのパソコン越しにお話しできること。淋しいだろうけど、お母さんと陽翔と仲良くして元気で過ごすと約束して欲しいこと。お父さんもとても淋しいだろうけど、患者さんのために、そして早く家族みんなの所に帰ってくるために、一生懸命頑張ると約束してくれたこと。

 陽翔はお父さんの話が良くわからなくて、お父さんがいなくなることだけがわかって、大泣きしていた。自分も泣きたかったけど、「行かないで」と言いたかったけど、一生懸命に歯を食いしばって我慢した。


 思い出すと、また泣きたくなってきたけれど、大きく深呼吸してこらえた。


 先週にお父さんと画面越しにお話した時には、陽翔が「一緒にクリスマスパーティできる?」と尋ねていた。お父さんは困ったような悲しそうな顔で、「ごめん。でも、お正月の前には必ず帰る」と言っていた。

 も少しの辛抱だ。お父さんは約束を破らない。もうすぐ会える。そしたら、ぎゅっと抱き締めてもらえる。美音お姉ちゃんは、もう二度と、お父さん、お母さんに抱っこしてもらえないのだ。


「(お父さんは、お姉ちゃんみたいな子のために、一生懸命頑張ってるんだよね)」


 風花は手を合わせながら誓った。


「(お姉ちゃん、ごめんなさい。お父さん、ごめんなさい。明日の朝、登校班のみんなにもあやまります)」


 お母さんがいつか言っていた。お姉ちゃんは、今は神様と一緒にいるのだと。それなら、サンタさんもすぐ近くにいるかもしれない。


「(お姉ちゃん、サンタさんに伝えてください。私は悪い子でした。プレゼントはいりません。でも、お父さんは約束を守って頑張ってます。どうか、お父さんに良いことがありますように。お父さんが助けようとしている患者さんに良いことがありますように)」


 長く祈っていると、後ろから弟の声が聞こえた。


「お姉ちゃん、ミルクが冷めちゃうよ」


 振り返ると、陽翔がまた口の周りを白くしていた。


「スイポテ、いらないのなら僕が食べても良い?」

「いるに決まってんでしょ」


 風花はテーブルに戻ってもう一枚ティッシュペーパーを取った。

 もう一度陽翔の顔を拭いてから、自分のミルクとスイートポテトに手を合わせる。


「いただきます」


 そして「(お父さんが元気で帰ってこられますように)」と心の中で付け加えて、マグを口に運んでまだ湯気が立っているミルクを飲んだ。

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