第21話 芸能と商売は似ている
拓真は、勝俵蔵から名付けられたペンネーム「久坂春景」を手にしたその日、心に深く刻まれる思いがあった。名は力を持つ。これからはその名を背負って、役者たちの舞台を形作ることになる。彼の心の中には、まだ若干の不安が渦巻いていたが、それでもこの名に恥じぬよう努力しなければならないと、強く決意を新たにした。
数日後、拓真は再び俵蔵の元へ足を運んだ。俵蔵は、拓真が初めて作り上げた狂言作品「
「おお、来たか。どうだ、春景。あれから何か感じることはあったか?」
拓真は、目を輝かせて答えた。
「はい、先生。あの後、何度も台本を読み返し、舞台の上でのことを考えました。こうしたい、ああしたい、という思いがどんどん湧いてきて。それに、私自身も、もっと俳優たちと近づきたくなってきました。」
俵蔵は頷きながらも、どこか冷静な目で拓真を見つめていた。
「良い心掛けだ。だが、あまり舞台の中に入り込み過ぎるな。あくまで、お前が作るのはあくまで“台本”だ。その枠を守らねば、舞台も混乱する。」
拓真はその言葉に、深く胸を打たれた。蔵が言う通り、脚本家としての責任を全うすることが何より重要だ。役者や舞台スタッフとは違う立場にいるからこそ、冷静でいなければならない。それを肝に銘じ、拓真は頭を下げた。
「はい、先生。その点はしっかり守りながら、取り組みます。」
その後、俵蔵は他の役者たちと共に舞台の稽古を行うことになった。拓真は、裏方としてスタッフたちと一緒に舞台を支えるために手を貸した。蔵はその間、拓真に特別な指示を与えることはなく、ただ見守っていた。
日が経つうちに、拓真はようやく自分の立場を理解し始めた。役者の息遣いや、台詞の間合い、そして音楽との絡み。これら全てが、一つの物語を作り上げるために不可欠な要素であり、脚本家としてそれを知っておかなければならない。拓真は、舞台に立つ役者たちの演技を見ながら、何度もメモを取った。
ある日、俵蔵がふと、舞台の稽古中に拓真に声をかけてきた。
「春景、登場人物たちの感情の変化にもっと深みを加えたほうがいい。」
拓真はその言葉を真剣に受け止め、何度も書き直しを行った。人物たちの心理描写を丁寧に追加し、それぞれの行動により説得力を持たせるよう心がけた。
「舞台では、言葉以上に“間”が大事だ。言葉にしなくても、役者の表情や態度が全てを物語る。だが、それを引き出すためには、台本がしっかりしていなければならない。」
そう教えてくれた蔵の言葉を胸に、拓真は脚本にさらに磨きをかけた。彼はまだ若いが、確かな足取りで成長を遂げていった。
その頃、美鈴は父の宗右衛門とともに日々の商売を切り盛りしながらも、拓真を支え続けていた。商人としての冷静さと、拓真に対する優しさを併せ持つ美鈴は、彼にとってかけがえのない存在だった。ある日の夜、二人はまた、町の小さな茶屋でひとときを過ごしていた。
「拓真さん、最近忙しそうですね。舞台のことが心配になっていませんか?」
美鈴は柔らかく問いかけた。
拓真は少し驚いた顔で答えた。
「忙しいけれど、大丈夫です。勉強になっていますし、先生にもいろいろと教わっていますから。」
「そうですか。でも、無理はしないでくださいね。商売でも、やりすぎると失敗しますから。」
拓真は少し微笑んだ。
「美鈴さん、商売のこと、よく分かっていますね。」
美鈴はほんの少し照れくさそうに笑った。
「商売も舞台も、どこか通じるところがありますから。」
その言葉を聞いた拓真は、改めて彼女の言葉に耳を傾けるようになった。商売で学んだ教訓が、舞台作りにどれほど重要なものであるかを、少しずつ実感していった。
そして、最終的に舞台が完成し、上演が決まる日が訪れた。その舞台は、拓真の初めての作品であり、彼にとっては大きな一歩となる瞬間だった。
「君の脚本は、いい出来だ。あとは、どれだけ役者がそれを表現できるかだ。」
俵蔵の言葉に、拓真は自信を持って頷いた。
舞台が始まると、拓真は舞台袖で、興奮しながらも冷静にそれを見守った。役者たちの演技、音楽の響き、そして観客の反応。全てが一つの大きな物語を形作っていた。そして、その中で拓真は確信した。
自分の名前、久坂春景という名は、これからも舞台の上で生き続けるのだと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます