第20話 新たな名前
ある日のこと。拓真は、勝俵蔵に呼ばれ、いつものように俵蔵の家に足を運んだ。そこは静かな和室で、縁側の向こうに青々とした竹が見える。俵蔵は、その室内で静かに考え事をしている様子だった。拓真はいつも通りに一礼してから、座布団に腰をおろした。
「久しぶりだな。」
俵蔵が、しばらくの沈黙を破り、言った。
拓真は静かに「はい、先生。」と答えた。
俵蔵の言葉には、どこかしら深い意味が込められているような気がして、心の中で緊張が走った。
「お前、脚本の出来がだいぶよくなったな。」
俵蔵が続けた。その声はいつもと変わらず穏やかだが、拓真はその言葉にすでに安堵感を覚えていた。俵蔵が自分を認めてくれているという安心感だ。
「ありがとうございます、先生。」
拓真は頭を下げた。
だが、俵蔵はさらに続けた。
「だが、俺が言いたいのは、まだひとつお前には足りないものがある。お前の脚本は確かにいい、だがな、お前の名前じゃ、歌舞伎の世界では通用しない。」
拓真はその言葉に思わず息を呑んだ。名前とは、拓真にとってただの名札のことではなかった。自分の本名であり、これまでの全ての証でもあるからだ。しかし、俵蔵の言葉は冷静で、やはり理にかなっていた。
「名前というものは、商売にも関わってくる。お前の作品が舞台に乗るためには、名前も重要な役割を果たす。」
俵蔵は落ち着いた声で続けた。
「俺からお前にひとつ、名前を与えよう。」
拓真は驚き、言葉を失った。新たな名前を与えられる、という言葉の重さが、すぐには理解できなかった。だが、俵蔵は淡々と名前の由来を説明し始めた。
「
俵蔵は言った。拓真はその名前が響くように耳を澄ました。春景、という言葉には温かさがあり、また新しい始まりを意味するように感じられた。
拓真は、何も言えずにただその言葉を受け止めた。確かに、彼の中で何かが変わる瞬間だった。自分の名前が、ただの名札でなく、芸名としても扱われることが、どこか嬉しいような、重い責任を感じるような、複雑な思いを呼び起こしていた。
「この名前で行け。」
俵蔵は力強く言った。拓真はその言葉に自分の将来を託すような気持ちになった。
その後、拓真は久坂春景という名前で脚本を書き続けることになった。最初のうちは、まだ新しい名前に馴染めず、違和感を感じることもあった。しかし、次第にその名前が自分の一部となり、自分が本当に進むべき道を示してくれるように感じた。
ある日、拓真は美鈴と街でばったり会った。美鈴は、久坂春景という名前で活動していることを知っていた。彼女は少し驚きながらも、笑顔で言った。
「拓真さん、名前が変わったんですね。」
彼女の顔には好奇心と、少しの驚きが混じっていた。
拓真は少し照れくさそうに答えた。
「はい、新しい名前をもらいました。これからはこの名前で書き続けるつもりです。」
美鈴はその話を聞いて、深く頷いた。
「いい名前だと思います。春景、っていうのが素敵ですね。新しい一歩を踏み出す感じがします。」
拓真はその言葉を聞いて、心から嬉しく思った。彼は自分の選んだ道が、間違いではなかったことを実感していた。自信を持って前を向き、歩み始めることができるようになったのだ。
「ありがとうございます、美鈴さん。」
拓真は感謝の気持ちを込めて、そう言った。
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