第16話 「人間らしさ」

拓真は筆を走らせる手を止めることなく、勝俵蔵の言葉が心に響き続ける。嘘というテーマは彼にとって、決して簡単なものではなかった。だが、俵蔵が指摘したように、物語には「人間らしさ」が足りていなかった。その本質に触れなければ、ただの空虚な言葉の羅列になってしまう。


原稿に目を落としながら、拓真は深く息を吸い込んだ。嘘をつく人間が抱える「理由」をもっと掘り下げよう。なぜその人物が嘘をつくのか、それは自己防衛か、それとも他者への思いやりか? それぞれの人物が抱える心の葛藤、その背後に隠された感情を描き出さなければならない。そして、その嘘がばれた時に、どうしてその人物が動揺し、または冷静を装うのか。その「息遣い」を感じ取らなければならない。


拓真はじっと自分の手元を見つめた。そのまま、しばらく手が止まり、考え込んだ。思いつく限りの描写を思い浮かべ、登場人物の背景をさらに肉付けしていく。しかし、俵蔵の指摘はただ技術的なことに留まらず、人間の本質に迫るものであったため、拓真はその深さに圧倒されていた。


だが、ふと美鈴のことが頭をよぎった。彼女のことを思うと、拓真はどこかで心が軽くなり、また筆が進み始めた。


美鈴が見せた、あの微笑みを思い出す。その瞳の奥にある一瞬の不安、言葉にならない想い。それが、拓真には強く印象に残っていた。美鈴もまた、何かしらの理由で嘘をついているのではないかという思いが湧いてきた。それを描いてみよう。それが、この物語の中心に据えるべき要素なのではないかと感じた。


拓真はふと顔を上げ、窓の外を見た。夜空には星がちらほらと見え、冷たい風が部屋に流れ込んでいた。美鈴と過ごした時間が、今や懐かしく思える。あの茶屋での会話。美鈴は言葉にしない思いを持っている。それが何であるのかはわからない。しかし、拓真にはそれが明確に感じ取れた。彼女が抱える秘密、その背後にある「嘘」が、ひょっとしたら物語の鍵になるのではないか。


拓真は再び筆を取ると、美鈴のことを思い浮かべながら、一心に書き始めた。登場人物が嘘をつく理由を明確にし、彼らが抱える感情を丁寧に掘り下げていく。登場人物が嘘をつく瞬間、その顔に浮かぶ表情や、言葉に出せない沈黙を描写していく。その中に、美鈴の影を見つけることができるだろうか。


やがて夜が明け、拓真は原稿を一通り書き終えた。満足というわけではないが、少なくとも自分の力で掴んだ「人間らしさ」が、いくつかのシーンに反映されたことは感じ取れる。


そのとき、ふと誰かが部屋の戸を叩く音がした。拓真は驚き、筆を置いた。


「誰です?」


「宗右衛門だ。」


低い声が返ってきた。


拓真は立ち上がり、戸を開けると、宗右衛門が立っていた。彼の顔は少し疲れ気味だったが、いつもの穏やかな表情をしている。


「拓真、なにやら熱心に書き込んでいるようだな。」


宗右衛門は軽く微笑んだ。


拓真は少し驚いた表情を見せながらも、すぐに言葉を返す。


「はい、少しだけ。実は、昨日の勝先生からのアドバイスをもとに、物語を再構築しているんです。」


「ふむ。」


宗右衛門は歩み寄り、拓真が書いた原稿をちらりと見た。


「どんなに厳しいことを言われても、若い頃の苦しみや悩みは、必ず大きな糧になる。お前も、これからもっと強くなる。」


拓真は静かに頷きながらも、何かが胸に響くのを感じた。宗右衛門が言う通り、物語を描く過程は、まるで自分の内面を深く掘り下げる作業のようだった。それが、言葉を超えた真実に辿り着くための苦しみであり、楽しみでもあった。


「宗右衛門さん……」


拓真は少し気を落ち着けて、言葉を続けた。


「美鈴さんと会ったことを思い出して、物語に新しい視点を加えました。」


宗右衛門は興味深そうに耳を傾ける。


「美鈴さん、か。あの娘、いい子だろう。だが、お前もわかっているだろう、誰もが自分の心の中に隠し事を抱えて生きている。だからこそ、言葉で伝えることが大切なんだ。」


拓真は黙って頷いた。その言葉が、さらに彼の心に深く刻み込まれた。

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