勝俵蔵との出会い
第13話 拓真、舞台の鬼に遭う
拓真が「勝俵蔵」という名を耳にしたのは、ある芝居茶屋でのことだった。中村座の稽古場での疲れを癒そうと立ち寄ったその店は、役者や芝居好きの町人が集う場所だった。そこで歌舞伎好きの男の会話から漏れ聞いたのは、一風変わった筆者の噂だった。
「勝俵蔵?聞いたことないな。」
「お前、芝居を好きだってんなら名前くらい知っとけよ!あの人の書く芝居はすげぇぞ。脚本だけでなく、役者の動きや舞台の見せ方まで、まるで手のひらで踊らされてるみてぇな気分になるんだ。まだ立作者じゃねえが、今巷で人気となっている芝居の多くに関わっているという噂だぜ」
拓真は、いてもたってもいられず、話に割り込み、
「お話のところ、すみません。その勝俵蔵さんにお目にかかりたいのですが...」
会話に急に割り込まれたため、男は怪訝な顔をしながらも、
「勝俵蔵に弟子入りでもしたいのか?だが、難しいかもな、たいそう気難しいって話だ。『ただの芝居好きは来るな』って門前払いされるぜ。」
この言葉が、拓真の胸に火を点けた。筆を握る者として、役者たちを踊らせる物語を書きたい。そのための学びを求めるなら、勝俵蔵に会わない理由はない。
翌日、噂を頼りに、拓真は両国の奥まった通りにあるという勝俵蔵の住まいへ向かった。道中、彼は何度も立ち止まり、引き返そうかと迷った。だが心の中で、勝俵蔵の台本に触れたいという欲求がその迷いを打ち消していく。
たどり着いたのは、古びた木戸の家だった。薄暗い玄関口には提灯がかかり、「勝俵蔵」とは書かれていないが、芝居茶屋で聞いた通りの佇まいだ。意を決して戸を叩く。
「どちら様だい?」
現れたのは、くたびれた着物を着た中年の男だった。彼が勝俵蔵本人であると直感した。目元に鋭さがあり、全身から「ただ者ではない」雰囲気が漂っている。
「私は、狂言作者を志す者です。勝俵蔵様の噂を聞き、どうしてもお会いしたく……。」
「ふん、腕もねぇ奴が何しに来た。芝居ってのはな、好きだからってだけでできる仕事じゃねぇぞ。」
「それでも、勝俵蔵様のご指導をいただければ、私もきっと……。」
「ほぉ、指導なんて大層なことを俺に頼むのか。まぁ、面白ぇ。入れ。」
室内に通された拓真は、まずその異様なまでの書物の量に驚かされた。台本や江戸の暮らしに関する資料、さらには観客の反応を書き留めたらしき帳面まで、壁という壁が文字の羅列で埋まっている。勝俵蔵は、そんな資料の山から一冊を取り出し、拓真に投げ渡した。
「これ、読んでみろ。」
拓真が受け取ったのは、一見何の変哲もない台本だった。だが、目を通すうちにその奥深さに引き込まれる。役者の動き、舞台の装置、音楽の入りまでが緻密に指示されている。それは単なる物語ではなく、観客が舞台上で何をどう感じるかまで計算され尽くしているようだった。
「どうだ?」
「す、すごい……。まるで舞台が目の前で動いているようです。」
「それが芝居ってもんだ。客を飽きさせず、騙して笑わせて、泣かせる。それを一枚の紙から生み出すのが筆者の仕事よ。」
勝俵蔵は煙草に火をつけ、一服しながら続けた。
「お前、何か書いたことはあるのか?」
「はい。ただ、まだ……舞台には乗せられていません。」
「だろうな。坊主、役者の声を聞かずに書いた脚本なんてただの独りよがりだ。まずは役者を知れ。そして、役者と芝居を作れ。それができなきゃ、何を書いても意味がねぇ。」
その日、勝俵蔵は拓真に「最初の課題」を課した。それは短い台本を書くこと。そしてそれを、勝俵蔵が手配する役者に稽古させることだった。
「いいか、坊主。お前の書いた台本が役者を動かせなきゃ、それはただの紙切れだ。ここからが本番だぜ。」
その後の数日間、拓真は勝俵蔵の家に通い詰め、何度も台本を書き直した。勝俵蔵の指導は辛辣だったが、的確だった。
「この台詞じゃ役者は声を出せねぇ。もっと身体を使わせろ。」
「場面転換を考えろ。舞台は一枚絵だ。それをどう動かすかが狂言作者の腕の見せ所だ。」
「観客が何を見たいか、何を感じるか、それを最後まで考えろ。」
初めて役者たちが拓真の台本を演じた日、彼は言葉にならない感動を覚えた。自分が書いた言葉が、役者の声となり、身体となり、舞台の上で生きている。その瞬間、彼は確信した。これこそが自分の目指す芝居だと。
勝俵蔵はその様子を見て、ふっと笑った。
「坊主、まだまだだが……まぁ、一歩は踏み出せたな。これからが地獄だぜ。」
その言葉に、拓真は力強く頷いた。
この時はまだ、勝俵蔵が後の「大南北」である4代目鶴屋南北を襲名することを知らなかった。
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