第6話 拓真、中村座を訪れる
拓真が宗右衛門の家で過ごし始めてから、日々は穏やかに流れていった。江戸の賑やかな町並みが、家の外で広がっているのに対し、家の中は驚くほど静かで、落ち着いた空気が漂っていた。宗右衛門は商人としての重責を担っているが、家庭では温かく、静かな日常を大切にしていた。
拓真はその家で、昼間は書物を読んだり、商売に関する手伝いをしたりして過ごしていた。しかし、どこか物足りなさを感じていた。商人の家に育ったわけではない拓真にとって、その生活には心の中で何かが足りないように思えたのだ。
その日も、朝食を共にした後、宗右衛門が穏やかな声で話しかけてきた。
「拓真、今日は何をしようか?」
拓真は少し考え、宗右衛門に向かって、
「特に何も決まっていません。ただ、ここにいると、どうしても他のことをしてみたくなって…。」
宗右衛門は静かにうなずき、
「それなら、今日は中村座に行こう。あそこの座元、勘三郎殿と会うことができる。」と提案した。
拓真はその言葉に驚き、少し顔を上げ、
「中村座ですって?」
「そうだ。」
宗右衛門は微笑みながら答えた。
「勘三郎殿は、座元として、歌舞伎を作り上げている人物だ。お前も、何か新しい刺激を受けるかもしれぬ。」
拓真は、少しの間考え込んだ後、力強く頷いた。
「それなら、ぜひ行かせていただきます。」
そうして、二人は支度を整えてから家を出た。江戸の街中は、すでに朝の賑わいが広がっており、町の人々が活気に満ちて歩いていた。拓真はその景色を見ながら歩き、心が少しずつ高揚していくのを感じた。歌舞伎の世界を間近で見られるのだという期待が胸に膨らんでいった。
中村座に到着した時、その壮大さに拓真は圧倒された。大きな建物が目の前に広がり、周囲には豪華な装飾や細部にまで手が加えられた建物が並んでいる。その建物から漏れ出す灯りや、人々の声に、江戸の町が持つ独特の活気を感じ取ることができた。
中村座の入り口に立つと、宗右衛門が穏やかな声で話しかけた。
「勘三郎殿は、きっと忙しいはずだが、今日はきっとお前に会ってくれるだろう。」
宗右衛門の言葉通り、門の前で待っていた人物が近づいてきた。その男は、白髪交じりで、肩に豪華な衣装を羽織っていた。見るからに堂々とした雰囲気を持つ人物、それが勘三郎だった。
「おお、宗右衛門殿、久しいな。」
勘三郎は温かく笑い、手を差し出して宗右衛門と握手を交わした。
「今日はどうした?」
宗右衛門はすぐに拓真を紹介した。
「こちらが拓真。少し狂言作者に興味を持っているようだ。」
勘三郎は拓真を見て、しばらく無言でじっと見つめていた。その目は鋭くも温かさを感じさせるようなものだった。やがて、勘三郎は微笑みながら話し始めた。
「面白いことを考えているな。」
拓真は少し緊張しながらも、勘三郎の目を見つめ返した。
「はい、実は歌舞伎に興味があって、何か書いてみたいと思っています。」
「そうか。」
勘三郎は笑みを浮かべながら続けた。
「なら、少し舞台裏を見てみろ。舞台を知れば、きっと役立つものがあるだろう。」
拓真はその言葉に驚きつつも、感謝の気持ちを抱いて頷いた。勘三郎の案内で舞台裏に足を踏み入れると、そこは思っていた以上に忙しそうな場所だった。役者たちは衣装に身を包み、衣装合わせをし、道具を整え、舞台に向けて最後の準備をしていた。舞台の準備をしている裏方の動きは素早く、すべてが計画的に進んでいるようだった。
「見ろ、これが舞台裏だ。」
勘三郎は拓真に説明した。
「ここで、すべてが整えられ、役者たちは自分の役を作り上げる。そして舞台に立つ時、彼らの全てが観客に伝わる。舞台の上で何を表現するか、それが全てだ。」
拓真はその言葉を聞いて、ますます感銘を受けた。舞台裏での緊張感や役者たちの真剣な表情、そしてその一つ一つの動きに込められた情熱が、拓真の心に強く響いた。
「舞台は生きているんですね。」
拓真はふと口にした。
「その通り。」
勘三郎は深く頷いた。
「歌舞伎の舞台は、ただの芝居ではない。そこには命が宿っている。その命を感じることができる者が、本物の役者となる。」
拓真はその言葉を胸に刻みながら、舞台の準備を見守った。彼の中で何かが変わり始めていた。歌舞伎という世界の魅力に触れ、これから何かを創り出すための可能性を感じたのだ。その瞬間、拓真は自分が何を目指すべきかを、少しずつ理解し始めていた。
その時から拓真の心は歌舞伎の舞台に強く引き寄せられ、やがて彼が手掛ける作品の数々が、歌舞伎の世界に新たな風を吹き込むことになるのであった。
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