時を越えて―江戸の舞台への第一歩

第3話 日本橋蛎殻町に立つ

舞台の千秋楽から数日後、拓真は恒例となっている、劇団スタッフとの打ち合わせを終え、その帰り道、神田神保町にある書店でふと手に取った一冊の本に引き寄せられた。その本は、古びた装丁のもので、古書店の中でも、一見目立たないが、よく見ると異様な雰囲気を感じさせるものだった。


タイトルには「江戸歌舞伎脚本全集」とだけ書かれており、内容も古い文献や資料を集めたものだとすぐにわかった。


興味本位で買ってみたその本を、拓真は家に帰ってから早速開いた。ページをめくるたびに、江戸時代の歌舞伎に関する詳細な記録が出てきて、彼の興味はどんどん深まっていった。そのうち、眠気を感じる暇もなく本に没頭していた拓真は、次第に周囲の景色がぼやけてきて、意識が遠のくような感覚に襲われる。


目を覚ましたとき、拓真は全く別の世界に立っていた。彼は驚き、周囲を見回す。自分がどこにいるのか、まるでわからなかった。今までの世界が夢のように遠く感じられる。彼は混乱しながらも、歩き出す。足元には江戸時代の町並みにふさわしい土を踏み固められた道が広がっており、遠くから聞こえる町の賑わいが、まるで時代劇のように感じられた。


「これは…一体、どういうことなんだ?」


拓真は思わず自分の服を確認する。現代のジャケットとジーンズに身を包んでいるが、周囲には彼のような服を着た者は一人もいない。皆、着物や紋付き袴などの衣装をまとっている。


「まさか…タイムスリップ?」


拓真はその言葉を口にし、しばらく立ち尽くした。しかし、次第にその状況が現実であると理解し始める。


近くで行商している男が、拓真を見て不審そうに眉をひそめた。


「おい、あんた、何でぇその格好は?」


拓真は慌てて答える。


「え、えっと…私、どうも道に迷ってしまって」


「そうかい、ここいら掏摸スリが多いから気を付けるんだよ」


男は一瞬疑いの目を向けたが、すぐに無関心な表情に戻り、再び商売を始める。


拓真は一息つきながらも、自分がどのようにしてこの世界に来たのか、全く見当がつかなかった。


その時、遠くから響く大きな鐘の音が耳に届いた。それは時の鐘であった。


拓真はふとその音を聞いて自分の足元がしっかりしてきたような気がした。


「ここがどこだか分からないけれど、何か手がかりを探さなければ。」


拓真は歩きながら、近くの人々に話しかけることに決めた。まずは、この世界の様子を知るために、街を歩いてみようと思った。近くにいた男に声をかける。


「すみません、ここはどこですか?」


その男は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに答えた。


「おや、あんた、見慣れない恰好だね、ここは日本橋蛎殻町にほんばしかきがらちょうだよ。」


「日本橋蛎殻町…」


拓真はその名前に心の中で何かがひらめく。「日本橋蛎殻町」は、確か今の人形町であったはずだと。


その後、何時間か歩き回っているうちに、拓真は商人や町の人々と話をする中で、次第に自分の状況を理解し始めた。時代は化政期、江戸は盛りを迎え、商人たちが町を支配している時代だった。拓真は、これが歌舞伎や演劇の発展していた時代であることに気づく。


確か、蠣殻町のそばには中村座や市村座があったはず。と拓真は考えた。


拓真が混乱と興奮の入り混じった心境の中で歩みを進めると、江戸の街並みに見慣れた商家や道具屋が並ぶ光景が広がっていった。時代の空気に圧倒される中、彼の頭の中には一つの考えが浮かんだ。自分がタイムスリップしてきたのは、まさに歌舞伎の黄金時代、化政期の江戸だということが、次第に確信に変わってきた。


「もしこれが本当に江戸時代なら、僕が目指している舞台も、まさにこの時代に生まれたものだ。ここで歌舞伎の伝統を直接感じることができるなんて…」


拓真は自分が抱えていた不安や疑問を徐々に克服し、むしろこの時代に迷い込んだことに興奮を覚え始める。江戸の町は活気に満ちており、町人たちが行き交い、劇場の近くでは役者たちが着物姿で歩く姿も目にすることができた。


そして、拓真はある決心を固めた。歌舞伎の世界に飛び込んで、その真髄を学ぶことこそが、現代に生かせる新たな視点を得る手段だと考えたのだ。もし、この世界が本物ならば、彼はその芸能に触れ、未来の作品に活かすべきだろうと心の中で誓った。


しかし、未来から突然やってきて、手持ちも何もなく、当時からすれば奇怪な恰好をしているため、自分の現代的な姿がどれだけ浮いているか、改めて実感した。それでも、彼は冷静を保とうと努めた。今はどうするべきか、それを考えなければならなかった。


そのようなことを考えながら、辺りを逡巡していると、


「もし、そこの方、珍しい恰好をしておられますが、どちらからお越しで?」


そう声をかけたのは、年のころ40歳過ぎの商人風の男であった。


髪はきちんと結い上げられており、深い藍色の絹の着物。生地の質感は滑らかであり、月明かりの下でほのかに光るような陰影を帯びている。袖口から覗く手は、白い布で覆われているが、決して薄汚れてはいない。腰には、黒い帯がしっかりと結ばれており、帯締めの色は深緑。飾り気はないが帯の端にほんのわずかな金糸が走っている。足元には、木履を履いているが、その木履は光沢を放っており、時折、足を運ぶたびに微かな音を立てる。


拓真は咄嗟に、


「遠国から来た旅人で、道に迷いました。手持ちもなく、江戸に身寄り便りのないため、困っております」と答えた。


宗右衛門はしばらく考え込むような素振りを見せたが、すぐに微笑みを浮かべ、


「私は伊藤屋宗右衛門という名で木綿を商っている。お前さん、見たところ怪しい者ではなさそうだが、どうにも疲れ切っているようだな。とりあえず、家に来るといい。困った人間を見捨てるのは性に合わんでな。」


「ありがとうございます…助かります…」


拓真は宗右衛門に支えられながら、彼の家へと向かった。

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