最終話 母の愛

(最悪)

せっかく目覚めたにも関わらず、葉瑠子は再び布団に潜り込んだ。

「私への弁当作り、もう結構よ」

電話はそのあと直ぐに切れてしまった。掛け直す勇気などなかった。

(全部、バレちゃってたのね。)

昨晩の間に何かあったのだろう。しかし、熱のせいで何も覚えていなかった。

熱はもうすっかり下がっていたが、事情を聞こうにも哲郎は既に仕事に行ってしまっていた。

二人してずっと嘘をついていたことを、世津子はきっと怒っているに違いない。悪意があったと思われるのはあまりに辛かった。こんなことになるなら、もっと正直に真っ正面から世津子にぶつかっていれば良かった。陰でコソコソされたら、却って不快に思われて当然だ。

哲郎が会社から戻る時間が来ても、夕飯を作る気にもなれず、結局今夜の晩御飯はインスタントカップ麺で済ませた。

昨晩の出来事を哲郎は正直に葉瑠子に打ち明け、心から詫びた。

「いいよ、ずっと隠し通せるもんじゃないし。哲っちゃんのせいじゃない。こうなってむしろ、良かったんだよ。」

口ではそう言ったものの、やはり気持ちは直ぐに建て直すのが難しい。落ち込んでいる妻が哲郎には心底気の毒に思えた。

あれほど夢中になって読んでいた新聞の連載も、今は見るのも辛かった。ここ数日間、葉瑠子は魂が抜けたようにぼんやりと暮らしていた。

一週間ほど経ったある日のこと。友人から急に着信が入った。

「葉瑠子、あんたのこと新聞で呼んだわよ。やるじゃん!」

「え…新聞?」

「あら、あんた昨日の新聞の声欄、読んでないの?」

「何の話よ?声欄って、」

「あー、もう、待ってて。今新聞記事の画像送るから。ちゃんと読みな。じゃあね。」

瞬く間に電話が切れた。その数秒後に、ラインが届く。

送られてきた画像を拡大してみる。

「愛嫁弁当-嫁の真心に触れてー橘世津子」

記事の声欄のタイトルを目にし、葉瑠子はハッと息を飲んだ。

「息子夫婦と世帯を別にし20年。これまで互いに我関せずと暮らしてきた。ところが、歳を重ねるとそうも言っておられない。我が身を気遣い、息子夫婦が歩みよってきたが、まだまだ若いとつまらぬ意地を張り、私は二人を拒絶した。取り分け嫁には辛く当たってしまった。しかし、それで諦める嫁ではなかった。私の体のことを考え、嫁が始めたのは弁当作り。私に知られないようにこっそり作って買い物袋に詰め、毎朝息子に配達させた。共犯の息子は、私に弁当屋で買ってきたものだと嘘をついた。すっかり騙された私は、いつしかこの弁当の味の虜となった。苦手な野菜も嫁の手にかかれば極上の一品となる。また、毎回私の大好きな具が一品ついているのがなんとも不思議で、しまいには中身を当てる弁当占いなどしながら食を楽しむようになった。嫁は私のために熱心に料理と栄養について勉強していた。だが、そのせいで無理をして体を壊してしまった。ミイラ取りをミイラにする訳にはいかぬ。私はそれから弁当配達を断ることにした。嫁には本当に感謝している。お昼時間があれほど待ち遠しいと思ったことはない。見返りを期待せず、私の健康を陰から支えようとした、嫁の深い真心と献身を広く世に伝えたく、筆を取った次第である。」

涙で文字が滲んで見える。

葉瑠子は久しぶりに声をあげて泣いた。

(お義母さん、お義母さん!ありがとう。)

この気持ちを伝えるには、どうしたら良いだろう。手紙より何よりも早く、今すぐ世津子に知らせたかった。


電話が鳴る。

連載中の小説の最終章を執筆中だった世津子は、煩わしそうに受話器を取った。

「お義母さん」

「なんだ。葉瑠子さんか。どうしたの?何かご用?」

執筆中は原稿のことで頭がいっぱいで、つい素っ気なくなる。

「新聞、読みました。」

「あら、そう。で?」

「私、お義母さんに一言、謝りたくて、、」

「新聞読んだんでしょう。何を謝ることがあるの。」


「ありがとうございます、お義母さん。」

電話口で泣きじゃくる46歳の嫁が、まるで小さな子どものように思えて、世津子は破顔した。

「弁当もいいけど、今度家で何か作って食べましょう。料理メニューはあなたにお任せするわ。」


予想もしていなかった言葉に、葉瑠子の心臓が跳び跳ねた。

「は、はい!嬉しい。メニュー、考えます、私。」

20年もの間二人を隔てていた壁はこうして、見事に崩れていった。


あれから約1ヶ月が過ぎた。葉瑠子は今、新しい仕事に追われている。一人暮しの老人に弁当を届け、安否を気遣うという活動をしている、地域のボランティア団体に加入し、弁当作りを始めたのだ。仕事といっても半分ボランティアみたいなもので、収入は少ないが、フードバンクなどで得た限られた食材を駆使して栄養バランスの良い食事を考えることは、毎回が楽しい挑戦だった。

師走も後半となり、いよいよクリスマスを迎えた。翌26日は世津子の誕生日だ。オーダーメイドで用意していたプレゼントが早めに届いていたので、二人は誕生日前日から、オードブルを用意し実家を訪れた。

「このオードブル、全部葉瑠子さんの手作り?私の好物ばかり並んで見えるけど」

「はい!名付けて、"橘世津子バースデースペシャル偏食万歳オードブル"です。」

「長い名前だこと。にしても、どれも美味しそうね。」

「クリスマスとお誕生日を兼ねて作りました。イベントくらい好きな物を好きなだけ頂きましょう!」


二人の和気あいあいとした様子に、哲郎は幸せを隠せない。

「哲郎さん、この間は勘違いしてすみませんでした。私のせいで皆さんにご迷惑をおかけしてしまい…」

仕事で来ていた北村が、哲郎のそばに寄り頭を下げた。

「いや、そんなのもう良いですって。結果的にすべて丸く収まったんだから。それより、一緒にオードブル食べましょう!」

哲郎はすまなそうにしている北村の肩を叩きながらリビングへと案内した。


世津子が次々に年代物のワインを開けたせいで、食事会は深夜まで続いた。


結局、息子夫婦はその日実家に泊まることとなった。

二人が寝静まったあと、世津子は一人、眠れずに書斎の灯りをつけた。いつもは世津子が座る椅子に、大きな熊のぬいぐるみが、デンッと腰掛けている。作家生活40周年記念を兼ねた、哲郎と葉瑠子からのバースデープレゼントだ。熊の体重は哲郎が産まれた時の体重と同じらしい。メモリアルベアーと言って、普通は結婚式の際、子から親に送る物だった。考えてみたら、二人は結婚式を挙げていなかった。新しい親子の門出に、との意味を込めたと哲郎は語った。


そっと、ぬいぐるみを抱き上げる。腕にずしりと重さを感じた。哲郎が産まれたとき、自分がこの世で一番幸せ者のような気がした。初めて抱っこをした時の思いが不意に蘇り、胸の奥が締め付けられた。

自分は、この子の母となったおかげで、小説家になれたのだ。そして、哲郎が選んだ相手にも恵まれた。葉瑠子の生い立ちについて、世津子は思いを馳せた。母親の愛を知らずに葉瑠子は育ったと、以前哲郎から聞かされて知った。もう少し早く、優しくしてやるべきだったのかもしれない。


(そうだ。朝ごはんに、厚焼き玉子を焼いて用意しておこう。あの子たちが起きてすぐ食べられるように。)


早朝4時、外はまだ真っ暗だというのに、世津子はひとり、台所に立って朝食の準備を始めた。


END










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愛嫁弁当 モンステラようこ @yookaiko

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