第9話 すれ違う思い
突然の出来事に、世津子は軽くパニックを起こした。倒れた嫁を抱き起こすと、額に汗をかき、苦しそうにしている。肌に触れてみると、思いのほか熱い。
(この子、すごい熱。)
「お義母さん、ご・・・ごめんなさい、私ちょっと、朝から具合が悪くて、、」
苦しい息の下で、葉瑠子はすまなそうに呟いた。
「当たり前よ、あなた、こんなに体熱いんじゃ・・・とにかく寝てなさい。今、解熱剤持って来るから。薬箱はあるわよね?」
「冷蔵庫の横の…棚の…右下、、」
あまりの熱の高さに、意識が朦朧としているのだろう。世津子は急いで棚から薬箱を探し、解熱剤を見つけ出した。
病人に、水道水をそのまま飲ませる訳にいかず、世津子は近くにあった鍋に水を沸かし、白湯を作った。飲める温度にまで冷ましてから、薬と一緒にそっと葉瑠子に飲ませる。
(あと、冷却シートは?その前に布団も毛布もいる)
この家を訪れたのは一体いつぶりだろうか。勝手が分からず、世津子は途方に暮れた。が、迷っている暇はない。寝室まで葉瑠子を運ぶ体力は無く、仕方なしに近くのソファーに寝かせ、寝室から毛布を引っ張り出して体にかけてやった。
「お義母さん・・・すみません。明日の弁当・・・」
「え?」
(弁当…?)
「弁当が、どうかしたの?」
恐る恐る、聞き返す。
「明日…届けられないかも…知れない。」
嫁は一体なにを言っているのか。明日、届くはずの弁当は、哲郎とあの浮気相手の女店長が交わした秘め事のはずではないのか。
それとも、嫁は初めからそのことを知っていたのだろうか。
「うー…」
「ちょっと、葉瑠子さん、しっかり」
真相を聞き出す前に、葉瑠子はすっかり意識を飛ばしてしまった。
何がなんやら訳が分からず、世津子はぐったりと肩を落とした。すると、リビングのテーブルの上に書きかけのノートが置いてあるのが目にとまった。
ノートの周りには、色鉛筆やカラーペンが散らばっている。どうやら、先ほどまでここで、葉瑠子はノートに何か書く作業をしていたようだ。
世津子はなんだか中身を覗き見たい衝動にかられ、相手のプライバシーを気にしつつノートを手に取ってみた。
(愛嫁弁当記録)
ノートの表紙には、そう記してある。
一頁目を読んだ途端、世津子は固まった。
そこには、忘れもしないこはる弁当初の野菜中心メニューがズラリと記されていた。ご丁寧に弁当の図面まである。具材説明の横には、その栄養素についても詳しく書かれている。
さらには、
「11月10日、今日、義母のために初めて弁当を作った。義母は全て完食したそうだ。明日も食べたいと言ってくれた。寝ずにメニューを追究した甲斐があった。」
と、短く日記が綴られているではないか。
世津子は衝撃に息を飲んだ。
次のページにも、見覚えのある弁当が。
「11月11日、今日は豆乳を使ってマヨネーズを手作りしてみた。市販の物より美味しく出来たと思う。試しにおからサラダに使ってみた。義母の体のためにも、無添加手作りが一番良い。」
(あの2日目のメニューにあったおからサラダのことかしら。あれは確かに美味しかった。)
「11月12日、隣人から頂いたさつまいもを使って、芋餅を作った。弁当に入れると黄色が爽やかな色合い。甘さは控えめにして、砂糖醤油タレをまぶしてみた。義母もきっと喜んでくれたに違いない。」
こはる弁当の店長は、あの写真の女ではなく、嫁の葉瑠子だったのか。
(こはる…)
そうか、迂闊だった。
何故、最初に気づかなかったんだろう。店名は、葉瑠子の名前の三文字を入れ替えただけじゃないか。
(夫婦二人して私を騙ししていた、という訳ね。)
「ただいま、葉瑠ちゃん、ごめん、遅くな……えっ!?か、母さん?」
息子が帰ってきた足音にも気づかず、その声に驚いて、世津子は、思わず「ギャッ」と叫んだ。
「あ、あんた…今までどこほっつき歩いていたの。」
「だ、大学時代の友人と集まって飲んでたんだよ。それより、葉瑠ちゃんは…」
部屋を見渡すと、額に冷却シートを張り、ソファーの上で完全に伸びている妻の姿が。
「は、葉瑠ちゃん!?母さん、葉瑠ちゃんに何したんだよ。」
「馬鹿。人を勝手に悪者扱いするな。あんたこそ、体調悪い奥さん放って友達と飲みに行くなんて、この外道が!!」
「葉瑠ちゃん、体調壊してたの?…知らなかった、何も言わないから、、」
哲郎は、がっくりと肩を落とした。気づいてやれなかったことに、相当ショックを受けた様子だった。
「大学時代の友人だなんて、言ってるけど、私、知っているのよ。あんた、本当は今日女と会ってたでしょう?」
「え?」
「証拠は揃ってるのよ。今日、街中の店であんたが女といちゃついてるのを北村が目撃しているの。画像もあるんだから、もう言い逃れは出来ないのよ。」
こんな修羅場にも関わらず、犯人を追い詰めた刑事のようなセリフを発するのに、世津子は妙な快感を覚える。
「ちょっと待ってくれよ。なんで僕が浮気したみたいになっているんだよ。」
哲郎の我慢の糸が、ついにプツリと切れた。
「そうか、僕が浮気したと思ってここに確かめに来たんだな。葉瑠子にも喋ったんだろう?病人に鞭打ってるのは、誰の方だよ!」
世津子は呆気にとられた。
こんな凄まじいキレ方をする息子をこれまで見たことがなかった。
「大体さ、葉瑠ちゃんがこんなになるまで無理して頑張っていたのは、母さんの弁当を毎日一生懸命考えて作っていたからなんだよ。そんな嫁さんの苦労も知らないで、よく人を責められるな。葉瑠ちゃんに何かあったら、全部母さんのせいだよ。」
言い終わって直ぐに、哲郎はハッと我に返った。さすがに少し言い過ぎた。そう思ったが、今は素直に謝る気になれなかった。
「…熱、下がったか見てやりなさい。一応、解熱剤は飲ませておいたけど。」
「母さ…」
「葉瑠子さんには何も話していないわよ。私が家に入るなりすぐ倒れたの。…悪いけど私、もう失礼するわ。」
「送っていくよ。」
「いい。途中でタクシー拾う。」
世津子は目も合わさず、玄関から出て行った。
(やっちまった。ごめん、葉瑠ちゃん、せっかくの葉瑠ちゃんの努力を無駄にするようなこと言ってしまった。)
柄にもなく、キレて怒鳴ってしまった。あの時の母の顔。かなりショックを受けているように見えた。
(母さんのことも、葉瑠ちゃんのことも、大切にしたいだけなのに。)
思うようにいかない現実が、哲郎にはひどくもどかしかった。
家に着いた時には深夜11時を超えていた。部屋に入り鞄を見るなり、世津子はしまったと思った。どさくさ紛れに、葉瑠子のノートを持ち帰ってきてしまったのだ。
冷蔵庫から取り出したギンギンに冷えたハイボールを喉に流し込む。そうして一息ついたところで、ノートの続きを捲った。
「11月14日 今日は義母の大好きなエビチリを入れてみた。本格中華風にしたかったから豆板醤で辛さを少し強くしてみる。」
(エビチリが好きだと、どうして彼女知っているの?私、どこかで言ったのかしら。)
「11月15日 大ぶりの牡蠣を使いミルク煮を作った。北海道を感じて貰えただろうか。」
(牡蠣…北海道…あ、彼女、私のエッセイを読んだの!?)
世津子の脳裏に、こはる弁当の店長から送られたファンレターが思い浮かんだ。
(私の本を読んで、研究していたのね。だから…)
「11月16日 こはる弁当開店一週間目を記念して、この日はカレーにした。義母の苦手なトマトを敢えて使い、バターチキンカレーを作った。リコピンたっぷりのカレーには抗酸化作用もたっぷり。ついでにナンも手作りした。腹持ちの良いとされる米粉を使った。」
(ああ、あのナンは、米粉で出来ていたのか。腹持ちの良さまで考えてくれていたなんて。)
一日一食生活には、ありがたい配慮だ。
「あら、やだ。アルコールが回ると急に涙脆くなる。」
頬を伝う熱い涙を、世津子は酒のせいにした。
翌朝、葉瑠子は、電話のベルで目覚めた。
(げっ今、もう9時回ってる。すっかり寝坊しちゃった。)
あわてて電話を取る。
「あ、葉瑠子さん?具合はどう?」
電話口の声に、葉瑠子は一瞬ドキリとした。
「お、お義母さん?」
昨夜の記憶が朧気に蘇る。
「昨夜はすみませんでした、、せっかく来ていただいたのに、私…」
「葉瑠子さん、今までありがとう。私への弁当作り、もう結構よ。」
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