第8話 秘密の代償
弁当作りが毎朝のルーティンとなって、やがて一週間が過ぎようとしている。また次の一週間分の献立準備で葉瑠子の頭は、いっぱいになる。世津子のその日その日で食べたいものを予想するのは楽しかった。などと言いつつ、実は自分だったらこれを食べるという感覚で選んでいるだけだった。それでも、毎回美味しく食べて貰えているということが、葉瑠子の自信に繋がった。
あの例のエッセイ「偏食万歳」をきっかけに、世津子の書く小説をよく読むようになった。弁当を作り終え、一通り家事を済ませると午後は比較的ゆっくり出来る。熱いコーヒーを飲みながら、姑の描く架空の世界に浸る。今夢中になって読んでいるのは、新聞に連載されている、旅の僧侶が白拍子という歌舞をする遊女に魅せられて道を誤るという悲恋物語だ。これを読み始めてから毎朝新聞を待つのが楽しみになった。これまでの内容はネット上のアーカイブで読むことが出来た。
姑の描く文学が、これほどまで魅力的だとは思いもよらなかった。もっと厳格で近寄りがたい世界だろうと読みもせぬうちに勝手に信じていたのだ。
気づけば、世津子の作品をネットで探している自分がいる。いつの間にか、姑のファンになってしまったことを葉瑠子はついに自覚した。
「ええ!?うちの母さんにファンレターを書くだって?」
ビールを飲んですぐに聞いたせいで、哲郎は声と同時に勢いよくゲップをかました。
「汚いなあ。そんな驚かなくてもいいでしょうに。私からじゃなく、こはる弁当の店長から、日頃の感謝を込めて送るの。だったら良いでしょう?」
葉瑠子のそういう素直な心は、昔から変わらない。哲郎にはそれがたまらなく嬉しかった。
「そうだな、母さん、きっと励みになると思う。ありがとう、葉瑠ちゃん。」
本当は、母と三人で一緒に食事をしたりもしたいが、母があの態度では、それは望めそうにもない。
(葉瑠ちゃん、ごめんな。)
心の中でそう謝る以外なかった。
「そうそう、来月の26日、お義母さんの誕生日じゃない?哲っちゃん、プレゼントどうするの?」
今までは、そんなこと尋ねたこともなかったのに、これも母の作品ファンになったせいなんだろうか。
哲郎は苦笑いしながら、
「そうだなあ、まだこれといって何も思い付つくものがない」
「調べたんだけど、お義母さん、今年で作家生活40周年を迎えるらしいよ。何か特別なものをプレゼントしようよ。私もお金出すから。」
「40周年?もう、そんな年になる?」
息子なのにそれすら知らない自分がなんだか情けなくなる。
「オーダーメイドで何か記念品として作るのはどうかな。」
「それ、いいな。僕の大学の友人で雑貨屋経営している子がいるんだ。オーダーメイドもやっていて、結構人気なんだよ。今度会って相談してみる。」
善は急げとばかりに、哲郎はその日のうちに友人にメールを送り、会う約束にこぎつけた。
水曜の夕方、仕事終わりに駅前で待ち合わせ、街中の飲食店に入った。店内のテーブル席はひどく混雑していた。仕方なく、哲郎は窓際のカウンター席に友人と並んで座った。
「ふーん、お母さんの誕生祝いと作家生活40周年祝いをセットにと考えてるんだ。さすが、橘くん。昔から親思いだもんね。」
事情を聞いた雑貨屋「美るく」のオーナー、神埼美香は、学生時代とあまり変わらないベビーフェイスで爽やかに笑ってみせた。
「大体予算いくらくらい考えてるの?」
「2、3万くらいかな。」
「そうねえ、そのくらいの値段で70代くらいのマダムに人気なものといえば・・・」
美香は、タブレットを取り出しテーブルの上に置くと、素早く指を動かした。
「例えばカシミアのストールとか、バッグ、枕、ブランドのアクセサリー類、ああ、腕時計や万年筆なんかもあるわね。ほら、見てみなよ。」
促されて、哲郎はなにげに美香と距離を詰め、タブレットを覗きこんだ。
「わあ、いろいろあるんだ。まいったなあ、僕一人じゃとても決めきれない。」
ズラリと並ぶ商品の画像に、哲郎はすっかり困り果てた。
「オーダーメイドだとちょっと時間かかるかもしれないから、早めに決めて注文したほうが良いわよ。うちの店のサイトのアドレス、橘君のラインに転送するね。」
「ありがとう美香、よろしく頼むよ。」
(おいおい、嘘だろう。)
店の外から窓際の二人の様子をじっと見つめる男がいた。
(あれは、哲郎さんだよな、横にいる女は奥さんじゃない。まさか、、)
仕事から帰る途中、いつものように店の前を何気なく通ったら、つい見つけてしまった。北村は人混みから抜け出し、建物の後ろに隠れるようにして、二人を観察しだした。
哲郎の妻には以前会ったことがある。髪が短くて化粧っけの無い地味な雰囲気の女性だった。しかし、今目の前で哲郎と肩を並べている相手は、ロングヘアの小柄で可愛いらしい感じの女だ。
(先生の読みが当たった。哲郎さん、やっぱり他の女と浮気していたんだ。あんなに近く寄り添って。早速先生に知らせないと。)
北村は、ポケットからスマホを取り出すと、二人の姿をこっそりカメラに収め、世津子のラインに画像を送りつけた。
ラインは直ぐに既読サインがついた。
(哲郎、、やっぱりそうだったのか。)
我ながら己の勘の鋭さが恐ろしいと世津子は思った。
(葉瑠子さんは、きっと知らないわよね。)
自分の旦那が、弁当屋の店長なる女と浮気をしている。しかも、その女はいけしゃあしゃあと浮気相手の母親に弁当を作り取り入ろうとしている。弁当の中身も二人で画策したのだろう。なんだか無性に嫌な気分になり、世津子はベッドに突っ伏した。このまま黙っている訳にはいかない。事の真相を確かめるために、息子と嫁に会いに行く必要があった。
(お互いのことに干渉しないと言ったって、こればかりは例外よ。息子の不貞は、それを育てた親の私にも責任がある。でもこうなるには理由があるはずよ。)
外は既に真っ暗になっていたが、世津子は構わずタクシーを呼び、息子夫婦の住むマンションに急いだ。
片道30分の道のりが、今の世津子にはやけに長く感じられた。
「お義母さん、どうして・・・」
ブザーを押して暫くすると、玄関のドアが開き、葉瑠子が出迎えた。
「葉瑠子さん、あなた1人だけ?哲郎は?まだ、帰っていないの?」
自分は今きっと物凄い形相をしているのだろう、と世津子は思った。嫁の顔色がどこか青ざめて見えたせいだ。
「すみません、哲郎さん今夜少し遅くなるらしくて・・・・」
「どうして?理由をおっしゃい。」
「あ、あの・・・急に大学の友人たちと集まって飲みに行くことに、なったとか、、」
「大学の友人、そう。」
世津子は鼻で笑ってみせたが、葉瑠子はそれに気づかぬ様子で、
「とにかく、お入りください。外は、寒かったでしょう。」
と、世津子をリビングに促した。
こころなしか、先を歩く嫁の足取りがフラフラともつれているように見え、世津子は不思議に思った。
その矢先、
ガタガタンッ。
(えっ!?)
葉瑠子の体が床に崩れ落ちた。
「葉瑠子さんっちょっと、どうしたの!?しっかりして、葉瑠子さん!!」
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