第6話 初勝利の夜

「ただいま」


いつもより一時間も早い夫の帰宅に、葉瑠子の心臓は高鳴った。その日は1日中、試験の合否を待つ受験生のような気持ちで過ごした。早起きして、全身全霊で作った弁当は、果たして姑の口に合ったのだろうか。「次はいらない」と言われるか、「また、お願い」と言われるか。そのどちらかで葉瑠子の今後の生活が決まる。

否、あの姑のことだ。おそらく感想すら口にしないかもしれない。それどころか、もし、私が作ったことがばれていたら?

嘘の下手な哲郎がうっかり口を滑らせていないとも限らない。

(余計なことしたかな)

悶々と考えていたせいで、つい「おかえり」を言うのを忘れてしまう。

「葉瑠ちゃん、葉瑠!ねえ、聞いてる?」

「えっ、あ、ああ、おかえ・・・」

「おめでとう!君の作った弁当、母さん見事に完食したよ。おまけに、また、明日もよろしくだってさ。僕、もう嬉しくて、同僚の飲みの誘い断って真っ先に帰ってきたんだ。」


葉瑠子の全身から力が一気に抜けた。張り詰めていた糸が切れたかのように、その場に座りこむ。

「お、おい、大丈夫!?」

「どうしよう、哲っちゃん、私、すごく嬉しくて、、あー、なんか泣いちゃいそう。」

長年冷たくされてきた姑に、今やっと少し認められたような気がした。


「分かるよ。葉瑠ちゃん、ずっと頑張っていたもんな。母さんのためにさ。僕も、嬉しくて、泣けてきた。」


葉瑠子よりもっと涙もろい哲郎が鼻を啜る。

「こうしちゃいられないわ。明日の弁当の仕込みをしなくちゃ。」


「え?メニューもう決まってるのか?材料の買い出しは?」


「一応、むこう一週間分のメニュー決めて材料も買っておいたの。お義母さんの反応次第では、危うく無駄になるとこだった。」


「なるほど。賭けに出たわけか。見事な勝利だよ。こはる弁当、万歳!」


「こはる弁当?」

耳慣れぬ名に、葉瑠子は首をかしげた。

「母さんに、店の名前を聞かれてさ、とっさに思いついたんだ。葉瑠子の字を並べ替えて、"こはる"。なんか、可愛いだろう?」


ぷっ!

葉瑠子は思わず吹き出した。

嘘が苦手だなんて言った割には偽の名前で大嘘ついて、ホントにうちの旦那は、脳ミソがぶっ飛んでいる。

「こはる弁当!いいね、それ。私の友達に広告デザイナーの子がいるから、その子にお願いしてお店のシールなんかも作ってもらうのはどうかな?カモフラージュ用に。」


「それ、いいね。絶対母さんにバレない保証つき!」


二人は顔を見合せ悪巧みをするかのようにいたずらっぽく笑い合った。

「ところで、今日の弁当、里芋やらほうれん草やら人参やら、色々野菜が多かったけど、あれは、母さんの体を考えた上で選んだの?」

「もちろん。ほうれん草や里芋には血圧を下げるカリウムが多く含まれるの。人参は、他の野菜に比べて糖分は多めだけれど、炭水化物は含まれないから、食後の血糖値を安定させてくれるんだよ。」

「ふうん、こんにゃくや、春雨なんかは?」


「こんにゃくにもカリウムは含まれているし、動脈硬化も防ぐ作用があるみたい。おまけに、低カロリーで食物繊維も豊富だから、弁当のおかずに加えない手はない。春雨は緑豆を使ったんだけど、体の老廃物を排出してくれるみたい。」

栄養の勉強は、葉瑠子に合っているのだろう。説明する妻の表情が生き生きとしているのを見て、哲郎はもっと色々質問したくなった。

「じゃあさ、ほうれん草の和え物、あれは何で味付けしたんだい?今まで食べたことない不思議な味がしたんだけど。」


「あれは、酢味噌和えだけど、隠し味にピーナッツバターをほんのちょっと加えたんだよ。」


「ピーナッツバター?」

「そう。おばあちゃんから昔教わったの。香ばしさが酢味噌の旨味を引き立てるってね。」

「・・・てっきりゴマ和えかと思って口にしたら、意表を突かれたよ。でも、美味しかった。」


「あ、そうだ。お義母さん、弁当完食したって言ってたけど、人参や春巻きのトマトもちゃんと食べれたの?」

今日一番の謎と言って良かった。エッセイの中で、世津子は人参とトマトをことごとく貶していた。敢えて弁当に入れたのは、もちろん栄養面を考慮したからだが、内心は不安だらけだった。


「電話で聞いた限りでは、全部残さず食べてたみたいだよ。完璧だったとまで口にしていたからね。」


あの、エッフェル塔並みにプライドの高い姑の言葉とはとても信じられない。


「そっかー、良かった。人参、あんなに嫌っていたのに、ちゃんと食べれたんだ。お義母さん、やっぱり、すごいや。」


「すごいのは、葉瑠ちゃんの味付けの工夫だと思うよ。あの人参炒めにはどんな秘密があるの?」

「秘密なんてないよ。人参をスライサーで千切りにして、醤油と味醂を少し加えて、あとは油でひたすら炒めて卵でとじただけ。"人参しりしり"っていう、沖縄料理だよ。」


「沖縄!?いきなりトロピカル来た!」


葉瑠子も実は昔、人参が苦手だった。祖母は、荒療治として、沖縄出身の友人から教えてもらった、人参しりしりなる人参たっぷりの料理を葉瑠子に食べさせたのだ。以来、葉瑠子は人参が大好きになった。その経験を生かして取り入れたメニューだった。

「あと、母さんさ、トマトも苦手なんだけど、何故かピザのトマトソースは平気なんだ。だから、あのチーズとトマトの春巻きも、きっと美味しく食べれたんだと思う。」


「よく、トマトはダメでもケチャップは平気っていうやつだね。」


意外に子どもみたいなところのある姑が、葉瑠子はだんだん憎めなくなっていった。


愛嫁弁当配達作戦初勝利の夜を二人はギンギンに冷えたビールで祝った。

嬉しさのあまり酔いが早く回ったのか、哲郎はソファーで大の字になり、イビキをかき始めている。

その横で、葉瑠子はノートを広げ、今日の弁当のメニューレシピと栄養素を簡単なイラスト付きで書きまとめた。今後は、ノートを書く習慣も取り入れよう、と心に決める。愛嫁弁当がこれからどう進化していくのか、その過程を見届けたいという理由からだ。


(よし!明日も頑張ろう。次はもっと美味しいのを作ってやるんだから。)












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