第5話 野菜革命
正午を迎えると同時に、世津子の腹が鳴った。今週締め切りの新聞連載の原稿をちょうど書き上げた矢先だった。
リビングに行くと、テーブルの上に買い物袋がドンと置かれていた。今朝、哲郎が置いて行ったものだ。確か、今日のお昼の弁当と言っていた。
「母さんの健康を考えて、これからは僕が選んだ店の弁当を届けることにしたから、そのつもりで。」
(一体どういう風の吹き回しだろう。)
結婚してからは、実家にあまり帰らなくなっていた哲郎が、いきなり距離を縮めてきた。ちょっとばかり無理が祟って倒れただけなのに、大げさに心配して。
「私、今は一日一食にしているの。せめて自分の好きなものを食べたいわ。」
「偏食はダメだよ。ちゃんと三食しっかり食べないと。一汁三菜、分かる?」
何だか馬鹿にされた気がして黙っていると、哲郎は買い物袋を突き付けて、
「とにかく、この弁当はちゃんと食べて。それじゃ僕会社に急がなきゃならないからこれで。」
今朝の会話を思い出しながら、世津子は大きなため息をついた。健康に配慮した食事なんて、塩気も油っ気もなく、不味いに決まっている。しかし、世津子は今無性にお腹がすいていた。買い物袋を手に取り、しぶしぶ弁当箱の蓋を開けた。
「え?」
世津子が目にしたのは、彩り豊かな具材が敷き詰まった立派な中身だった。
一体何処の店の弁当だろう。袋の中にはさらに、おにぎりとスープまで入っている。
世津子は、ごくりと唾を飲みこんだ。箸を持つ手が勝手に動いて、一品を捕らえた。
(これは、ポテトサラダ?)
いや、じゃがいもにしては、噛む度に妙な粘り気を感じる。
(違う。これは里芋だわ。里芋とツナをマヨネーズで和えた、里芋サラダ。)
ポテトサラダに比べるとややさっぱりした味わいだが、ねっとりとした舌触りがクセになる。
(この緑色は、ほうれん草ね。)
次の一品は、定番のほうれん草のごま和え、、かと思いきや、
(この味、ゴマじゃないわ。何だろう、酢味噌かしら、でもほのかにナッツの味もするような。)
甘味と酸味、ナッツの香ばしさが混ざりあい、ほうれん草にうまく絡んでいる。
(こんにゃくの炒めものもある。)
角切りされたこんにゃくを口に運ぶ。すると、ニンニクと唐辛子のパンチのきいた味わいが広がった。
(これは、こんにゃくのペペロンチーノだわ!ニンニクがこんにゃくの臭みを消していて、歯ごたえがあって、すごく美味しい。)
次第に、箸を動かすのが楽しくなってくる。
魚の餡掛けもあった。
(この魚は鯵ね。カリッと焼かれた鯵の唐揚げに、玉ねぎたっぷりの甘酢あんかけが絡んで、箸が止まらない。)
その横にある春雨炒めも美味しそうだ。
(豚肉とニラ、もやしの入った春雨炒め。そういえば、哲郎もよくこんな料理を作ってくれていたわね。)
その時、ぴたりと世津子の箸が止まった。
視線の先には、千切りされた人参の山。
(困ったわ。私、人参嫌いなんだけど。)
嫌がらせとしか思えぬ人参の量に、世津子は顔をしかめた。しかし、食べ物を残すのは、自分のポリシーに反する。世の中には、食べたくても食べられない人間もいるのだ。
(人参がなによ!これくらい、平気よ。)
そう唱えながら、素早く口に入れる。すると、信じられないほど甘く、美味しいではないか。
(人参がこんなに甘いなんて!しかも、ちっとも臭みやえぐみがない。一体どうして!?)
油で炒めてあるのは分かる。一緒に混ざっている卵のおかげだろうか?それとも味付けに秘密がある?
このままでは、おかわりせずにいられないほど美味しい人参炒めだった。
また、柚子胡椒の効いた鶏肉のグリル焼きで、口の中がさっぱり爽やかになったところで、好物の揚げ春巻きを箸でつまんだ。
(えっ!?こ、これは!)
噛んだ瞬間パリッと音を立てて春巻きの皮が崩れ、こってりクリーミーなチーズの味となんだか甘酸っぱい味が口の中で混ざりあう。
(トマトだわ!)
続いて、ハーブの香りが鼻をつきぬける。
(チーズとバジルとトマトの春巻き!まるで、ピッツァマルゲリータだわ。)
イタリアの風を感じる、と言ったら言い過ぎだろうか。
(トマトはこんなふうに火を通して食べれば、青臭さがなくなるのね。)
弁当の隅に詰められた、きゅうりとワカメとちくわの中華和えも箸休めにピッタリだ。
最後に取っておいた、厚焼き玉子にいよいよ箸をつける。黄色くふっくらとしたそれは、見るからに美味しそうだ。ただ、
(この厚焼き玉子、甘いのかしら。砂糖入りはちょっと苦手だわ。)
そう思いながら口に運んだ途端、どこか懐かしい風味を感じた。
(この味。覚えがある。)
もしや、隠し味にマヨネーズを使ってはいまいか。適度な塩気と油っ気があり、まるで、自分が昔よく作っていたあの味によく似ている。
極めつけは、別に包まれたたおにぎりだ。
昔、息子が作ってくれていた、塩おにぎりの味そのものではないか。
なんだか、食べているうちに過去の思い出がどっと溢れだし、世津子は、ふいに目頭が熱くなった。
お腹も心も満たされる思いで、最後にスープを啜る。
冷めても美味しいようにとの店側の配慮だろうか。味噌汁ではなく、粒がゴロゴロと入った甘いコーンクリームスープだった。
「エクセレント!(完璧)」
世津子は思わず、口に出して叫んだ。
こんなに食を楽しんだことが、これまであっただろうか。弁当の具一つ一つが丁寧に真心込めて作られているのを感じた。
野菜嫌いの自分が、野菜づくしの弁当を完食した。しかも、心から美味しいと感じた。締め切りギリギリで夜も眠らず原稿を打っていたせいで、疲れがどっと溜まっていたが、今では嘘のようにスッキリしている。
(もしかしたら、弁当を作ったのは、哲郎だろうか。)
一瞬そう思ったものの、
(いや、今朝も普通に会社に行っていたから、作る時間なんてありゃしないわね。)
哲郎は、一体何処の店で、こんな完璧な形の弁当を手に入れたのだろう。
どうしても気になりだして、仕事中とは知りながら、すぐに息子に電話を入れた。
「母さん、どうしたの?」
2コールめで、電話はすぐにつながった。
「今日あんたが置いていった弁当、何処の店で買ったの?」
「え、えぇっと、し、知り合いのやってる弁当屋だよ。」
「何て名前の店?」
「なんだよ、店に電話して文句でも言う気?そんなに気に入らなかった?」
「・・・その逆よ。」
「え?」
「弁当は、あんたが選んだのよね。完璧だったわ。全部美味しかった。」
「母さん、、」
「明日もよろしくね。お金は出すから。」
電話口で、鼻を啜るような妙な音が聞こえる。風邪でもひいているのかと思いながら、世津子は再度質問した。
「で、お店の名前は?」
「・・・・こはる、こはる弁当だよ!」
息子の声が急に耳元で弾んだので、世津子は不思議に思ったものの、
「こはる弁当ね、覚えておくわ。」
自分でも驚くほど優しい気持ちで、そう口にした。
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