第4話 愛嫁弁当が出来るまで
世津子のエッセイ本が届いた。
仕事を辞めてから、のんびり過ごすことを覚えた昼下がり、葉瑠子は丁寧にコーヒーを淹れてソファーに座り込んだ。
「偏食万歳、か。」
タイトルが示す通り、目次の最初が「アンチベジタブル」と記されている。
世津子はどうやら野菜が苦手らしかった。
「トマトを人間に例えるなら、ルックス詐欺師ね。見た目は甘くて美味しそうなのに、中身は期待外れ。喉が痙攣起こすほど不味い。」
「人参なんて、どう料理したって自己主張がぬぐえない。何に混ぜても味が浮くからとても好きになれない。」
「キャベツの青臭さなんてほんと勘弁。どうしても食べろというなら、ゴマドレッシングをたっぷりかけるわ。」
「ピーマンを生でかじる人がいるそうだけど、私には到底真似出来ない。くたくたになるまで火を通せばなんとか食べれるけれど。」
(お義母さん、野菜に対して相当敵対心持ってるなあ。)
ページを開く度に、ハードルが上がっていくような感覚に襲われる。
(どこかに、好きな野菜のこと、書いてないかな。)
読み進めていくと、意外なことに気がついた。
「野菜嫌いの私が唯一許せるのは、カレーライス。カレールーの力は偉大。どんな野菜も美味しくする魔力を持っている。これも、何十種類というスパイスのおかげね。」
つまり、世津子は野菜特有の匂いや味が苦手で、それが消されれば美味しく食することができるということのようだ。
「忘れられないのは、北海道へ旅行したときに頂いた、牡蠣のグラタン。クリーミーなホワイトソースが幸せを運んでくれた。」
「千葉の成田山で頂いた鰻の蒲焼きも最高だった。」
「味の薄い魚は、西京焼きに限る。こってりした味噌の味わいに魚の味が際立つ。」
「中華料理は世界でもっとも味わい深い料理。黒酢の酢豚に、ピリッと甘辛い海老チリ、舌を刺す花山椒の風味がたまらない麻婆豆腐。」
だんだん、世津子の食の好みが分かりかけてきた。塩味や甘味、酸味や辛さなど味の輪郭がはっきりした料理を好む傾向にあるようだ。
(そりゃ血圧も上がるよ)
それにしても、世津子の文章は歯切れが良くさくさく読めてしまう。葉瑠子はつい時間を忘れて読み更けってしまった。
エッセイも、そろそろ後半に差し掛かると、小説家としてデビューする前の生活について触れている章にたどり着いた。
「息子の手料理」
とタイトルがついている。
「私は家事が大嫌いだ。夫を亡くした当初は、仕事を理由に家事全般を中学生の息子に丸投げした。」
葉瑠子は、自分の知らない夫の姿を垣間見るようで急に妙な緊張を覚えた。
「息子は文句一つ言わず、家事をこなしていた。少ない食費でやりくりして、三食きっちり食事を作る。朝から晩まで働き詰めだった私に、息子はよく弁当を作ってくれた。弁当箱には、私の苦手な野菜が入ることもあったが、私はなんとか残さず食べた。不思議なもので、息子の作った料理はなんでも美味しく感じられた。中でも塩おにぎりは格別だった。どんな立派な名店も、あの味には敵わないだろう。」
弁当のことに話が及んだとたん、葉瑠子の身に衝撃が走った。
世津子が一番美味しいと感じた料理が、まさか、自分の息子の料理だったとは。しかもそれは、弁当という形で提供されている。
知らぬまに、葉瑠子の頬を涙がつたった。
(灯台もと暗しね。哲郎から塩おにぎりの作り方、聞かなくちゃ。)
「ただいま」
時間はあっという間に夕方になっていた。哲郎が帰宅するやいなや、葉瑠子は哲郎の身に思い切り抱きついた。
「おかえり。お義母さんはやっぱり哲ちゃんの料理を一番愛していたんだよ。」
「いきなり何だよ。あ、母さんのエッセイ、届いたんだ。もう、全部読んだのか?」
「あともう少しで読み終わるとこ。ねえ、哲ちゃん。哲ちゃん流の塩おにぎりの握り方ってあるの?」
「塩おにぎり?」
唐突なワードに、哲郎は戸惑ったものの、過去の記憶が脳裏をよぎり、ふっと表情を緩めた。
「あれは、アジシオを少しまぶした手で熱々のご飯を瞬時に握る、それだけだよ。」
「もう少し手が込んでるのかと思った。例えば塩にこだわるとか。」
「まさか。当時うちは貧乏で調味料にこだわるなんて出来なかったんだから。」
哲郎は他にも、昔作ったことのある料理を思い出し、葉瑠子に伝えた。鶏肉の甘酢煮やほうれん草のごま和え、卵焼き、魚肉ソーセージと玉ねぎだけのナポリタン、ちくわの唐揚げ、じゃがいもの味噌煮、納豆オムレツ、キノコのバター炒め、などなど、どれも素朴で手間要らずの料理ばかり。
「哲ちゃん、ありがとう。すごく参考になった。早速メニュー決めて明日買い出し行ってくる。」
「ああ、僕にできることならなんでも協力するよ。あと、弁当にかかる費用は全部僕がもつから。それに、葉瑠ちゃんの分の手当ても。」
「えっ?手当てって、、頂いていいの?」
「もちろん。只働きさせようなんて思っちゃいないよ。頑張った分、ちゃんと支払うから。」
報酬など特に期待していなかった。浪費家だと思っていた哲郎の懐の深さを思い知り、葉瑠子は心から幸せを感じた。
葉瑠子の読書タイムは結局深夜まで続いた。世津子のエッセイを読み終えてからすぐに、家に常備している栄養学の本を引っ張り出した。作りたいものをイメージしながら、適切な材料の栄養素、その理想的な組み合わせや味付けなどを調べた。調べれば調べるほど勉強が楽しくなった。
こうして試行錯誤を積み重ね、ついに愛嫁弁当第1号が完成した。
おかずは全部で10品、少々張り切り過ぎた感はあるが、詰め方なども随分こだわったので、お店に並んでいるかのような見た目に仕上がった。
哲郎の出勤時間帯に間に合うように朝5時から台所に立って作業した。そして、世津子の弁当を作るついでに自分たちの分も弁当箱に詰めた。計画通りやり遂げた清々しさが、葉瑠子の心を満たした。
「それじゃ、行ってくるよ。」
弁当袋片手に家を出る哲郎の声もどこか弾んで聞こえた。
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