十一話
それから翌々日になって、父親はあたしを連れて仕事へ出かけた。
母親にあんなに強く言われたっていうのに、この日も朝方に帰って来てて、どうやらギャンブル通いをやめる気はなさそうだった。ふあーと大きなあくびをしながら準備をする姿に怒りを覚えるけど、ここで怒鳴る必要はない。お客さんが来たら、その時、お仕置きしてやるんだ。存分にね……。
呼び込み作業を省くぐらい、今もまだお客さんの数はものすごかった。テント小屋の外には自然と列ができて、父親の案内で中に入れるのを皆楽しみに待ってる。
「――では、一番乗りのお客さんから、どうぞ! ああ、急がなくても大丈夫ですよ。歩いてお入りください」
最初の五人のお客さんがあたしの前にやって来た。どの顔も期待にわくわくしてる。
「それでは五分間のおしゃべりを楽しんでください!」
言って父親は傍らの砂時計をひっくり返した。
「あの、妖精は普段、どんなものを食べてるの?」
「虫とか動物とか、他の生き物とは仲いいの?」
「羽が光ってるって本当? それとも身体全体が光ってるのかな?」
正直、何度もされて聞き飽きた質問をお客さんはしてくる。他のお客さんの質問は聞けないから、これは仕方ないことだし、あたしは初めて聞かれたふうを装って答えてた。それがお客さんへの気遣いであり、気持ちよく答えることが稼ぎにもつながるって思ってたからだ。だけど今日はその質問に答えるつもりはない。あたしは聞くだけで、黙る。
「……ねえ、聞こえてる? 羽と身体、どっちが光ってるの?」
ただひたすら、黙る。するとだんだんお客さん達の表情が変わってきた。
「ちょっと、どうして答えてくれないの?」
「前来た時はちゃんとしゃべってくれたのに」
「どうなってんだ? ねえ、おじさん! 妖精が何にも言ってくれないんだけど」
お客さんが入り口に立つ父親を呼ぶと、彼はすぐにやって来た。
「はいはい、どうされました?」
「どうもこうも、話しかけてもまったく答えてくれないんだけど。一体どうなってんだよ」
「え? そんな、はずは……」
怪訝な顔をした父親はお客さん達の間を割ってあたしに近付いた。そして様子を見るふりをしながら顔を寄せて、囁き声を出す。
「おい、何してんだ? ちゃんとおしゃべりしろよ」
これもあたしは聞くだけで無視した。
「朝は普通にしゃべってただろ。どういうつもりだ? これ以上俺を困らせるな」
家族を困らせてる張本人が、よく言う。
「おじさん、どうなってんの?」
「妖精とは話せないの?」
不満そうなお客さん達に、父親は笑顔で振り向く。
「いや、も、もう一度話しかけてみてください。今日は少し調子が悪いだけだと思うんで」
そう言われてお客さんの一人があたしに声をかける。
「……あの、こんにちは。あなたの声が聞きたいんだけど」
変わらず黙り続けるあたしの態度に、父親の表情に少しずつ焦りが浮かび始めた。ふふん、もっと焦りなさい。
「何にも、答えてくれないけど……」
「どういうことなの? 何で話せないわけ?」
「あんた、客騙してんのか?」
「ち、違います! 普段はちゃんと会話ができて――」
「せっかく時間作って来たのに……もういいわ。帰るからお金返してよ」
「俺も帰るわ。返金して」
「返金には、あの、対応してなくて……」
「はあ? 馬鹿言うなよ。俺達は妖精としゃべれるっていうから金払ったんだぞ。でもしゃべれてないんだから、金返すのは当たり前のことだろ?」
「まさか、始めから嘘だったんですか? 妖精なんていないのに、お金だけ取って……」
「嘘なんかじゃない! いつも普通にしゃべれるんだ! ……わかりましたよ。返金、しますから」
父親は腰に提げた布袋に手を突っ込むと、五人のお客さんにそれぞれお金を返した。
「その、どうかまた来てください。次はしっかりしゃべってくれると思うんで……」
「どうだか」
「気が向いたら、来ます」
「危うくお金だけ取られるところだったわ。本当、がっかり」
お客さん達は不満をこぼしながら外へ出て行った。それを見送った父親はすぐに振り向くと、あたしを突き刺すような目で睨み据えた。
「お前、何考えてんだよ! これじゃ稼ぎも評判もガタ落ちだろ!」
唾を飛ばして怒鳴る様子を眺めながら、あたしは尚も黙る――一切口を開かない。これこそが父親へのお仕置きだ。あたしが黙れば、お客さんはお金を払わない。そうなれば今までみたいな稼ぎもなくなる。稼ぎがなければギャンブルもできない。前の一文無しに逆戻りってわけだ。生活費を入れてないなら、あたしが稼がせてあげる理由なんてないからね。そもそも妖精かわかんないまま、こんな方法で稼ぐってのも、決していいとは言えないし。父親はこれで痛い目を見ればいい。そしてちょっと反省でもしてくれればいいけど……そこまでは無理か。この人、自分で気付くより人に言われないと気付きそうにないから。
「――おいっ、聞いてんのか! ええ?」
父親が散々怒鳴ったところで、あたしは言った。
「何であたしがしゃべんないか、理由は考えたの?」
「やっとしゃべったか……ああ? 理由? 知るかよ」
「あんたが生活費も入れずに、ギャンブル三昧してるからだよ。その軍資金を作るなんて、あたしはごめんだから」
「他人の家庭に、しゃべるしか脳のないやつが口を出すってのか? 随分と上から目線じゃないか」
「あたしじゃなくたって、あんたがやってることを知れば、誰だって口出したくなるよ。家にお金を入れないなら、あたしはずっとしゃべらないから。そのつもりでいて」
「客前では、もうしゃべらない気か?」
「そうよ。遊ぶためのお金なんて稼がせない」
「でもそれって矛盾だろ。俺が稼がなきゃ生活費も渡せなくなるんだ。あいつらが困れば、それはお前のせいにもなるよな」
口の端を上げた父親が鼻で笑う――こいつ、新たに仕事探そうって思考にはならないのか? あたしに責任転嫁するとは、本当に腐ってるな。
「まあ、奥さんがそれで困ったとしたら、原因はあたしじゃなく、夫のあんただと思うでしょうね。何せ見世物小屋を考えたのはあんたなんだから。そうなれば、見限って離婚ってのも遠くないんじゃない?」
「なっ……!」
父親の顔色が瞬時に変わった。ここまで話さないと危機的状況に気付かないとは。あたしに顔があったら、鼻で笑うのを見せ付けてやりたいわ。
「お前、あいつに余計なことでも吹き込んだのか」
「変な疑いはやめて。稼ぎを全部ギャンブルに突っ込むような夫を持ってれば、その妻は大体離婚を考えるもんじゃない?」
すると父親はあたしに顔を近付けて、脅すような口調で言った。
「これは俺達夫婦の問題だ。そんなことに口を挟む余裕があるなら、客としっかり会話しやがれ」
「あんたが心を入れ替えない限り、あたしはしゃべらない」
「てっめえ……このまま叩き潰すこともできるんだぞ!」
父親は怒りの表情で拳を振り上げた。
「やってみたら? もしそれであたしが死んじゃったら、稼ぐ方法はなくなっちゃうけどね」
これに父親の拳が止まる。まだあたしで稼げると思ってるんだろう。それはあんた次第だけど。
「あの、まだ妖精と話せないんですか?」
入り口に並ぶお客さんが急かすように聞いてきた。
「あ、すぐにご案内しますので! ……客が来たらしゃべるんだ。絶対にしゃべれ! じゃないと次は本当にぶっ潰すぞ」
そう言い捨てて父親はお客さんのほうへ戻って行く――そんな脅し、通用しないし。
次の五人のお客さんが来ても、あたしは一切しゃべらなかった。苦情を言われた父親は、ただ平謝りしてお金を返しながら、横目であたしを怒りの眼差しで睨んできた。言うことを聞きそうにないってわかったのか、父親は妖精の体調がよくないって理由で、急遽お客さん達を帰らせ、テント小屋を閉めた。詰め寄って来た父親は暴言の限りを尽くしてあたしに怒鳴り散らした。そして母親にしたみたいに平手でバコンと叩かれた。でもそんなことされたって視界が揺れる程度で、あたしは痛くもかゆくもない。金づるだと思ってる限り、彼はあたしを叩き潰すことはできないだろう。怒鳴られようと平手打ちされようと、こっちには大した影響はないのだ。
こうして稼ぎがなくなった父親は、ギャンブルの資金を失ったせいか、週四日休んでたところを毎日テント小屋へ通うようになった。あたしがしゃべるのを拒否してるとわかりつつも、今回はもしかしたらっていう一縷の望みに懸けてみたんだろうけど、それをあたしは黙り続けることで粉々に打ち砕いてやった。お客さんは来ても、妖精と話せないとわかると怒りや落胆の顔で帰って行った。そうして何十人と見送ったかわかんないけど、翌日、さらに翌日とテント小屋へ行くたび、お客さんの列は見る見る短くなり、一週間が経つ前には数えられるほどまで人数が減ってた。仕事を終えるたびに父親はあたしを怒鳴りつけてたけど、ここまで減っちゃうと怒る気力も失せるのか、無言でこっちをねめつけるだけになってた。
そして今日、並ぶお客さんの数はゼロになった。それどころか見かけてやって来る人もいない。仕事を始めた頃の状況に戻ったようだった。やることのない父親はテントの隅に座り込んで、ただただうなだれてる。
「……お客さん来ないけど、呼び込みに行かないの?」
「うるせえ……全部、お前のせいだ……」
顔を上げた父親はこっちを睨むと、のろのろと立ち上がって近付いて来た。
「許さないからな。俺達家族を不幸にしたお前を……!」
「俺達家族? 自分を棚に上げた言い方はやめてよ。あたしは散々稼がせてあげたのに、あんたがそれをギャンブルに使うから――」
「もういい! 何の役にも立たないなら、お前なんか要らないよ! ここまで評判が落ちたら、どうせ取り戻せないだろうしな……踏み潰して、終わらせてやるよ!」
父親があたしをわしづかみにする――や、やば。限界が来ちゃったか?
「な、何も、永遠にしゃべらないつもりなんてないよ? あんたが反省して、生活費を入れるって奥さんに約束さえしてくれれば、こっちだって――」
あたしが話してるのに、父親はまったく聞かずにあたしを地面に投げ落とすと、怒りと失望の目で見下ろしてくる。
「金も何にも生まないやつなんか、いるだけ無駄だ……!」
いや、それ、自分にも当てはまっちゃう言葉でしょ、って言い返す前に父親が片足を上げたのが見えて、あたしは恐れおののいた。踏み潰されたとして、もし本当に死んじゃったら……身体はないし、痛みも感じないけど、でも死なないっていう確証もない。どうなるかわかんない状況にあたしは思わず息を呑む――
「少しよろしいかな」
その時、入り口のほうから男性の声がして、父親の意識がそっちへ向いた。
「ここは、妖精と話せる見世物小屋だと聞いたのだが」
……もしかしてお客さん? 助かったって思うべきなんだろうか。
「だったら何だ。しゃべりたいって言うなら無駄だぞ。こいつは客前じゃしゃべらない」
「それなのに、見世物小屋を?」
「ちょっと前までは普通にしゃべってたんだ。でももうしゃべらなくなったから、今処分しようとしてたところだ」
一旦下ろした片足がまた持ち上がってあたしを狙う。お客さんの目の前で、少しは躊躇してよ!
「処分ということは、もう必要がなくなったということだろうか」
「……あんた、客じゃないの? 何しに来たんだよ」
父親は怪訝な顔を向ける。
「客ではあるが、一つ、頼みがあってね」
「何だよ。聞くだけ聞いてやるよ」
「その妖精を、私に譲ってもらいたい」
「譲る? こいつを……?」
足を下ろしながら父親はこっちを見つめてくる。……しゃべるだけじゃ物足りず、とうとう欲しがる人が現れるとは。妖精ってそんなに魅力的なの?
「もう必要がないのだろう?」
そう言われて父親の表情が悪だくみをするように変わった。明らかに何か閃いたっぽいな……。
「……まあ、それはそうなんだけど、でも長いこと世話してきて、愛着の湧いた存在でもあるからさ、はいどうぞって気にもなあ……」
あんたに世話された覚えなんてないけど? あたしがあんたの世話してたと思うけど?
「そこはもちろんわかっている。こちらもはなからタダで譲ってもらおうとは考えていない。そちらの言い値で構わない。だが法外な額ではさすがに買い取れないが」
言い値ってすごいな。あの人、どれだけお金持ちなんだろう。帽子に眼鏡にしわ一つない上着とズボン……服装は綺麗で品もあって、上流階級っぽさは感じるけど。
「こいつを買い取りたいってのか。そうか……それなら……」
父親は唇をペロッと舐めてあたしを見つめる。いくらにしようか考えてる顔は、見るに堪えないぐらい欲丸出しだな。
「……百……いや、二百万ユンクだ。それなら譲ってやってもいい」
「二百万か。思ったより安いな。ではそれで――」
「ちょちょ、ちょっと待った!」
父親が慌てたように声を上げた。安いって言葉に反応したな。
「妖精なんて、どこにもいないし、もう二度と手に入らないかもしれない貴重な存在だ。それが二百万ってのは、やっぱ安過ぎるな……」
「では、いくらかな」
父親はニヤリと下卑た笑みを見せた。
「一千万ユンクだ」
一気に五倍? さすが欲まみれの腐れ親父だな。見れば男性は眉をひそめて、当惑した様子になってる。お金持ちでも一千万っていうのは高過ぎるらしい。
「予算を越えてしまう額だ。残念だが、買い取ることはできそうに――」
「そんなに欲しいなら、少し負けてやってもいいけど……?」
高く言い過ぎたって気付いたらしい。お金にならないより、安くしてもお金を手にしたいって感じか。
「そっちはいくらな買える? 五百万はどうだ?」
いきなり半額……確実なほうを取ったか。
「四百万では?」
「四百五十万」
「……いいだろう。それで決めよう」
四百五十万……それがあたしの値段らしい。全然安くはないけど、すっごく高いって言えるのかどうか、よくわかんない額だな。
「金のやり取りだし、覚え書きぐらいしたほうがいいよな。あと支払い方法とか――」
「具体的な話をする前に、確認しておきたいのだが」
「おう、何だ」
「妖精が本当に会話できるのか、買い取る前に私はその声を聞いておきたい。それが確認できなければ、申し訳ないがこの話はなかったことにさせてもらう」
「あ、ああ、そりゃもちろん。こっちだって妖精が嘘じゃないってわかってもらわなきゃいけないからな……」
父親はそう言うと、引きつった笑みを浮かべてあたしをつかみ上げた。そして顔を間近に近付けると、小声で言った。
「俺に踏み潰されたくなきゃ、こいつとしっかりしゃべるんだ。それがお互いのためだ」
会話をすれば、父親は大金が手に入り、あたしは踏み潰されずに済む……確かにお互いのためにはなるけど、生活費も入れない父親がお金を受け取ったら、またギャンブル三昧の日々に戻るんじゃ……いや、絶対に戻っちゃうよ。それを阻止するために会話を拒否すれば、今度はこっちの身が危うくなる……うーん、困ったな。どうにか上手く収まる道はないもんかな……。
「どうぞ。じゃあ、この中にいるから、しゃべりかけてみな」
父親は男性にあたしを手渡した。眼鏡の奥の興味ありげな目がじっと見つめてくる――ただのお客さんだけど、この人がいい人だって信じて、頼んでみようかな。
「この声、聞こえる? 聞こえづらかったら、こっちに耳、寄せて」
父親に聞こえないよう、あたしはわざと小さい声で呼びかけた。すると男性は聞こえたのか、思惑通りにあたしに耳を寄せてくれた。
「今から言うことは、あなたへのお願いで、そこの腐れおや……じゃなくて売主の人には秘密にしてもらいたいんだけど、いい?」
男性は驚いたふうに何度か瞬きをすると、抑えた声でわかったと言った。
「怪しまれないよう手短に話すけど、実はそこの男、ひどいやつで――」
あたしは父親の家庭での態度をかいつまんで話し、母親とマリアちゃんのことを心配してると伝えた上で、ある頼み事をした。
「――ってことにならないよう、どうにかしてもらえない?」
「心優しい妖精なのだな。素晴らしい。まさに理想的だ……わかった。君の望みに沿うように善処してみよう」
「しゃべれてるか? いつもはもっと大きな声で話すんだけど」
側に立つ父親が様子を聞いてきた。
「ああ、声も聞けたし、会話もできたよ。この中には本当に妖精がいるようだな」
「これで確認はいいか? それじゃあ金はいつ用意してくれる?」
「今日は無理だが、明後日の午後なら用意できる。その間に、そちらの言う覚え書きをしたためよう」
「明後日だな。へへ、じゃあちょっと待っててくれ。紙とペンを持って来るから」
父親は一旦テント小屋を出て行くと、どこからか持って来た紙とペンを手にすぐ戻って来た。
「さあ、買い取るって一言書いてくれ」
丸机に紙を置き、父親は男性にペンを渡す。
「後に問題にならないよう、こういうものは細かく、丁寧に書いたほうがいい。あなたの名前と、住所を教えてもらえるかな」
「え、ああ、俺はジヌ・グローザだ。住所は――」
男性はそれを聞きながら紙にサラサラと書いてる。
「……これでどうだろうか」
書き終えた覚え書きを父親は横からのぞき込んで確かめる。
「ふん、ふん……金額も間違いない。完璧だな。後は明後日に金を受け取れば、取り引き成立だ」
「その買い取り金だが、明後日に用意できるだけで、そちらに渡しに行くのは数日後になる可能性もある。私も忙しい身なのでね。だからわざわざ自宅で待つことはない。時間の無駄になってしまうから。気になるとは思うが、普段通りに過ごしてほしい」
「そ、そうなのか? 忙しいんじゃ、しょうがないな……まあ、持って来てくれるなら構わないが」
「それではひとまず、この妖精入りの箱は返そう。自宅を訪れた時に、買い取り金と引き換えにまた受け取ろう」
そう言って男性はあたしを父親に手渡す。
「お互い、その日が楽しみだな。じゃあよろしくな」
男性は軽く会釈すると、父親、そしてあたしを見てからテント小屋を後にした。あの人、上手くやってくれるかな……。
「金持ちになれる日も、もうすぐだ。ヒヒッ……お前には一応感謝しとくよ。助かったぜ」
あたしの頭上の蓋をバンバン叩きながら父親はすでにお金を手に入れた気で笑ってた。結果がどうなるかは置いといて、もうこの人の道具にならずに済むことは清々するわ。
家に帰った父親は、奥さんとマリアちゃんにあたしを売ることを伝えた。これにマリアちゃんは嫌だって反対してくれたけど、娘の言葉を聞くような父親じゃない。売ったお金で美味しいものが食べられるぞと無理矢理に納得させ、黙らせた。だが父親のひどいところは、四百五十万ユンクって言わなかったことだ。こんな大金を奥さんに教えないなんて、明らかに独り占めしたい魂胆があるからだろう。それを表すかのように、この日の夜から父親はまたどこかへ出かけ始めた。そして朝方に帰って来た……多分、手に入る大金を見越して、少ない持ち金でまたギャンブル通いを始めたんだと思う。翌日には昼にも姿を消してた。そんなにお金残ってたのか? 借金でもしてんじゃないかって心配になるけど……いや、こんなどうしようもないやつの心配なんて、どうでもいいか。
あの男性がお金を用意する明後日は過ぎて、次の日、また次の日と、何の来客もなく過ぎてた。父親は待ち切れないのか、部屋にいるとそわそわした様子も見せてたけど、何もすることがないと、すぐに出かけてしまう。正直あたしも今か今かっていう心境だった。一体いつになったら来るんだろうか。このまま来ない、ってことはないと思う。あたしの話を耳を寄せてちゃんと聞いてくれてたし、そんな優しい人が約束を無視するはずはないと思うんだよね。なかなか来ないのはきっと、何か考えてくれてるから……あたしはそう思いたい。
父親が夕食を終えて、いつも通りどこかへ出かけて行った夜だった。部屋の扉越しに玄関を叩く音がして、誰かが来た気配があった。ついに来たか――そう思ってドキドキしながら待ってると、足音が近付いて来てあたしのいる部屋に入って来た。
「ここが夫の部屋なので、このどこかに箱は……ああ、ありました」
母親はこっちに歩いて来ると、かばんの中にいるあたしを取り上げた。見れば部屋の入り口には、あのお金持ちそうな男性が立ってる。
「まさにその箱だ。……妖精君、今一度声を聞かせてもらえるか」
「首を長くして待ってたわ。まあ、首なんてないけど」
「待たせてすまない。君の望みを叶えるタイミングを見計らっていてね」
男性は苦笑いを浮かべる――やっぱり考えてくれてたんだ。
「この妖精があなたを知ってるってことは、本当に買い取りに来たんですか……?」
「夫人、私の言葉を信じておられなかったのですか?」
「い、いえ、そういうわけではないんですけど、夫が言ってたことだから、その、もっと、柄が悪い人が相手だと思ってて……」
「大丈夫だよ奥さん、この人は頼み事を聞いてくれる優しい人だから。信用して」
「え、ええ……すみません。失礼なことを……」
「初対面の人間の言葉を信じろというほうが難しい。疑うのは当然の態度でしょう。……では、夫君が不在の間に、買い取りを済ませましょう」
そう言うと男性は足下に置かれた革かばんを持ち上げて、その中身を母親に見せた。
「……なっ、何ですか、これ!」
あたしの位置からじゃ見えないけど、きっと眩しいほどの大金が入ってるんだろう。
「そちらへ支払う買い取り金です。ですがこれは一部で、残りは通りに停めてある馬車にあります」
「買い取りって……一体、いくらで買うんですか」
「四百五十万ユンクです」
「よ……え……?」
初耳の母親は目を見開いたまま固まった。そりゃびっくりする額だよね。
「その金額をこちらへ支払うと、夫君とは覚え書きを交わしました。なのでこの金はあなたが受け取ってください」
「だけど、私はこのお話とは、まったく無関係だし、受け取るなら夫がいないと……」
「いいえ。無関係であっても受け取ることに何ら問題はありません。なぜなら覚え書きには、受け取る相手はグローザ家としか書かなかったものでね。あなたもグローザ家の一人ですから、受け取ることはできます」
……なるほど。覚え書きにそう書いたことで、母親がお金を手にしても文句を言われないようにしたのか。なかなかやるね。
「一旦受け取れば買い取りは終了ということで、その後の金の扱い……たとえば夫君に黙り、これを元手に娘さんと新しい暮らしを始めるなど、どうするかはあなたの自由です」
え? と怪訝な目を向けた母親に、男性は微笑みを返す。
「この金はいいきっかけにもなり、手段にもなり得ます。もし生活に行き詰まっているのであれば、そういう道もある、と……出過ぎた提案でしたら謝っておきます」
眉をひそめた母親が手元のあたしを見下ろす。
「……あなた、何を話したの?」
「その、家庭の事情を勝手に話しちゃったのはごめんなさい。でもこうでもしないと、またお金をギャンブルに使われて、あなたとマリアちゃんが苦しむと思ったから……」
「これが前に言ってた、あなたなりのお仕置きってこと? じゃあ、あなたが買い取られるのは、私達のために……?」
「それは偶然っていうか成り行きってだけだけど、自分のことしか考えてない人に全額使われるのは気に食わないからさ。お別れするなら、どうにかできないかなって……マリアちゃんに拾ってもらった恩返しじゃないけど」
「そんなふうに思ってくれてたなんて……本当に、ありがとう」
「お礼はいいから。で、どうする? その人が言った、新しい暮らし始めるなら、夫がいない今決断するべきだと思うけど……あれから考えてたんでしょ? このまま続けるか、見限るかって。答えはもう出た?」
聞くと母親は視線をさまよわせて、まだ迷う様子を見せつつも答えた。
「ジヌが私を頼ってくれるのは嬉しいけど、今はそれが甘えだけになってる。それがなくならない限り、私は側にいちゃいけないと思うのよ。しばらく……離れて暮らそうと思う」
「そう……それが決めたことなら、あたしはもう口は出さないわ。ここを出るなら早いほうがいいよ。……ねえ、奥さんとマリアちゃんを馬車で送ってあげてくんない?」
「わかった。金も一緒に運んで――」
「待ってください。お金は全額、持って行けません。その半額は、夫のために、ここへ置いておいてください」
「半分、あげちゃうの?」
「私がいなくなれば、あの人は収入がなくなって、食べるのにも困るわ。次の仕事を見つけるまでの生活費は残さないと」
随分長期間な生活費だと思うけど……愛情が残ってる証拠なんだろう。それにしても、暴力振るわれてカツカツの生活させられてるのに、何でこんなに優しくできるのか。この人は本当にお人好しだな。
「それでいいのなら、その通りにしよう。では、荷物をまとめて馬車へ向かおう」
わかりましたと母親は言うと、あたしを男性に手渡して家を出る準備を始めた。その様子を居間で眺めながら、あたしは男性に聞いた。
「奥さんにもお金が渡れば、あたしはそれだけでよかったんだけど、まさかここまで助けてくれるなんて……あたしの気持ちを察してくれたの?」
「いや。ただ私にも娘がいてね。辛い目に遭っていると聞いて、助けられればと思っただけだ」
「父親がこれ知ったら、あなたに怒鳴り込みに行くんじゃない?」
「そうかもしれないな。だが私は覚え書きに反したことはしていない。金の扱いも、妻と子が出て行くのも、すべて彼女の自由であり意思だ。私が指示したことではない」
「それをあの父親が納得して聞くとは思えないけど」
「だとしても、覚え書きを交わした以上、納得するしかないだろう」
フッと笑った男性からは、父親に何を言われようとも動じない自信がうかがえる。全部予測済みで覚え書きに書いたってことか……。
「お金持ちな上に、頭もいいんだね。……あなた、名前何ていうの?」
「ゼレア・ステファネスクだ」
「ふーん。あたしはない、っていうか忘れちゃったから、まあ適当に呼んで」
「忘れた? 本当なのか?」
「名前どころか、この小箱に閉じ込められる前の記憶全部ないの。だからあたし、本当は妖精じゃないかもしれないんだけど……そうじゃなかったら、捨てる?」
恐る恐る聞いたあたしに、ゼレアさんは笑みを見せた。
「重要なのは、君が人間と楽しく話してくれることであって、正体ではない」
「妖精だから、あたしを買い取ったわけじゃなかったの?」
「物珍しさに惹かれた部分もあるが、それは二の次で、とにかく話し相手となる存在が必要だったんだ」
話し相手って一体誰の? と聞こうとした時、居間に母親とマリアちゃんがやって来た。
「お待たせしました。準備、できました」
急いでまとめたのか、少し早い呼吸をしながら母親は言った。その右手には布のかばん一つが提げられてる。左手で手をつないでるマリアちゃんも、小さな肩かけかばんをしてた。
「少ない荷物だが、それだけで?」
「目ぼしいものは生活費の足しに売ってしまったので、荷物はこれだけなんです。身軽でちょうどよかったわ。それじゃあ、お願いします」
「お母さん、これからどこ行くの?」
マリアちゃんが不安そうに見上げて聞いた。
「これからお母さんの親戚のお家にお泊りに行くのよ。皆優しい人達だから大丈夫」
「そうそう。ちょっとした旅行みたいなもんだから、きっと楽しいよ」
丸い目がキョロキョロしながらあたしを見つけた。
「……妖精さん? 一緒に行くの?」
「えっと、途中まで、かな。あたし別のお家へ行くの。だからマリアちゃんとはお別れだけど、いっぱい話せたこと、忘れないから。お母さんと幸せにね」
「え、お別れなんて、ヤダよ……」
マリアちゃんがシュンとうつむくと、母親はその頭を優しく撫でる。
「マリア、妖精さんも行かなきゃいけないところがあるの。だから困らせちゃ駄目よ。お別れを言いましょう」
言われて口をへの字に曲げてたマリアちゃんだったけど、渋々上目遣いにこっちを見ると口を開いた。
「……妖精さん、お話してくれて、ありがとう……元気でね」
「マリアちゃんもね」
あたしはグッと来る感情をこらえて明るい声で返した。この母娘の将来が今より良くなるって、離れたところから祈ってるよ……。
その後、買い取り金の半分を残して馬車で去ったあたし達は、母娘を親戚の家まで送り届けて、それからゼレアさんの家へ向かった。大分遅い時間になって、馬車から見える景色も黒一色に覆われてたけど、着いた家を見ると、それは見上げるほど大きくて、灯りの漏れる窓もたくさんあって、明らかに普通の家じゃなかった。これってやっぱり、お金持ちの家だよね……? 今夜からここで過ごすのか。まあ環境にさえ問題がなければ、お金持ちだろうとなかろうと、あたしには大して関係ないことだけど。
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