十話

「――こんな感じでいいか」


 側から父親の独り言が聞こえてくる。あたしは彼のかばんに入れられて、頭上の青空しか見えない。外のどこかに来たらしいけど、あんまり喧騒は聞こえてこないな。人通りの少ない場所なんだろうか。


 夫婦喧嘩に割って入った日から数日が経ってる。あたしは父親に取り上げられて以来、マリアちゃんと話せてない。彼の部屋の棚が定位置になって、勝手に部屋に入るなとでも言われてるのか、マリアちゃんが会いに来ることもなかった。彼女に頼んで助けてもらうはずだったんだけどな。その代わりに父親に魔術師のことを話そうとしたけど、随分と忙しそうにしてて、部屋に戻ってもすぐに出かけるか、ベッドで熟睡するかだったから、話しかける暇もなかった。


 そんな日々があって今日だ。彼はあたしでお金を稼ぐみたいなことを言ってたけど、正直、こんな男の金儲けの道具にされるのは真っ平ではある。同意なく利用するなって怒鳴りたいところだけど、母親の苦労を思えば、あたしが気持ちを押し殺しさえすれば一助になるってことで、まあこれは父親のためじゃなく、母親とマリアちゃんのためなんだって言い聞かせて、いろいろある文句は胸にしまい、大人しく過ごしてきた。これで全然稼げなかったら、ありとあらゆる文句をぶつけてやろう。


 何もない青空を眺めてると、父親の姿が現れてかばんを持ち上げた。ガタゴト揺らされて運ばれたのは、暗い天井のある屋内だった。……にしても、天井が狭いな。よく見れば布っぽいし……これ、もしかしてテント小屋?


 父親はかばんからいろいろ取り出し、そしてあたしも取り出すと、小さな丸机の上に置いた。ここからだとテント小屋の入り口がよく見える。外は空き地みたいで建物は見えない。遠くの道も人影は少ない。こんな場所でどうやってお金を稼ぐつもりなの……?


 父親は天井にぶら下げたランプに灯りをともすと、あたしの側に来て話しかけてきた。


「いいか。今から客呼び込んで来るから、来たら愛想よく会話しろよ」


 それだけ言って出て行こうとするから、あたしは慌てて呼び止めた。


「ちょっと! 客って何なのよ。説明ぐらいしてよ!」


 振り返った父親は面倒そうな顔をしながら戻って来た。


「そんなのしなくたって、わかるだろ」


「わかんないから聞いてんでしょ。ちゃんと説明して」


「だから、俺は客を呼んで、有料でお前と会話させるんだよ」


「あたしと会話? それだけでお金取るの?」


「当たり前だ。何せお前は妖精なんだぞ? 妖精と話せるなんて一生ないことだ。こんな貴重な経験、金出してもしてみたいってやつは大勢いるはずだ」


「それって、つまり、見世物小屋、みたいなこと……?」


「まあ、そんな感じだな。だから客に何を言われても、しっかり答えろよ。お前がしゃべることで金を稼げるんだからな」


 あたしを見世物にしてお客を集めて稼ぐ……それはわかったけど、そもそもの疑問をあたしは聞いた。


「あなたは、あたしのこと妖精だって思ってんの? マリアちゃんが言った時、疑ってなかった?」


「そんなのはどうだっていいことだ。お前が何だろうと、こっちが妖精って言い張れば、客はお前を妖精だと思い込んでくれる。だから俺がどう思ってるかなんて重要なことじゃない」


「信じもしてないことを、嘘言ってお金取るの? それってどうなの……?」


「嘘とは決まってないだろ。お前は本当に妖精かもしれない。それに妖精としゃべりたいって需要があるなら、俺はそれを提供して、客を満足させようとしてるんだ。一種の社会貢献だろ?」


 あたしが妖精じゃなかったら、社会貢献どころか詐欺になるけど。


「わかったか? 客が来たらしっかりしゃべるんだぞ」


 そう念を押して父親は外へ呼び込みに出て行った。何かよからぬことに手を貸してる感は否めないけど、これで本当にお金が稼げて、母親とマリアちゃんの助けになれるなら、まあ、しばらく様子を見てみようかな。


 正面にある入り口から、あたしはその先で呼び込みをする父親の後ろ姿を眺めてた。人通りが少ないせいか、道の左右へ何度も姿を消しながら、通りかかった人に付きまとって声をかけ続けてた。たまたま通った人は迷惑だろうなあ、なんて思いながら眺めること二時間……多分そのぐらいの時間は経ってると思う。妖精としゃべりたい需要なんてないんじゃないの? って疑い始めた頃だった。


 道から父親が戻って来た。その横には、ごく普通の見た目の若い男性がいる。お客さん第一号か?


「――この中にいますから。ささ、どうぞ」


「まだ信じてないけど、もし嘘だったら金返してもらうからな」


「嘘かどうかは、実際にしゃべって確かめてください。こっちは自信を持って用意してますんで」


 若者は疑いの目を向けつつ、懐からお金を出して父親に手渡した。


「ありがとうございます。じゃあ、その箱に話しかけてみてください」


 ゆっくりあたしに近付いた若者は、少し険しい表情を浮かべながら口を開く。


「……こんにちは。君は、妖精なのか?」


 ここは正直に答えるより、合わせたほうがいいかな――


「こんにちは。ええそうよ。あたしは妖精よ」


 返すと、若者の顔は見る見る驚きに変わった。


「えっ、ほ、本当に? ど、どこか別のところから声を出してる人がいるとかじゃないのか?」


 そう言って若者は机の下や天井、テントの布の壁なんかを探り始めたけど、当然誰かがいるはずもない。


「どこにも誰もいませんよ。ここにいるのは俺とあなた、そして妖精だけです」


 父親は手応えを感じたのか、ニヤニヤしながらそう言った。若者も誰もいないとわかると、再びあたしと向き合って話しかけてきた。


「信じられないけど……本当に、妖精なの?」


「本当だよ。信じて」


「すごい……本物の妖精なんて……!」


 若者は感激したのか、見開いた目を輝かせてあたしを見つめる。


「僕、小さい頃からおとぎ話とかが大好きで、妖精に会うのが夢だったんだ。お願いがあるんだけど、この箱から、出て来てくれないかな。実際の妖精ってどんな姿なのか、見てみたいんだ」


 それは、無理だな。自分の意思じゃ出ることできないし――


「えっと、あたし、極度の恥ずかしがり屋で、人の目があるところだと緊張して動けなくなって、顔が真っ赤になっちゃうの。話もできなくなるから……それは勘弁して?」


「箱を開けたら恥ずかしさのあまり、飛び出して逃げるかもしれないから、悪いけど会話だけで辛抱してください」


 すぐに父親が付け足して助けに入ってくれた。これに若者は不服そうに口を尖らせた。


「見れないの? 目の前にいるのに……嫌だって言うなら、しょうがないか……」


 その後、この若者とは二十分ほどおしゃべりした。当然あたしのことばっかり聞いてくるから、作り話をするのも面倒になってきて、後半は彼の悩みを聞いて相談に乗ってあげた。そのおかげか、おしゃべりを終えた彼の表情はどことなくすっきりした印象だった。


「もっと話してたいけど、そろそろ行かなきゃ……君と話せて本当によかったよ」


「こちらこそ。あなたと話せて楽しかったわ」


「また来るかもしれないけど、その時は君のこと、もっと聞かせてほしいな」


「もういっぱい話してあげたでしょ? これ以上は恥ずかしいからダメ!」


 ははっと笑うと、若者はじゃあまたねと言ってテント小屋を後にした。父親はそれを見送ると、満面の笑みでこっちを見た。


「いい感じじゃないか! その調子で頼むぞ。俺はもっと客呼んでくるから」


 外へ出て行く背中をあたしは見送る――これでいいのかな。やっぱり気分がいまいちよくないけど……まあ、始めちゃったことだし、頑張ってみるか。


 この日は夕方まで呼び込みを続けてた父親だったけど、結局お客さんはあの若者だけで家に帰った。母親にはすでに仕事内容を伝えてたみたいで、どうだった? って聞かれた父親は、まだ始めたばかりだと無愛想に返した。ちなみに夫婦喧嘩した二人だけど、あれから険悪な雰囲気になるわけでもなく、かと言って仲直りした様子もなく、お互いがお互いの機嫌を探ってるような感じが続いてた。父親はビンタしたことに少しは罪悪感があるのか、怒鳴ったり喧嘩腰になることはほとんどなかった。母親も仕事について文句や不満を言うことはなく、新たに始めたことを見守るつもりのようだった。久しぶりに話すことができたマリアちゃんは、大丈夫だった? ってあたしを心配してくれた。お父さんの仕事を手伝ってるだけだから大丈夫って言ったら、ちゃんと休んでねって優しく言ってくれた。幸いあたしは疲れ知らずだから休む必要はないんだけど、こんなことを言ってくれると、マリアちゃんのためにも頑張りたいって気持ちが湧いてくるな。


 翌日もあたしはテント小屋でお客さんが来るのを待ち続けた。父親はせわしなく呼び込みをして、夕方までに来たのは二人。まあ、昨日より一人増えたけど、これじゃ子供のお小遣い程度しか稼げないな……なんて、ちょっとがっかりしてたら、数日後、状況は一変した。


 予兆はあった。四日目ぐらいからお客さんの数が倍になった。って言っても六人ほどだったけど、次の日には十人、その次の日には十八人と、日を追うごとに数が倍増していった。何で急に? って思ってお客さんに聞いてみたら、あたしのことを噂で聞いたとか、ちょっとした話題になってるとか、知らないうちに情報が広がってたようだ。そうして日に日にお客さんが増えて、仕事を始めてから二週間が過ぎた頃になると、テント小屋の前には長蛇の列が作られてた。


「ねえ、まだ順番来ないの? 結構待ってるんだけど」


「おい、割り込むなよ! 後ろに並べ」


「ここって先にお金払わなきゃ妖精と話せないの?」


「代金を払った人だけが中に入れるんですよ。……あ、そこの人、まだ代金払ってませんよね。先にいただけますか?」


 父親は入り口で並ぶお客さんからお金を集めてる。その一方であたしは五人のお客さん相手におしゃべりをする。


「妖精って普段はどこにいるの?」


「空飛べるんだよね? どこまで高く飛べるの?」


「いたずら好きな妖精が多いって聞くけど、それ本当?」


「君が妖精なら、妖精語とか話せるか?」


「妖精の国はあるの? 女王様とかいるの?」


 年齢性別のバラバラなお客さんが一斉に質問してくる。あたしはそれをどうにか拾い聞いて順番に適当に答える。……はあ、本当に作り話考えるのが面倒だわ。別の質問とのつじつまも合わせなきゃいけないし。嘘を重ねると取り返しがつかなくなるって言うけど、それがよくわかる気がする。ちょっとでも変な答え方すれば、一気に疑われるんだろうな、あたし。だからある程度質問に答えたら、今度はこっちから話す。あなたの服素敵とか、その指輪かっこいいとか、まつ毛長くて可愛いとか、どうでもいいことをとりあえず言う。お客さんの気分を上げて、それで時間を稼ぐのだ。


「五分が経ちましたので、次の方々が入りますよ」


 父親が入り口のほうから大声で知らせた。その傍らの机の上には砂が落ち切った砂時計が置かれてる。


「ええー、もう時間?」


「早いよお。もっと聞きたいことあるのに」


 五人のお客さんはブーブー言いながらあたしの前から立ち去って行く。


「すみませんね。たくさんの方がお待ちなので。もっと話したい方は列に並び直してください」


 ペコペコ頭を下げつつも、父親の表情には笑顔が絶えない。この時間制限制を取り入れてから、お客さんの回転速度が上がって稼ぎも上がったようだった。これの前までは十分、二十分と長々しゃべってたから、待ってるお客さんからかなり文句を言われてたけど、五分なら前ほど長く待つことはない。五分で満足にしゃべれなかったお客さんは、また列に並んでお金を払ってしゃべることになる。この仕組みは父親にとって理想的だろう。でもあたしにとっては、ただ忙しいだけだ。一度に五人を相手に、その質問に考えながら答えて、五分が経って終わったと思ったら、また次の五人の質問に答えなきゃならない……あたしが疲れない身だからいいけど、もし生身があったら、たった一日で過労でぶっ倒れてるぐらいの仕事量だと思う。つまり、それだけあたしは父親を稼がせてるってことだ。


 最後のお客さん達がテント小屋を去った夕暮れ時、帰り支度を始めた父親にあたしは聞いてみた。


「ねえ、ここ最近すごい数のお客さん来るけど、どれぐらい儲けてるの?」


「あん? 妖精でもそんなことに興味があるのか?」


「興味っていうか、知りたいのは儲けって言うより、そのお金をちゃんと家計に入れてるのかってことよ。それだけの儲けは確実にあるでしょ?」


「何の心配だよ。余計なお世話だ」


「奥さんにちゃんとお金、渡してるの? どうなの?」


「渡してるって! 当たり前だろ」


 うるさそうな顔でそう言った父親は、あたしをつかんで荷物の詰まったかばんに放り入れた。


 家に帰ると、父親は今週の稼ぎだと言って、母親にいくらか渡したようだった。かばんの中からじゃその様子は見えなかったけど、ありがとうと嬉しそうに言った母親の声は聞こえたから、一応一家の主としての役目は果たしてるみたいだ。マリアちゃんの様子も知りたかったけど、近付いて来たらしいマリアちゃんに対して父親は、これは商売道具だから触るなと遠ざけて、あたしはそのまま父親の部屋に運ばれた。……商売道具……事実そうなんだけど、はっきり言われると何だか自分のことが悲しく思えてくるな。でもそれで家計の助けになってるなら、あたしは道具と言われようとも、耐えてみせる。


 テント小屋に集まるお客さんの数は、それからもどんどん増えて行った。もう呼び込みなんか必要ないぐらいに連日集まっては長い列を作ってた。毎日が集客数のピークだと思っても、翌日にはそれを上回る。この街に妖精フィーバーが起こってるって言っても過言じゃないように思える。騒がれれば騒がれるほど、父親はウハウハ状態だ。でもこっちは目まぐるしい毎日を過ごすだけで癒しもない……この不公平はどうにかならないもんか。こんなこと、訴えたところで父親は聞いてもくれなさそうだけど。


 でもある日、父親は突然こんなことを言ってきた。


「今日はあっちには行かない。休みだ」


「え? あっちって見世物小屋のこと? 仕事しないの?」


「十分稼げてるからな。少しは身体も休めないと」


「でも、お客さん、今日も待ってるんじゃないの?」


「一日ぐらい待たせておきゃいい。行けば必ずお前としゃべれるって思われるより、運がよければしゃべれるって思われたほうが、もっと話題にもなるし、何か特別感があるだろ?」


「はあ……」


「毎日しゃべれたら、そのありがたみが減る。だからたまに休んだほうが、この先さらに稼げるんだよ」


 そう言って父親は部屋を出て行こうとする。


「ちょっと、どこ行くの?」


「休みなんだ。羽伸ばすんだよ」


「遊びに行くの? じゃああたし、マリアちゃんに――」


 会いたいんだけどって言う前に、父親はさっさと部屋を出て行ってしまった。くぅ、無視しやがって。誰が頑張って稼がせてると思ってんのよ。様子の見れてないマリアちゃんに会わせてくれるぐらい、してもいいのに。はあ……今日は一日、この部屋で暇に過ごすのか。知らない人とおしゃべりして忙しいのも辛いけど、無人の部屋でただぼーっとしてるのも辛いな……。


 翌日はいつも通り、父親はテント小屋で仕事に励んだ。彼が言ってた通り、一日休んだだけでお客さんの数は少し増えてた。これが毎日通えない特別感、ってやつなのか? 昨日はいなかったけど、今日はいるっていうありがたみをお客さんに芽生えさせたってことなんだろうか。だとしたら父親はなかなか商売の才能があるのかもしれない。


 このことで、仕事は週に二回休むことになった。曜日は決めてないから、いつ休むかは父親次第だ。休んだ翌日はいつにもましてお客さんの列が長くなった。それが道にまではみ出すと、あれは何の行列だと、興味を持った人がさらに並んでくれる……そんな好循環が生まれて、この仕事は絶好調と言えた。これで家計も潤って、母親とマリアちゃんも喜んでくれるはず――あたしはそう思ってたんだけど、好調な最中、父親の様子が少し変わってきた。


「……ねえ、仕事は? 行かないの?」


「今日はいいだろ。ちょっと出かけてくる」


「今週はもう二回休んでるけど? 三回も休むの?」


「二回も三回も変わらないよ。お前も休んどけ」


 父親は足早に部屋を出て行った。あたしは休んでもあんまり意味ないんだけど……彼はそんなに疲れてるんだろうか。でも休日は決まってどっかに出かけてるんだよね。本当に疲れてたら家でゆっくりしてるもんだと思うけど。


 それからも父親は週に二回以上休むことが多くなった。テント小屋じゃ特に疲れた感じはないのに、休みを決める理由は「疲れた」ばっかりだった。この人、もしかして怠け始めてるのか? って思ったら、その後、週に四回も休み始めた。さすがにあたしも心配になった。父親じゃなく、母親とマリアちゃんのことがだ。仕事は未だ好調とは言え、週に三日分しか稼ぎがないと、家計に入れるお金も大分減っちゃったんじゃないだろうか。何か、まずい気がする……。


 父親が仕事を怠け始めた、ある日のことだった。


 仕事から帰って、あたしは入れられたかばんごと部屋に置かれ、父親は夕食を食べに部屋を出て行く。と、扉を開けた瞬間に居間から母親の声が聞こえた。


「ねえあなた、生活費はいつ入れてくれるの? もう何週間も貰ってないんだけど」


 生活費を、貰ってない……? 初耳なんだけど。まさか、ずっと渡してなかったの? あんなにお客さんがいて稼いでたのに?


「ああ? 前にたくさん渡しただろ」


「たくさんって……あれぐらいじゃ二週間で使い切っちゃうわよ」


「あれぐらい? 俺が稼いでやったのに、少な過ぎるっていうのか」


「そんなこと言ってないでしょ。できれば前みたいに、毎週、少しずつでも入れてくれると助かるわ。それとも、仕事のほう、上手く行ってないの?」


「順調にやってる。仕事には口出すな」


「本当に? 最近休みがちで、一人でどこかへ出かけて――」


「うるさいな。どこへ行こうと俺の自由だろ」


「でも――」


「夕食を食べさせない気か? じゃあいい。外で食べてくる」


「ジヌ、待って……」


 苛立ちのこもった足音が遠ざかって、バタンと叩き付けるような扉を閉める音が聞こえた。本当に行っちゃったみたいだ。部屋の扉が開けっ放しで、母親の声がよく聞こえた。


「もう……ちょっと話すとこれなんだから……まったく」


 母親も彼の態度には困ってるようだ。しかし生活費を入れてなかったなんて。てっきり毎週入れてるもんだと思ってたのに……じゃあ、稼いだお金はどこにあるの? この部屋? それとも彼一人で使ってるの? でも一人で使うにも、使い道ってそんなにあるのかな……。


「お母さん……」


 不安そうなマリアちゃんの声がした。久しぶりに聞く声だ。


「マリア、お腹空いたよね。お母さんと一緒に食べちゃおう」


 明るい声で母親が言うと、ガタガタと椅子を動かす音がして、いただきますと二人の声がした。……あの父親、戻って来たら生活費のこと問い詰めてやる。


 でもこの日、父親が帰って来たのは早朝だった。暗い部屋に入って来たと思ったら、そのままベッドでいびきをかいて、今度は夢の世界へ行ってしまった。話しかける隙もなかった。次に目を覚ましたのは昼頃で、あたしはすぐに声をかけたけど、完全に無視してまたどこかへ出かけて行った。……これ、絶対疲れてないよね。仕事休む理由って出かけてることに関係あるんじゃないの? 一体何しに行ってるんだろうか。くぅ……あたしが自由に動ければな……。


 その日と翌日、仕事が二日間休みになった、次の日の夕方のことだった。


 今日は真面目に仕事をして来て、父親はあたしを部屋に置き、自分は夕食の時間までベッドに寝転がってグダグダしてた。話を聞くにはいい感じだと思い、あたしが声をかけようとした時だった。


「ジヌ!」


 バンっと扉を開けて母親が部屋に入って来た。


「うおっ……な、何だよ、部屋には勝手に入って――」


「私、聞いたんだけど」


 かばんの中からじゃ顔は見えないけど、母親の語気はかなり強くて怒りがこもってる感じがする……何? 父親、何かやらかしたか?


「聞いたって、何を……」


「八百屋のご主人のプレダさん、趣味がギャンブルだって知ってる?」


「え……?」


「昔から南通りにあるギャンブル場で、月に一度と決めて遊びに行くそうよ。奥さん公認で」


「それが、ど、どうしたんだよ」


「そのプレダさんが、先日あなたを見かけたって言うのよ。ギャンブル場内でね。心当たり、ある?」


 ……休むたびに出かけてたのって、まさか、ギャンブル場?


「あ、ああ、行ったかもな。でも単なる気晴らし程度で、すぐに――」


「カードゲームで、あなたがすごい額を賭けてて、周りのお客さん皆が驚いてたって、プレダさんが教えてくれたんだけど……?」


 部屋が静まり返った。おそらく、母親は鋭く睨み付けて、父親はそれを受けながら頭の中で必死に言葉を探してるんだろう。


「……俺は、た、確かにギャンブル場で遊んだけど、高額な賭け金に、したことなんて……」


「正直に言って! 私がギャンブル場へ聞きに行けば全部わかることなんだから。仕事を休んで行ってたのは、ギャンブルをするためだったんでしょ? そこで、稼いだお金を使ってたから、生活費を入れられなくなったんでしょ? 違う?」


 長い沈黙が流れる。これが本当だったら、こいつ……。


「……別に、悪いことじゃないだろ。俺が稼いだ金なんだ。好きなことに使ったっていいだろ」


「あなたは大人でしょ? 一家の主でしょ? 使うにしても限度ってものがあるのよ。私はともかく、マリアに対しては大きな責任があるわ。娘の毎日の生活のために、お金を使ってあげようとは思わないわけ?」


「マリアには、お前の稼ぎがあるだろ。俺が金渡さなくても――」


「もう忘れたの? 私だけじゃギリギリなの! この娘はどんどん成長するのに、新しい服や靴も買ってあげられない! それは父親もやってあげるべきことなのよ? それなのにあなたはいつまでも子供みたいに、自分さえ遊べれば、自分さえ楽しければいいっていう頭でいる……父親だっていう自覚をしてよ!」


「そんなに金が足りないなら、お前がもっと稼ぎのいい仕事見つけろよ!」


「そうできるならやってるわ! でも女で学もない、力も体力もない私じゃ、給料の安い仕事にしか就けないのよ! 父親なら、責任を果たして!」


「金を入れることだけが父親の責任じゃないだろ!」


「ええそうよ。娘を育てて、家族を守る。そういうことも責任の内よ。だけどあなたはどれもやってないじゃない。やったって言えるの? マリアの好物とか、今年何歳になったか、答えられる? ろくに話そうともしない父親じゃ無理でしょうね」


「何を……馬鹿にしやがって!」


 ドスドスと父親が母親に詰め寄る足音が響いた。


「また私に平手打ちする気? 頭にくるとすぐ手を上げるの、悪い癖よ」


「お前が、俺を怒らせるからだろ!」


「悪いところを言われて、その通りだと思うからあなたは怒ってるんでしょ? 見当違いのことだったら、こんなに怒ったりしないものよ。……ジヌ、あなただって本当はわかってるはずよ。自分の行動の善悪ぐらい。ギャンブルなんかしないで、いい加減心を入れ替えてよ」


「うるせえ! 俺に指図するな!」


 パンッといつか聞いた乾いた音がした。そしてドスドスと怒りの滲んだ足音が部屋を出て遠ざかった。……腐れ親父は、もう芯まで腐っちゃったか。


「うう……これ以上は、駄目かも……」


 涙声の母親の呟きが聞こえた。


「お母さん……」


 様子をうかがうような小さな声がした……マリアちゃん、見てたんだろうか。


「マリア……ごめんね。怖がらせちゃって。でも大丈夫だから。いつもの喧嘩だから……」


「また、叩かれたの?」


「これは……平気。痛くない」


「でも、泣いてるよ?」


「痛いから泣いてるんじゃないの。もう、どうしたらいいのか、わからなくなっちゃって……」


「お母さん……泣かないで」


 うう、と声を押し殺したような嗚咽が聞こえた。……これは、傍観してらんない。


「やっぱり、あの夫とは早く別れたほうがいいよ」


「……え? 何?」


 涙声の母親が驚いた声を漏らす。


「あ、妖精さんの声……」


 トタトタ近付いて来る足音がすると、あたしのいるかばんの上からマリアちゃんの顔がのぞいた。久々に見る顔は今の状況もあってか、少し暗い表情をしてた。


「マリアちゃん、しっかり食べれてる?」


「うん。お母さんのお料理、全部食べてるよ」


 そう言いながらマリアちゃんはあたしをつかんでかばんから出してくれた。周りの景色がよく見える。と、部屋にノロノロと入って来る母親の姿が見えた。


「奥さん、このまま耐え続けても、あなたとマリアちゃんが不幸になるだけだって。決心したほうがいいよ」


「……私達の心配を、してくれてるの?」


 涙の滲んだ目がこっちを見る。


「そりゃ心配もするよ。ちゃんと生活費入れてると思ったら、まさかギャンブルに注ぎ込んでたなんて、呆れるどころか腹が立ちまくりよ! あたしは夫を遊ばせるために仕事で協力してんじゃないんだから」


「あ、ありがとう……でも、一緒になった頃のジヌは、仕事もちゃんとして、真面目だったのよ。その後、仕事をクビにされてから変わり始めて……何か、あの人が立ち直るきっかけでもあれば、また昔みたいに戻ってくれるかもしれないから……」


「だから、まだ決心はできないってこと?」


 聞くと母親は難しい顔で考え込んだ。


「正直、自分でもよくわからないのよ。早く別れてこの辛さから解放されたい気持ちもあるけど、その半面で彼を見捨てるような真似をしたくない気持ちもあって……」


「夫には困らせられてるけど、でも愛情がなくなったわけじゃないってことか」


「簡単には、答えは出せない……もう少し時間をかけないと……」


 家族をかえりみない上に妻に手を上げるやつなんか、離婚一択だと思うけど、まあ、他人のあたしには知る由もない、本人だけが持つ記憶の感情ってものがあるんだろう。そんなもの捨てろとか、ぞんざいなことは言うべきじゃないか。


「……わかった。じゃああなたは夫を支えるか、それとも見限るか、時間をかけて決めればいい。その間、あたしはあの人にお仕置きさせてもらうから」


「お仕置き……?」


「お尻ペンペンとかじゃないよ? あたし手とかないから。遊び呆けてる夫には、ちょっとばかし痛い目を見てもらったほうがいいと思うんだ」


「一体、何をするつもりなの?」


「まあ、次に仕事に行った時にわかるよ。どんな痛い目かは、ね」

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