九話

「ここが私の家だよ」


 立ち止まった少女はひそめた声で言った。目の前にあったのは、小さなレンガ造りの古めかしい家だった。ところどころひび割れた箇所や、つたの這った壁は見るからに手入れが行き届いてない様子で、正直綺麗とは言えない見た目だ。まあ、彼女はそういう感じの暮らしをしてるんだろう。別に珍しいことじゃない。


「話す時は、ちっちゃい声でしてね」


 家に入る前からこんなに声をひそめて……部屋に話し声でも嫌う人がいるんだろうか。それともご近所さんへの気遣い?


 少女は扉に手をかけて、そっと押し開く。そして足音を立てないように、ゆっくり、一歩ずつ進む。……何でこんなに静かにするわけ? 気になり過ぎてあたしは聞いてみた。


「ねえ、どうして静かにしないと――」


「しーっ! 話しちゃダメ!」


 囁き声で言われてあたしは黙った。どうしても静かにしなきゃいけない事情があるらしい。迷惑かけるわけにいかないし、仕方ないな……。


 玄関から忍び足で進んで行くと、すぐに居間があった。正面には食卓があって、左には台所がある。物が少なくて殺風景な部屋だ。でもよく見ると、壁や床、机の表面なんかにはいくつも傷だったり、へこんだような跡がある。それらのせいで部屋の中は余計古く、おんぼろな印象を受ける。至るところにあるけど、一体何の跡だろう……。


 居間を抜けて、奥へ続く廊下を進むと、少女の動きが一瞬止まった。右側に扉が半分開いた部屋が見える。その前を少女はさらにゆっくり、足音を消して歩く。この部屋に静かにする原因が……? あたしは通り過ぎる瞬間に部屋の中へ視線をやった。扉の隙間から見えたのは、一人掛けのソファーにもたれて酒瓶をラッパ飲みしてる男性の姿だった。茶の髪はボサボサで、着てるシャツの裾はだらしなくズボンからはみ出してる――一瞬だけ見えたその姿だけでも、その男性がどんな人で、どれだけ怠惰か、簡単に想像できてしまった。見た目の年齢からして、おそらく少女の父親……少女は、酒飲みのお父さんに近付きたくないんだろう。だから音を立てず、気配を消してるんだ。


 そのまま廊下を突き進むと、正面に扉があった。少女はそこを開けてくぐる。と、出たのは狭い裏庭だった。目の前には隣家と隔てる高い塀が立ってて、辺りの景色は全然見えない。地面には雑草が伸び、花や木が植わってる感じはなさそうだった。代わりに家の壁際に酒瓶や割れた食器なんかが置かれてた。ここはゴミ置き場にされてるようだ。


「ここなら話しても大丈夫だよ。あ、でもちっちゃい声にして」


 そう言いながら少女は地面にしゃがみ込んで、両手で持つあたしを見つめる。


「声をひそめるのは、お父さんがいるから……?」


 聞いてみると、瞬きした少女は少し暗い顔になった。


「お父さん、私がしゃべってると、すぐうるさいって怒るから……でも静かにしてれば怒らないよ」


 思った通り、そういう感じの父親なのか。まったく……。ってなると、頼れるのは母親のほうしかないな。


「お母さんは? 今家にいるの?」


 少女は首を横に振る。


「お母さんはお仕事に行ってて、夕方になんないと帰って来ないよ」


「そう……お母さんは、優しくしてくれる?」


「うん。いつも料理作ってくれて、私が寝る時も歌うたってくれる」


「へえ、いいお母さんだね」


 うん、と少女は微笑んで頷いた。……母親とはどうにかしてでも接触しなきゃ。でも夕方まで帰って来ないのか。


「ねえねえ、妖精さんは、どうすればここから出られるようになるの?」


「それは、さっきも言ったけど、魔術師の力がないと無理っぽくて……」


「マジュツシ……お母さんに聞かないとわかんない」


「だと思うから、あたしを助けてくれるのはお母さんが帰って来てからでいいよ」


「わかった。じゃあそれは後にして……妖精さんって何食べるの?」


「え? 何って?」


「お肉とか野菜とか食べる? お腹空いてるでしょ?」


 ……そう言われてみれば、あたし、空腹も食欲も、どっちも感じたことないな。ついでに眠気もない。それなのに意識を普通に保っていられるのは、そういうものを必要としない身体だからってこと、なのかな。今のあたしの見た目、金属の小箱だし。


「あ、気にしないで。あたし、お腹空かないたちみたいだから」


「何か食べたくならないの?」


「全然ならないんだよね。だから大丈夫」


「じゃあ妖精さんって、どうやって大きくなるの?」


 首をかしげた顔が真剣な眼差しで聞いてくる。……そもそも、妖精がどうやって生まれるのかも知らないし、成長の仕方なんてさらに知らない。って言うか、妖精は現実に存在する生き物なんだろうか。自分が妖精だって嘘ついたものの、何一つわかんない……。


「……多分、あれじゃない? 花の蜜とか、木の樹液とか飲んで、育つんじゃない?」


「そうなの? 虫と同じなんだ」


「そうそう。妖精って虫とあんまり違わないものよ。きっと」


「お家はどんなお家なの?」


「家は……葉っぱを重ねて作った家よ」


「服とか靴は? どうやって作ってるの?」


「えっと、装飾関係は、それ専門の職人さんがいて――」


 あたしは適当な作り話で質問に答えていった。そのたびに少女は興味津々に目を輝かせて、じゃああれは、これはと次々に質問をぶつけてきた。それにあたしはまた適当な答えを返す――そうして夕方まで時間を潰した。まあ、嘘を教えたのは悪いと思うけど、妖精だと信じて疑わないこの娘の期待を裏切っちゃうのも可哀想だし、純粋な心にはまだ夢を持たせてあげたいっていう気持ちのほうが勝ってしまった。


 日の光が差し込まない裏庭も、大分陰って暗くなってきた。日暮れ間近になって、少女もようやくしゃべり疲れたようで、あたしから視線を外すと、部屋につながる扉のほうへ目をやった。


「お腹空いてきた……お母さん、まだかな……」


 家の中には父親がいるけど、頼るのは母親……この娘の世話は、母親しかしてないんだろうな。


「――ただいま。マリア、いるの?」


 その時、部屋から女性の声が響いてきて、少女はすぐに反応して立ち上がった。


「お母さんだ!」


 あたしを抱えて、少女は扉を開けて中へ駆け戻る。


「お帰りなさい!」


「あ、マリア、そっちにいたの。ただいま」


 髪を一つに結った細身の、少女によく似た母親だ。食卓に買って来たらしい食材の入ったかごを置くと、両手を広げて娘を迎える。その胸に少女はあたしを手に持ったまま飛び込んだ。……ふーん、この娘はマリアちゃんっていうのか。


「お腹空いた。今日は何作るの?」


「今日はキノコと干し肉があるから――」


 バタンと大きな音がして、二人の会話が止まる。母親に抱き付いてたマリアちゃんがそろりと振り返った先を見れば、扉が半分開いてた部屋から、酒瓶を片手に男性――父親がふらふらと出て来るところだった。


「おい……」


 酒のせいか少し赤い顔の父親は不穏な声で呼ぶ。


「ジヌ、ただいま……またお酒飲んでるの?」


「……つまみは買って来たか」


「悪いけど、そんなものまで買う余裕はなくて……今日も仕事探しには行って来たんでしょ? どう――」


「何で買って来ないんだよ」


 父親の声と表情が暗くなってこっちを睨むように見てくる……何か、嫌な目付きだな。


「私だけの稼ぎじゃ、三人分の食費でギリギリなの。知ってるでしょ? 給料が少ないのは」


「ギリギリってだけで、足らないんじゃないんだろ? なら一つぐらい買って来いよ」


「お金全部使ったら、この娘が病気になった時とか、万が一の時に困るじゃない。少しは蓄えも――」


「俺の唯一の幸せな時間を、お前は奪うのか?」


「わかってよジヌ。私だけの稼ぎじゃ限界があるの。だから早くあなたも仕事を見つけて。そうすれば前みたいに――」


「仕事なんて、クソだ。ちょっと失敗しただけですぐクビにしやがる……探したって無駄だ」


「それは、あなたに合わなかっただけよ。探してればあなたに向いた仕事が見つかるわ」


「どうだか……俺は身体使ってせかせか動く仕事は向いてないんだよ。でもこの街じゃそんな仕事ばっかりだ。ここじゃ向いてる仕事なんて見つかりゃしない」


「じゃあ探さないって言うの? どうせないからって、家でぐうたらしてる毎日を過ごすつもり?」


 これに父親の目が鋭く向いた。


「ぐうたら? 俺が苦しんでるのに、そんな言い方をするのか、お前は」


「苦しんでるのはこっちだって同じよ。あなたがクビになったから、早起きして仕事を掛け持ちして、家に帰れば全部の家事をして、マリアと遊んであげる時間もないの。それなのにあなたは、たかが二回クビにされただけで、まるでこの世の終わりみたいに絶望してお酒に逃げて……それでも一家の主なの?」


「何だと……?」


「私にはマリアっていう掛け替えのない存在がいるの。この娘を思えば、仕事での辛さなんて何とも思わないわ。ジヌ、あなたも私と同じ思いなら、お酒に逃げたりしないで真面目に仕事探しをしたらどうなの? 向いた仕事が見つからないのなんて、苦しいうちには入らな――」


 ガシャンっと派手な音が鳴って、マリアちゃんの身体がビクッと震えてあたしの視界も同時に揺れた。見れば父親が壁に投げ付けた酒瓶が粉々に砕けて床に散らばってる。その壁にはガラスで傷付いた跡が残ってた。……そうか。あちこちに残る跡は、この人の仕業か。


「なめた口ききやがって……俺の妻なら、夫を助けて労わってやろうって思わないのか!」


「私は十分に労わってきたわ。でもあなたは一向にお酒を手放さないじゃない。マリアのことだって邪険にして……このままじゃ、もう私、あなたに付き合い切れないわ」


「付き合い切れない、だと……? おい、そりゃどういう意味だ。はっきり言ってみろ!」


 怒りの形相の父親がつかつかと詰め寄って来た――ま、まずい状況なんじゃ……。


「マリア、離れて……」


 母親が小声でマリアちゃんを押し離した。その直後に父親は自分の妻の腕をガシッとつかんだ。


「俺と別れるって言うのか? ええ?」


「あなたが変わってくれないなら、その選択肢も考えなくちゃいけなくなるわ」


 パンッ、と乾いた音が鳴った。この人、妻に手を上げた……。


「お母さん!」


 マリアちゃんが泣きそうな声で父親にしがみ付いた。


「やめて! 叩かないで! お母さんが可哀想!」


「マリア、お前は、どいてろ!」


 肩を強引に押されて、マリアちゃんは床に尻もちをついた。その衝撃であたしも床にガタンと落ちた。……この腐れ親父、自分の家族に愛情ってもんを持ってるなら、こんな真似できないはずだ。親としても人間としても、これは許せない。


「こんなことしたって、何の解決にもならないわ」


 母親は歪めた表情で夫を見つめる。


「俺はそんなこと聞いてないんだよ! お前は俺と別れたいのか? どうなんだ!」


「別れたくないわよ。でも、このままあなたが――」


「正論に逆切れしてビンタしてくるような男とは、さっさと別れるべきよ!」


 あたしの声に、夫婦は一瞬きょとんとしてからこっちを見下ろしてきた。


「……今のは、何だ」


 父親の視線があたしの後ろにいるマリアちゃんに向く。


「マリア、お前が言ったのか」


「い、言って、ない……」


 怯えた声で返したマリアちゃんは、すぐにあたしをつかんで腕の中で抱えた。


「マリアの声じゃなかったわ……」


 母親が不安げに辺りを見渡し始めたのを見て、あたしは言った。


「驚かせちゃってごめんなさい。でもひどすぎて黙ってられなかったのよ」


 ハッと振り向いた二人が、今度こそあたしのほうを見て目を丸くした。


「……まさか、その箱か?」


「それが、しゃべったの……? マリア、それは何なの?」


「何でも、ない。何にも入ってないよ……」


 少し震えた口調でマリアちゃんはあたしをかばった。心配してくれてるのかな。優しい娘だな。でもこんな状況、ぼーっと見てられないよ。


「あたしが言ったのよ。箱の中のあたしがね」


 もう一度しゃべると、夫婦はさらに目を見開いてこっちを凝視した。


「本当に、しゃべってる……」


「何がしゃべってるんだ……? マリア、その中には何が入ってる」


「何にも、ない……」


 マリアちゃんはあたしの視界を塞ぐように、ギュッと両腕で抱え込む。


「しゃべってるのに何にもないわけないだろ。俺に嘘をつくな」


 強い口調で言われてマリアちゃんはしばらく固まってたけど、睨まれでもしたのか、おもむろに口を開いた。


「……妖精さんが、いるの」


「は? 妖精?」


「あっちの道に落ちてて、拾ったの……ここから、出られなくなっちゃったんだって。だから、助けてあげようと思って……」


「マリア、嘘をつくなって言ったはずだぞ」


「ほ、本当だもん! この中には妖精さんがいるんだもん!」


「マリアちゃんは嘘を言ってないから。あたしは現にこの箱に閉じ込められてるの。妖精かどうかはわかんないけどね」


「妖精じゃなかったら、一体何だっていうの? 流暢に人の言葉を話すなんて、気味が悪いわ……マリア、それお母さんに渡して」


「え、何で……?」


「得体の知れないものを持たせるわけにいかないわ。変なことをそそのかされでもしたら大変でしょ?」


「やだ……妖精さんと一緒にいたい」


「危険があるかもしれないじゃない。駄目よ。渡して」


「やだやだ、一緒にいる! 助けてあげるの!」


「マリア、言うことをきいて。これが本当に妖精かどうか――」


 母親の言葉が終わらないうちに、あたしはマリアちゃんの腕から引き抜かれるように持って行かれた。


「ああっ、返して!」


 後ろからマリアちゃんの悲痛な声が聞こえる。そしてあたしの視界に映ってるのは、赤ら顔で口角を上げてる父親――間近で見ると、もっと嫌な感じだ。


「お父さん、返して! お願い!」


「静かにしろマリア。捨てたりしないから安心しろ」


「ジヌ……それ、どうするつもりなの? 捨ててきたほうが――」


「そんなもったいないことするかよ。……お前は、俺に働いてほしいんだろ?」


「もちろん。……何を考えてるの?」


 父親はこっちを見つめながら、ヒヒっと笑った。


「これを稼ぎの種にするんだよ。まさに名案だ」

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