七話
「ただいまー……ふふふ」
彼女の家に着いたらしい。同居人でもいるのか、そう声をかけた後に、低い笑い声が続く。ここまでの道程もそうだったけど、あたしという小箱を手に入れて、彼女は終始ご機嫌な様子だった。顔は見えないけど、時々今みたいな笑い声が聞こえたから、きっと相当期待を持ってるんだろう。
「いろいろ準備するから、しばらく待っててね」
革貼りのかばんから取り出されたあたしは、側の机の上に無造作に置かれた。……この部屋、ペトルさんの家にも増して暗いな。窓は見当たらない。天井にはランプがぶら下がってたけど、火は灯ってなく、代わりに蛍みたいな小さな光が入った瓶がいくつも吊り下げられてた。それが一応光源となって部屋を照らしてはいるけど、遠くは全然見えない。それでも見える範囲に目をやれば、正面に木製の大きな棚があった。そこにはたくさんの半透明のガラス瓶が並べられてて……ん? 何か、中身動いてない? 黒っぽい物体が……あ、あっちの瓶にも入ってる。中で動く何かが内側から瓶を突いてカチカチ音を鳴らしてる。耳を澄ませば、ガサガサ、ギイギイ、フゴフゴ……何なのか想像したくない音があちこちから聞こえてきた。ちょ、ちょっと、あの瓶の中って何がいるのよ。まさか……いや、まさかね。多分虫とか小動物を飼ってるんだ。飼ってる……っていうには、数が多過ぎる気はするけども。
「――これでいいわね。あと他に……そうだ。道具用意しておこう」
視界の外で女性が何やら作業をする気配があるけど、動けないあたしは物音を聞いてることしかできない。何してるんだろう……封印を解くんだから、その準備ってこと? でも解く方法って魔法じゃないの? 道具なんて必要なさそうだけど――すると、あたしの前を女性がぶつぶつ言いながら通って行った。
「ハサミにノミにノコギリっと……数年ぶりに解剖できたらいいな。ふふ……」
道具を抱えた女性は、ほくそ笑みながら通り過ぎる――解剖? 確かにそう言ってた。何を解剖するっていうの? ……え、本気? あの人、悪魔を解剖する気なの? それであの道具……いやいや、中身が悪魔だったらの場合で、あたしは悪魔なんかじゃないから大丈夫……だよね? でもあたし、記憶ないし、自分が何なのかもわかってないし、もし、万が一悪魔だって判明しちゃったら、あのノコギリで身体、ギコギコ切断されちゃう……? そ、そんなことにはさすがにならないよね? あたしが、悪魔であるわけが……あるわけが……ないって言えない状態が、怖い。ペトルさんも言ってた。こういう封印は、危険や悪いものを封じてることがよくあるって。ならあたしは、悪い存在っていう可能性も……記憶がないから、思い出せてないだけで、実は人間じゃなく、悪魔だってこともあり得るんじゃ……。
「お待たせ。じゃ、始めるからね」
そう声がしたと思うと、あたしは見えない後ろからつかまれて、部屋の奥へ持って行かれた。そこで見たのは、床に描かれた大きな円。その中には幾何学模様や読めない文字がびっしり書かれてる。何だ、これ。おしゃれで描いた模様とか、落書きって感じでもなさそうだし――すると女性は、あたしをその謎の円の中心にそっと置いた。
「結界は……大丈夫ね」
女性が床の模様に触れると、その描かれた線が淡い光を放った。……結界? 何か聞いたことはある。悪いものを寄せ付けないための、魔法の壁みたいなものだっけ。つまり、あたしが悪魔だとしたら、小箱から出れても、この結界のせいで結局自由にはなれない……ってこと? そして捕まってこの人に解剖される――もしかして、最悪の結末に突き進もうとしてない? いや、すでに最悪の状況に陥ってるのか?
「……何が出るのか、楽しみ」
結界から離れた女性は、あたしに向けて右手をかざすと、口の中で呪文を唱え始めた。それに反応するように、黒い長髪が静電気でも帯びたみたいに、わずかにふわりと広がった。……始まっちゃった。封印が解かれちゃう! ど、どうしよう。このままじゃあたし、小箱から自由になれても、すぐ殺されるかもしれない。そんなの嫌だよ! 内臓取り出されて死ぬなら、ゴミ箱に捨てられたほうがましだ! 呪文を止めて! 今すぐ止めてよ!
でも思いが届くはずもなく、女性は呪文を唱え続けてる。どうにか妨害できないかな。だけどあたし、動けないし、聞こえない声で叫ぶ他には……封印解くな! どっか行ってよ! あたしはこんな不気味なところで死にたくないの! あんたに解剖なんかされたくない! 悪魔に会いたいなら他を当たってよ! 探せばいくらでもいるんでしょ? その辺のことよく知らないけど。だからとにかくやめて! あたし使って研究とかしなくていいから! 迷惑なんです! しばらく小箱に引きこもっていたいんです! 放っておいてください! お願いだから――私の魂の叫びに、女性は無反応だった。ガタガタと蓋が震えるような嫌な音も聞こえてきた。もうすぐ封印が解かれる――そう感じて、あたしは無意味とわかってても、精一杯の叫び声を上げ続けた。
それ以上唱えないで! あたしは「死にたくない!」
その異変に思わず叫びが止まった。……あれ? 今、自分の声が妙な聞こえ方になったような。やけに鮮明に、はっきりと大きく聞こえた感じがあったけど。
ふと見ると、呪文を唱えてたはずの女性も、ハッとした表情をしてこっちを見てた。かざしてた右手がゆるゆると下ろされて行く――魔法が、止まった?
「……驚いた。しゃべれるんだ」
ニヤリとした女性がゆっくりこっちへ近付いて来る――な、何? しゃべれるって、あたしに言ってるの?
目の前でしゃがんだ女性は、指先であたしを小突くと聞いてきた。
「あなたは、何者?」
「わかってれば、こんな苦労してないし」
「ふーん、そう嘘を言ってごまかすつもり?」
……え? 会話が、成り立ってる?
「……あー、あー」
「何? 次は馬鹿になったふり?」
女性は軽蔑めいた笑いを浮かべる――あたしの声、聞こえてるの?
「……あの、もしかして、この声、全部伝わって、聞こえてたりする?」
「は? 自分じゃ聞こえてないつもりだったの? 随分とうるさい独り言ね」
あたしはしばらく呆然とした。そして感動がどこかから、じわじわと湧き上がって来るのを感じた。どういう理由か知らないけど、やっと、やっとこの声を誰かに伝えることができるんだ! 意思疎通……これこそあたしが求めてたもので、生きるための術。よし、これで解剖死を回避できるぞ……!
「……ちょっと? 寝ちゃったの? おーい」
「起きてるから。お話、しましょう」
「な、何急に……まあ、こっちも聞きたいことあるから――」
「封印解くの、一旦やめてもらえますか?」
「え?」
「解剖されて死ぬなんて、あたし嫌だから」
率直に伝えると、女性は唖然として見てきたけど、すぐに疑念の眼差しになった。
「今までしゃべれないふりして様子をうかがってたなんて、悪い子だな……」
「ふりじゃなくて、本当にずっとしゃべれなかったの。でもどういうわけか、いきなり声が伝わるようになって――」
「そんなことより、今度はごまかさずに言ってよ? あなたは、何者なの? ちゃんと言わなきゃ、そこから引きずり出して命の保証のできないことをしちゃうから」
微笑む女性があたしを見つめる――この人の笑顔って、どれも何か不気味だな。
「悪魔じゃない……と思う」
そう答えると、女性はおもむろに右手をかざして呪文を唱え始めた。
「なっ、何でよ! 言ったじゃない!」
「私の質問には正しく答えて。あなたは何者かって聞いたのよ? 自分じゃ違うってものを聞いたんじゃない」
あ、そうか。確かにそうかも。でもな……。
「あたし、記憶がまったくなくて、自分が誰なのか、さっぱりわかんないんだよね」
これに女性は片眉をピクリと上げると、再び呪文を唱え始めた。
「待って待って! 嘘じゃないんだって! 本当に記憶がなくて困ってるんだから!」
「こんな嘘が通ると思われるなんて、私もまだまだ魔術師としての威厳が足りないみたいね」
「信じてよ! ここに封印されてる状況すらわけわかんなくて、もうどうしたらいいのか自分じゃできることもなくて、そしたら急に声が伝わるようになって……つまり、自分のことを何にも理解できてないってことなの!」
あたしは必死に伝えたが、それを聞く女性の目は明らかに疑ってる。
「そ、そんなに疑うなら、いいわよ。封印、解いてみたら?」
「やめてほしかったんじゃないの?」
「そっちが信じてくれないんだから、ここから出て正体を見せるしかないじゃない。ただし、すっごく怖い悪魔だったとしても、後悔しないでよね。何せ自分のこと何にもわかってないから、出た途端どうなっちゃうか――」
こっちが懸命の覚悟で話してるっていうのに、ふと見ると女性はつまらなさそうな顔であたしを見てた。
「……ちょっと、聞いてる?」
「……聞いてる」
さっきまでの様子と明らかに違う。準備段階でのワクワクした感じがすっかり消えて、今は説教を聞かされてる子供みたいな表情になってる。
「ねえ、どうかした? 疲れたの?」
「別に。がっかりしただけ」
「え? 何に?」
女性の冷めた視線がこっちを見つめる。
「あなたに決まってるでしょ」
「あたし……?」
な、なぜ? こっちは状況を伝えてただけなのに……それでがっかりするの?
「あなたの話し方とか雰囲気で、これ悪魔じゃないなってわかっちゃったわ」
「……あ、あの、それって、あたしの正体が、わかったってこと?」
「違う。あなたの正体はわからないけど、少なくとも悪魔じゃ絶対にないってわかっただけよ」
「どうしてわかるの? 何か、悪魔の気配を感じないからとか?」
「それも少しあるけど、あなたの話し方って必死感が強いんだよね。悪魔ってそういう感じでしゃべらないから」
「じゃあ、どんなふうにしゃべるの?」
「知能の程度によるけど、大体は二通りね。尊大に上から目線でしゃべるか、相手の気を許すために穏やかに優しくしゃべるかよ。でもあなたはそのどっちでもない上に、記憶がないなんてわかりやすい嘘をついた」
「嘘じゃないんだってば! 記憶は本当に――」
「その真偽は置いといて、たとえ知能低めの悪魔だとしても、記憶がないなんて下手な言い訳、私のこれまでの研究じゃ一度も聞いたことがないわ。悪魔ならもう少し上手な嘘を考えられるはず。向こうは私達人間のこと、よく知ってるから」
呆れて馬鹿にしたような顔で女性は説明する――もしかしてあたし、悪魔より馬鹿って言われてる? 気のせいかな。
「ってことで、もうあなたに用はなくなっちゃった」
そう言うと女性はあたしをつかんで机の上に戻すと、揃えた道具を片付け始めた。
「そっちに用はなくなっても、こっちにはまだあるから!」
「私に何の用があるの?」
棚の引き出しにハサミをしまいながら女性は背中を向けたまま聞く。
「もちろん、封印を解いてもらうことよ」
「解呪するなとか、やっぱりしてとか、コロコロよく変わる……そういう態度は相手に信用されないよ?」
「それは、そっちが悪魔なら解剖するとか言ったから、身を守るために言ったことで……でももうあたしが悪魔じゃないってわかったんでしょ? それなら怖がる必要はないわ」
「アジュ」
「……え?」
女性はあたしに振り向くと、腰に手を置いて言う。
「私の名前はそっちじゃなくて、アジュよ。あなたは?」
「あたしは……だから、記憶がなくて、名前も……」
「チッ、引っ掛からなかったか」
「……ちょっと、あたしの話、まだ嘘だと思ってるの? 記憶がないのは本当だから! いい加減信じてよ!」
「はいはい。信じますよ」
「それ絶対信じてないじゃん!」
女性――アジュさんは道具をしまい終えると、棚に置かれたガラス瓶の中の様子を見始める。
「あなたが悪魔だったら、解剖したものをここに並べるつもりだったんだけどな……」
「……もしかして、その中に入ってるのって、全部悪魔?」
「大丈夫。無害化してあるから。生命力が強い個体は、バラバラになっても動いたりするけど、ただそれだけだから怖いことはないわ」
まさかのまさかだったか……あそこに並べられなくてよかった。
「……ところで、あたしの封印、早く解いてほしいんだけど」
アジュさんはくるりと振り返ると、こっちを怪訝な目で見つめてきた。
「……何? 何か問題でも?」
「正体がわからないのに、安易に解呪するのは、ねえ……」
「悪魔じゃないんでしょ? なら危険はないじゃない」
「危険は悪魔にだけあるものじゃないし。むしろ私にとっては、悪魔以外のもののほうが危険になる可能性もあるわ」
「どういう、こと……?」
「私は悪魔研究者だから、悪魔への対処法は完璧よ。こうされたらこう返すって頭がわかってる。だけどそれが専門外のもの……たとえば精霊とか、獣の類だったら、咄嗟に対処できるかどうか、正直自信ないわ」
「獣ってことはないでしょ。だってしゃべれないし」
「そんなことないわ。霊力や魔力を持った獣はまれにいて、そういうのは人間の言葉をしゃべることもあるって、昔本で読んだことあるわ」
「そ、そうなの? なら、そうだった場合の準備をしておけばいいじゃない。そこの結界? 使うとかさ」
「これは悪魔用に私が独自に作ったものだから、他の生物に効果があるかわからない」
「じゃあ効果あるものを探したり、誰かに協力を頼んだら?」
するとアジュさんは目を細めて、鬱陶しそうにこっちを見た。
「悪魔じゃないものに、そこまで手間をかけろって言うの? ……面倒くさ」
困ってる相手に対して、面倒くさって……この人、悪魔研究し過ぎて人間の心忘れてない?
「面倒くさいことさせるのは申し訳ないと思うけど、でもあたし封印されたままじゃ何もできないし、自由になれないから、出せる人に助けてもらわないと――」
「あなたの気持ちはわかるけどね……さっきも言ったけど、正体がわからない以上、こっちには危険があるから」
「じゃあ、正体さえわかればいいってことでしょ? 魔法でどうにか探って、あたしが何なのか調べてよ」
これにアジュさんは、苦手なものでも目の当たりにしたような、嫌で遠ざけたそうな目付きでこっちを見た――聞こえる。面倒くさって言う声が、はっきりと。
「お願い、封印解いてよ! あたし悪いことなんてしないし!」
「悪いやつは大抵そう言うものよ。改心した、反省した、もう迷惑はかけないってね。口だけなら聖人にもなれるわ」
「あなたしか頼れる人がいないんだってば! 封印を解ける人だって――」
「それなら心配ないわ。別の頼れる人を紹介してあげる」
「……え? 紹介?」
アジュさんは机に手を置くと、ニッと笑った。
「私の知り合いに、あなたみたいないわく付きの品やガラクタを収集してる人がいるの。別にそれは私みたいに研究とかが目的じゃなくて、ただ趣味で集めてるだけなんだけどね」
「その人のところへ持って行く、っていうの?」
「そう」
「そうって……あたしは封印をどうにかしてほしいわけで、コレクションの一部になって保管されたいわけじゃない!」
「話は最後まで聞いて。彼は親が金持ちでね、そのおかげで顔が広いの。各方面から情報を仕入れては、いわく付きの品を集めてるそうよ。その逆もあって、彼の収集品の噂を聞いた人が、興味を持って譲ってほしいって来たりもするわ。彼は頑固な性格じゃないから、交渉がまとまれば品物を手放すことも惜しまないわ。私もそれで前に、悪魔のミイラを買い取ったことがあるし」
「つまり、買い取って封印を解いてくれる人を待て、と……?」
「簡単に言えばそういうこと。正体がわからなくても、あなたに興味を持ってくれる人は必ず現れるわ。どのぐらい先か、予想はできないけど」
アジュさんはおもむろにあたしをつかみ上げた。
「っていうことで、封印に関しては私じゃなく、次の持ち主を頼って」
「ちょ、ちょっと、あたしの意思は無視なの? ただ封印解いてくれれば、こっちはそれでいいんだけど」
「私は悪魔以外に興味ないの。危険冒してまで解呪する気ないから」
「そんなのひどいじゃない! あたしはあなたが自由にしてくれるって期待してたのに!」
「あなたの勝手な期待なんて知らないから。それは次の持ち主にして」
「じゃあせめて、次の持ち主が見つかるまで責任持ってあたしの――」
「こう見えて私、忙しいの。悪魔退治の仕事も入ってるし。あなたの世話焼く暇ないから」
するとアジュさんは壁際にある本の積まれた机の引き出しを開けて、そこにあたしを入れた。
「来週には持ってってあげるから、それまでここで大人しくしてて」
「待ってよ! もう少し話を――」
引き出しを静かに閉められて、あたしの視界は真っ暗になって何も見えなくなった。引き出しの板越しにわずかな物音は聞こえるけど、アジュさんが近くにいる気配はもうない――この人も結局、封印を解く勇気はなかった。やっと声が届いて、こんなに会話してるのに、何でそんなにあたしのことが怖いの? 嘘は一つも言ってないのに……。でも、捨てられるよりはましか。次は収集家のところへ行くらしいし、間違ってもゴミ扱いはされないだろう。あたしの正体も、少なくとも悪魔じゃないってわかったことだし、自由になれないのはもどかしいけど、ここは前向きに考えよう。そして焦らず、気長に構えておこう。何度もがっかりして精神やられるわけにいかない――って自分を励ましてみたけど、やっぱりしばらくは溜息が止まりそうにないな。
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